彼とオレと弟と。
【兄貴と弟と兄貴の彼氏】
高い空を行く雲と地上とのコントラストが、猛暑日という今日の暑さを現していた。
からりと晴れて明るい空とは一変、泉の歩くアスファルトは黒い色で焦げている。
きっと卵を落としたらすぐに目玉焼きが出来るんだろう。熱気はサンダルを隔てててもなお泉の素足に手を伸ばして来て、それから逃げるように泉は早足で道を行く。
空と地面からの熱線に曝されながらも、泉の機嫌はそう悪いものではなかった。
というのも今日から世の中は盆であり、夏休みに入ってからも部活に励んでいた泉たち西浦野球部もさすがに今日明日は休みになったからだ。
本当にたまの休みだが、野球が好きで日夜練習に励んでいる泉である。野球の他はあることを除きやりたいことが無いため、泉はその「あること」をしに外へ出掛けた。
出掛けに寄ったコンビニで買ったものをぶら下げて、目的地であるアパートのドアを叩く。
合鍵は持っているが、驚かせてやる為にアポなしで来たのだ。自分だと気付かれないようできるだけ丁寧に金属のドアを叩くと、ややあって内側から開かれる。
当然、部屋の主が出迎えるだろうと思っていた泉は、主の替わりに現れた人物を見て作りかけていた笑顔を凍らせた。
部屋の主とは全く違う短い黒髪と、メガネの奥の生意気そうな吊り目。泉よりやや低い位置から泉を見る彼は、泉と同じように怪訝な顔をしてのたまった。
「……泉さん。」
「あからさまに嫌そうな顔すんなよ!」
「あっ、ちょっ、おまえ何勝手に応対してんの」
「だってトイレ入ってるから。」
「浜田これどーいうことだよ。」
玄関先で両者睨み合う中、部屋の奥から水が流れる音がして、トイレからまた一人現れた。
彼こそがこの部屋の主の浜田である。少しタイミングが悪かったようでTシャツの裾が一部ハーフパンツに仕舞い込まれてしまっているが、それを直す隙は与えられなかった。
ドアを隔てて睨み合っている二人が同時に浜田を振り返り、責めるように問うて来る。
怒気を孕むその視線二人ぶんを何とか遮ろうとしたわけではないだろうが、反射で手のひらを目の前に翳した浜田は、二人の剣幕にすっかりびびってしまっていた。そして述べた言葉はもう少し熟慮すべきだったと、聞いた二人は思ったのだった。
「ええと、あの、ごめん?」
全く頼りなげにしぼんでしまった浜田から目を逸らし、出迎えてくれた少年が再度泉を見た。それを受けて泉もやや上から彼を見返す。
「九州くんだりからわざわざ来たのかよ。」
「ええ。兄弟水入らずの盆休みなんですが、泉さんは何か用ですか?」
にこりともしないで慇懃無礼な口を利く。相変わらずのその態度に、泉は彼が苦手であることを再認識した。
感情の起伏に乏しい、一つ下の少年。
彼は誰あろう、泉の恋人である浜田の実弟である。
―― 彼とオレと弟と。
昔から互いに邪魔だと思っていた存在だ。
浜田とその弟は二つ違いであり、浜田の一つ下の泉がその間に入るとどちらとも同じくらいの接点が出来る。泉が進んで関わりたいのは浜田兄のほうであったが、弟のほうも兄と泉の入っていた小学校の野球クラブに入っていたため、嫌でも接点があった。
何せ、弟も相当浜田が好きだったのである。いわゆるブラコンというやつだ。
泉は野球も好きだが弟は浜田がいるからクラブに入ったようなものだったし、あまり社交的な性格ではなかったので浜田以外には慣れず、浜田にべったりだった。
つまり、泉とは浜田を取り合う仲だったのだ。
小学校を下がっても三人揃って中学の野球部に所属し、泉は二年しかない浜田との時間の半分を弟に邪魔され、弟は弟でたった一年だけの時間を泉に邪魔されたため、全くもって互いに良い印象など抱いていない。
しかし浜田が中学校を卒業する年、浜田の家族は彼を残して父親の実家がある九州へと引っ越した。
当然浜田の弟も両親について行き、長かった彼との戦いも幕を下ろした。と思っていた。
高校に上がってから泉の恋がようやく実り、また浜田は一人暮らしをしている為にいちゃいちゃしていてすっかりこの存在を忘れてしまっていた。
しかし彼が弟でなくなったわけではない。さらにブラコンレベルを上げて帰って来たのだ、まさか中坊の分際で九州から埼玉まで飛んでくるとは。
ち、と泉は舌を鳴らした。わざわざ食べていたアイスから口を離してまで舌打ちをしたい気分だったのだ。
それを同じようにアイスを食べながら隣で聞いた弟は、小さくため息をついた。
「生活費を自分で稼いでる兄ちゃんにお昼たかっといて、ため息つくのやめてください。」
「たかりに来たわけじゃねーよ! 差し入れにアイス持って来たし! テメーに食われたけどな!」
「泉さんも差し入れのアイス食べてるじゃないですか。」
「浜田が二人で食えっつったんだからしょうがねーだろ……!」
あの玄関先での衝突の後、とりあえず上がれよと部屋に招かれた泉は浜田兄弟と昼飯を食べた。メニューは夏らしく冷やし中華だったのだが、もう出来るところだったので一人分が足りず、浜田は別にそうめんを茹でて食っていた。
そしてデザートも足りなかった。泉が浜田と二人で食べるつもりだったコンビニのアイスも、浜田は弟と泉で食べなさいと言って洗い物をしている。
だから、本来まったりとした食後の一時を、泉は敵である浜田弟と並んで過ごしていた。
互いに会話をする気がないのでテレビをつけてはいるが、ばかみたいに明るいバラエティー番組もまったくおもしろくない。このつまらなさと来たらゴルフ中継並みだ。むしろおもしろくないのに笑っている出演者に怒りすら込み上げて来る。
早く浜田が帰って来ないかな。そんなに弟と待つのが嫌なら洗い物の手伝いに立てば良かったのだが、泉は頭が熱くなっていて気付かなかった。
「おーし洗い物終わったー。」
「おーお疲れ。」
「兄ちゃん、アイス食う?」
「あ、じゃあひとくち貰おっかな!」
洗い物を終えて再び部屋に戻って来た浜田に、弟がアイスを差し出す。嬉しそうにそれをひとくち食べる浜田のそばで、弟が泉を見た。
あまり表情の変わらない浜田弟であるが、長年彼と戦って来た泉にはそれがドヤ顔だとわかる。見た瞬間メガネ叩き割ってくれようかと思ったが、浜田が「泉、差し入れありがとーな」と和やかに笑うのでやめた。焼け石に水程度ではあるが、落ち着こうと思った。
「そんでさー、オレこれからバイト行かなきゃなんだわ。」
「ハァ?! テメー今日休みの筈だろ!」
ちなみに泉は浜田のシフト表のコピーを持っている。
今日来たのも浜田とまったり過ごすつもりでいたから機嫌も良かったのだ、ここに来るまで。
「さっき電話あってさあ、今日忙しいからピークだけでも出てくれって。だから早めに帰ってくるけど、夕飯までに間に合うかわかんねーから、これで済ませて。」
浜田は言いながらテーブルの上に手を伸ばし、革の長財布から千円を三枚出して財布だけを端末と一緒に尻ポケットへ突っ込んだ。
出された三千円は弟に渡る。しかし一人で食べるぶんには多く、また小遣いも貰ったからと返そうとするのだが、浜田は手を出さなかった。
泉と浜田の目線が合う。浜田の笑顔はいつだって好意的に受け止めてきた泉だったが、今回ばかりは嫌な予感が先だった。
「泉せっかく来たんだしさ、こいつ一人にしとくのも何だし、オレが帰るまで一緒に居てくれねーかな。」
「えっ」
「あ、そーだ二人で夕飯作ってくれてもいいし! ……と思ったけど、泉は料理向いてないかもな……」
「ソレどういう意味だ。」
「ともかく留守番よろしく! 早めに上がらせてもらうからさ。」
行ってきます、と浜田は笑顔でバイトに行ってしまった。
なんということでしょう。顔が引き吊りっぱなしの泉だが、他でもない浜田によろしくと言われては帰れない。
別に留守番をすることは構わないが、あの浜田弟と一緒にと言われては今から挫けそうだ。
こいつと夜まで一緒? 何話せって? 呆然と浜田が消えた方向を見つめていた泉に、弟がぽつりと呟いた。
「泉さん、料理できないんですか。」