マヨヒガ花文庫 | ナノ



雨と狐

 


「おい、みはし、…三橋。」


 どかどかと家の床を鳴らしながら、少し前から姿の見えない相手の名を阿部が呼張る。
 その声に雨の音が被さる。屋根をまばらに叩くそれはそう大きなものではなく、かといってしかし外に出ようと思うようなものでもない。かれはきっと家のなかにいるのだろうが、わりとだだっ広い家なのですぐには見つけられず、阿部は少し前から家の中をぐるぐるしていた。

 自分の声と雨音だけが、廊下の先まで空しく響く。
 いつもは呼んだら出てくるのに。少し気が滅入ってくるが、これも湿気のせいだ、とやや声を張って次のふすまを開けた。

 そこは外庭に面した、縁側のある小さな部屋だった。外の障子が開けられており、その陰に見慣れた三角耳の頭が横たわっているのを見て、阿部は一瞬、胸がどきりとした。


「……、みはし?」

「……ん……」


 探していたかれは、縁側で横たわって瞼を伏せていた。おそるおそる寄って肩を揺さぶると、みはしは小さく唸り、薄い金色の睫毛を震わせた。
 別段、とくに何かあったわけではないようだ。心の中で胸をなで下ろし、阿部はみはしの隣に坐った。滅入った気を散らすように癖気味の柔らかな髪をくしゃくしゃに撫でる。が、みはしのほうは、気だるげにただ睫毛をしばたたいた。

 いつもなら阿部の行動にはおかしな反応をするはずのに、今日に限ってそれが薄い。
 やはりどこか具合が悪いのか。心配になって問うと、みはしは阿部の手の下で、体にうまく力が入らないのだと目を細めた。


「力?…なんだ、風邪か。」

「う…ちが。…きっと、あめ…」


 長くも濃くもない睫毛が、ただ淡い色で光っている。眠たそうに落ちるその陰で、丸い瞳が揺れていた。
 本当にだるいのらしい。猫にするように頭を撫でてやると、気持ち良さげに瞼を伏せて阿部の手に好き勝手させている。

 あめ、雨ねえ、と手はそのまま、阿部は庇の向こうの空を眺めた。鉛色というには白過ぎる曇天から、ぱらぱらと雨粒が落ちている。
 風がないため天から地へまっすぐ落ち、尾がまるで糸となり世界を繋いでいるようだ。
 それがぱたぱたと落ちては、地面の水鏡が震えて土の匂いと湿気が散った。しばらくそれを眺めていた阿部は、ああそうか、とみはしの不調のわけに思い至ってつぶやいた。

 狐の変化であるみはしは火を司り、以て火の性質がつよい。だから湿気ると調子が出ないのか、と単純すぎるような、あまりにあまりな結論を導き出した。
 でも、確かにみはしはぐったりしていてだるそうなのだ。湿気を含んでしおれた猫っ毛を見つめていると、みはしがうなった。


「うぅ……、よい、しょ…。…ふう…」

「いやなにしてんのおまえ。」

「らくちん…」


 突然手をついて起き上がった、と思ったら、みはしはそのまま阿部のほうに這ってあぐらをかいた阿部の左脚に上半身をかぶせてきた。
 ふとももに頬を乗せて、ひと仕事終えたと言わんばかりに息をつく。いや逆につらいだろとつっこんだららくちんと言いやがる。なんだこいつ。


「あべくん、あったかい…」

「…そりゃ、木と比べりゃあな。ていうかおまえ、中入ればいいじゃねえか。なんでこんなとこいやがる。」


 自分で雨のせいだとわかっていてこんなところにいるのだから、やはりどうにもみはしの頭は飛んでいる。
 ぷすーぷすーとおかしな息をする茶色の頭に手を置くついで、そう言うと、みはしのふさふさしたしっぽが左右に振れ始めた。最近知ったがこれは機嫌が良いとするものらしい。
 やっぱりわかんねえやつだ、と羽織を脱いでみはしにかぶせてやる。暖かくなってきたとはいえ、雨が降っては冷え込むから。

 それきり黙ってしまった阿部に、みはしがぽつりとつぶやいた。


「…もうすぐ。」

「あ?」

「夏が、来る。よ。」


 微睡むような目は完全に閉じてしまい、阿部はひとり外を見やる。
 雲ははるか上を飛び始め、雨は光るほどの緑の草へ注ぎ続ける。きっと上がれば数倍に茂るのだろう、ゆるやかな雨はそうしてしとしと降っていた。


 ああそうか、夏か。眠るみはしを中へ運ぼうと思ったが、もう少しだけ外を眺めていたくて、阿部はみはしの頭をそうっと撫でた。



―― Green green!


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