飛び石跳んで向こうに貴方
【マヨヒガ花文庫】
未だコンクリートやセメントを知らない緑の庭は、足音を少し薄めはしても、気配までは消せやしない。
そら、松の木の陰にあれがいる。
阿部は気づかない振りでお池の縁をぐるりと回る。気配もそれにくっ付いて、やがて阿部が林の向こうへ消えてしまうと、気配は草木の陰からぱっと飛び出した。
見失ったと思ったに違いない。三角耳をぴんとさせ、吊り気味の大きなお目めはその頭ごときょろきょろを辺りを見回す。
草履を履いた素足はほっそくって小さくって、焦りを表すように二の足を踏んでみたりして、まるでかくれんぼのようだ。
そのちっちゃな陰がぱたぱたと自分の隠れた木を横切ると、阿部は彼に声を掛けた。
三橋、というのはちっちゃな彼のその名前。続けて何をしてるとそう問うと、三橋と呼ばれた彼はたいそうびっくりして、素っ頓狂な声を上げた。
「う、あ」
「あ? 何だって?」
「……っ!!」
三橋が阿部を見たのはほんの一瞬。いろいろの感情の色をごっちゃに混ぜた二つの瞳は、阿部からすぐに逸れると踵を返して走り出した。
距離を離していく背中を見ながら、阿部は溜め息を吐く。
この妖しの屋敷に来てから早や数日、あちこち見て回り、いくらかわかった事もあるのだが、彼との関係は出会ったその日から何にも進展していなかった。
先日、家を飛び出した阿部は辺りをさ迷ううちに、この妖しの空間に迷いこんだ。
そこは明らかに異質の力で満ちた場所で、阿部は持ち前の図太さを以て、この旧家の豪邸めいた場所に住む事にした。
屋敷には先住者が一人おり、それが今ほどの三橋という狐の変化なのであるが、そいつがとにかく逃げるのだ。
阿部が気になるようであちこち付いては来るのだが、とんでもなく臆病だから、声を掛けるとあの様に走って逃げる。
一人で調べるにも限界があるのだ。彼が話してくれればもっとこの場所の事がわかるのだが、まともな会話はいっぺんしかしたことがない。
こんな場所に居座ろうという胆の据わった阿部であるが、先を思うと不安で仕方ない。
はあ、と阿部が天を仰ぐ。
それと同時、べしゃ、という間抜けた音が、阿部の前のほうから聞こえた。
「あいつ……!」
音のしたほうは、三橋が走り去った方向だ。見ればふかふかした苔の上に、腹這いで臥せっている彼の姿が見えた。
この辺りは苔がびっしりと生していて、飛び石にもあちこちついているのがあるから歩く時は注意が要る。
三橋は苔で滑ったのか飛び石を踏み外したのかはわからないが、とにかく転んだらしい。
幸い下は苔だったからどこかを強く打ったりはしていないだろう。が、立ち上がろうとした三橋は少し身動ぎすると、そこで固まってしまった。
どこか傷めたか。
態度は不遜な阿部であるが、怪我をした子どもを放っておくほど人の道は外れていない。
慌てて駆け寄ると、三橋は阿部を見てびくりと体を震わせた。
別に苛めやしねえよ。
ち、と舌打ちするからまた三橋は震えるのだが、そんなのには構っていられやしなかった。
「どっか傷めたのか」
「う、うう……」
「ううじゃねーよ! ……ったく、」
毎度、こんな感じで会話にならないのだ。しかし今はそれでぶった切るわけにいかない。
とりあえず家の中へ連れて行ったほうが良い。俗に言う「お姫様抱っこ」で三橋を抱き上げると、彼は「あ」と小さく声を上げた。
その視線の先は足。見れば、右の足首が腫れている。
「ああ、挫いたな。死にゃしねえからぶるぶるすんな」
「……、」
そう言うと、三橋は阿部をじっと見た。
三橋はよく阿部を見ている。人間なんて滅多に来ないから珍しいのだろう、しかし恐いのかいつも遠くから窺って、気付かれるとぱっと逃げる。
初めて会った時は恐くて恐くて目を剃らしていたから、三橋は今初めて阿部を近くでまじまじ見た。
三橋はたわわになった薄の穂のような、薄い金の色をしているが、阿部は本当に真っ黒かった。
髪も、眉毛も、瞳も真っ黒い。夜みたいな色だけれど、艶が走るのはそれと違う。
なんだろう。
三橋が考えているうちに、阿部は三橋を屋敷へ連れ帰った。
そっと寝かされて、足に響かないよう阿部が気を遣ってくれていた事にようやく気がついたが、阿部は着くなりてきぱきと動き始めて、三橋はただそれをぼんやり見ていた。
「包帯ねえのか包帯……あった。」
阿部が戸棚をごそごそやると、白い小さな筒が出てきた。
こんなのうちにあったろうか。阿部がそれの封を切ると、筒は細い布だったようで、それが傷めた足首に巻かれていく。
なんだか足首がしっかりしたようだ。そうして氷嚢を当てて、阿部が「挙げとけ」と足首の下に丸めた布を入れてくれる。
動かさなければ、もうなんにも痛くない。
後片付けをする阿部の後ろ姿を、三橋はじっと見ていた。
すごい。恐いのと不安でぐちゃぐちゃだった三橋の金色の瞳は、今や明るい色できらきらするのだった。
「す」
「何だ?」
「すごい、」
その変化は背を向けている阿部にはわからない。
だから、別に、昔スポーツやってたから捻挫なんか茶飯事だったんだと適当に返す。
そうして振り向いて三橋のきらきらした目を見たら、ちょっとびっくりしてしまった。
「あの、あし」
「足?」
「ありがとう!」
にこ、と三橋が阿部に笑う。
出会ってからこっち、まともに見もしなかったというのにこの違いはなんだろう。
もしかして、すごく単純なやつ。
そんな事を思った阿部だったが、何故か口許が少し弛む。
阿部はまた三橋に背を向けると、お茶でも持って来るとそのまま出て行った。
すこうし時間はかかったけれど、ふたりが一緒に過ごすようになるのは、今日この瞬間、このお話から。
―― Start.
一年365題より
3/11「手当てくらいさせてよ」
*前 次#