こころはばらいろ
【吸血鬼と少年】
限りなく明度を落とした空はほとんど黒の色。空一面に広がったそれへ薄く蒼を刷いた様な夜が世界には満ち満ちていた。
暗い世界に光源といえば星の瞬きと、半減した月くらい。ついこないだ満つ月だったそれは、夜毎じくじくと身をすり減らす。
黒く、蒼く、けれどまちまちに白い粒の瞬くそんな夜に、イズミはいた。今住んでいる小さな家の庭先で、広い背中に言葉を投げる。
「はまだ。」
「ん?」
「早くオレもおまえと同じにしろ。」
「またその話?」
「おまえがオレの話聞かねーからだ。早く吸血鬼にしろよ。」
話し掛けても相手は背を向けたまま、しゃんしゃんと剪定の音を響かせる。それがまたしても話をはぐらかされそうだと感じ、イズミは薄い唇を尖らせた。
彼はイズミの話ならなんだって喜んで聞いてくれるのに、一番の願い事はまともに聞いてくれた事がない。今だって返事もしなくなってしまったから何とか話題を続けようと再び口を開くが、振り返った彼に遮られてしまった。
「ほらイズミ、花束。きれいだろー?」
「……暗くてわかんねーし。だからおまえ、話聞いてんのかよ」
視界が一瞬、差し出された花束でいっぱいになる。途端その花特有の香りが辺りに広がるが、きれいだろうと言われてもこの暗闇に色なんかあるわけがない。
申し訳程度にカンテラをそばへ置いているが、蝋燭の灯りなんてたかが知れているし、月の光なんかは言わずもがなだ。わかったとして花束の大きさと、辛うじて束ねられている花の種類くらいなもので、見えるかと返したら相手はおとなしく引き下がった。
花束がイズミの目の前から彼の胸の中へ帰る。自分の言葉に対し「そうか」と特に感慨なさげにして、彼が花を愛でるのをイズミは見た。
ほとんど色の差異なんてない夜の中で、それとわかるほど明るい色の金の髪。やや長めのそれへ月の光が降る度に、光の欠片が髪を撫でて零れていく。白いはずの月光は彼の金色を吸い取って色を同じくするから、彼の周りをきらきらと飾る。
年の頃はイズミよりやや年嵩で少年というよりもう大人に近く見えるが、実際はそれよりずっと長い時を生きている。
きっと、世界のあらゆる生き物よりも長く長く生きている。いや、時間はおそらく間違ってはいないだろうが、彼を生きているなんて表現するのは間違っているかもしれない。
彼は人間でない。化け物というそれで、主に吸血鬼と呼ばれるものだ。
ひとの血を吸って長らえる化け物で、見てくれこそ人間であるが触れてみれば熱はなく、心臓の動く音もしない。いうなれば血を吸って動く人間の死体だ。そしてそんな化け物の彼とイズミとは、睦言を交わすような甘い甘い間柄だった。
人外である彼と違い、イズミはれっきとした人間だ。補食されかけて(実際されたが)色々あり、現在は吸血鬼の彼ことはまだとのんびり暮らしているが、イズミは事あるごとにはまだと同じ吸血鬼にしろとせがんでいた。
だのにはまだは出来るくせ、いつも曖昧に笑うだけでイズミを同族にしようとしない。毎度同じ応酬の繰り返しだ。
むくれるイズミに気付いたはまだが、ご機嫌とりに髪を撫でようと手を伸ばす。けれど手のひらで払われてしまうと、彼は少しだけさみしそうに笑った。
はまだの穏やかな色の目が好きなイズミが、それに気づかないわけはなかった。
「それは、もうちょっとしたらね。」
「もうちょっともうちょっとって、いつだよ!」
「イズミがあともう少し、大人になったらだよ。」
そう言って、はまだは抱えた花束をイズミの前に差し出した。
彼は男のくせに、裁縫だとか料理だとか花だとかを好む。吸血鬼の彼にはふつうの食べ物なんか摂らないので、それもイズミの為にする。花も好きなのに日光の下に出ると皮膚が爛れてしまうから、こうして夜に庭先へ出て育てた花を摘んできては、家のあちこちに飾っている。
きっと、夜の世界でしか生きられないから、華やかなもの鮮やかなものに憧れるのかもしれない。無い物ねだりといえばそれまでだが、昼の世界に拒まれて尚向き合おうとするはまだの姿が、イズミはむしろ愛しいと思う。
はまだが寄越した花束を見れば、匂いたつほど咲いたものから、蕾が開いたばかりでまだ瑞々しいものまでがきれいに束ねてあった。生ければまだしばらく、蕾のものはきっと満開まで美しくこちらを楽しませてくれるだろう。
けれどこれを寄越されたところでその真意がわからない。怪訝な目をはまだに向けると、彼は踵を返し、植え込みからまた花を取ってきた。
今度はたった一輪。それもまだ蕾の固い花だった。
「まだイズミはこれとおんなじ。」
「はあ?」
「まだまだ子どもってこと。もう少しして、大人になって、よく考えてそれでもオレと居たいって思ってくれたら、その時はイズミの言う通りにするよ。」
花束を抱えた腕と反対の手には、たった一輪の小さな花。いや、まだ花ですらない。それと同じだと言われたイズミは、ぎっとはまだを睨めつけた。
彼の言いたいことがわからないわけじゃなかった。まだイズミは十年と少ししか生きていないし、体つきだってまだ細くて子どもの域を出やしない。
吸血鬼になるということは、彼のように生きていない体になることだ。ずっと子どものまま、永遠に大人になんてなれない。はまだの言うことも最もだろう、もう少し大きくなってからというのもわからないじゃあなかった。
けれどイズミは腹が立った。よく考えてとはまだは言ったが、よく考えもせずにこんなことを言うとでも彼は本気で思っているのだろうか。
基本的には死なないはまだの隣りにいるということは、ほぼ永遠だ。好きなひととずっと一緒にいられるなんてすてきだが、その為には人間であることをやめて、熱と鼓動を失って、太陽を諦めて、光を諦めて、他人の血を吸って長らえて、暗がりと夜の陰に棲み続ける覚悟をしなくてはならない。
軽はずみに決めることじゃあないとはまだが言うのもわかる。
だけど、なぜ軽はずみだなんて思うのだろう。
子どもだから、まだものがよくわからないから、大人よりもずっと純粋に愛することができるのに!
「イズミ。」
イズミの思いは、とてもきれいで強いもので出来ている。それをはまだが知らないわけはなかった。
色んな思いが心の中で渦巻いているイズミに手を伸ばし、はまだはそばかすの浮いた頬を撫でる。何の熱もない自分の指と違い、イズミの体は触れれば燃えてしまいそうなくらいの熱が巡っている。
それは自分にはもう無いもの。昼も夜も生きることの出来る温かな体を手放すのは、もう少し後でも良いのじゃないかと思う自分は、きっとそんな彼が羨ましいのだろう。
「イズミには、まだたくさん時間があるよ。オレよりずっと選択肢の多い時間が。だから、いっぱい悩みな。」
「……おまえさ」
「ん?」
「そういうとこ、ジジくせぇぞ。」
「年のことはゆーなよぉ!」
ふん、と鼻を鳴らしたイズミは立ち上がると、花の蕾一輪と満開の花束を持って真っ直ぐにはまだを見上げた。
「コドモばかにしてっと、そのうち痛い目見るぜ。」
そう言ってはまだに花を寄越し、イズミは家の中へ入って行った。その後ろ姿を見送りながら、はまだは笑う。
「ばかになんかしちゃないさ。」
色のない唇から零れた言葉は誰が聞くでもなく、束ねられた花の顔にぽたりと落ちる。
腕の中の花は赤。花びらが幾重も重なり艶やかさと華やかさのある花の名は薔薇。
本当に彼の若さをばかになんかしちゃいなかった。花になる前の蕾にだって、一端に花言葉があるのだから。
薔薇の蕾が持つ花言葉は「可愛らしさ」。
それが綻んで匂いたつほど咲く頃には、どれだけ美しい姿になっているのだろうか。日毎変わる彼の強さを瞼に描くと、延々と続く時間がとても愛しいものに思えた。
―― Ah, my little Flower.
某方のお誕生日プレゼント。
6月19日の数ある誕生花のうち、「薔薇の蕾」を選びました。花言葉は「可愛らしさ」。