バーテンとスーツ
【バーテンとスーツ】
きら、きら、と街の明かり。
薄いドア一枚隔てただけなのに適度な状態に作った空間とはがらりと変わり、外は雑多な音、音、光。
そんなものより、彼の声を聞いていたかった。
「ほら。泉、帰る時はシャツのボタンちゃんと留めて。」
それは、意外と高い声。音の溢れる街頭よりずっと明朗な声を聞き、何か言う度オレは適当に相づちを打つ。
聞いていたいのは声、言葉。
何を言っているのかなんて問題じゃない。彼の声をずっと聞いていたいのだ。
昔から、自分に掛けられる声を聞くとどうしようもなく嬉しくなる。その決して低くない、耳に触れて溶けるような優しい声が大好きなのだ。
そう、好きなのだ。
そのせいで時々、呼吸をするのがつらくなる位。
「…あと一時間位でオレも上がるから、店で待ってて。うち泊まってきな」
彼の事なら何でも聞こえる。小さなため息の後、泊まって行きなさいと言ったそれを、いやらしいこの耳は聞き逃さない。
こっくり頷くと、彼は少し雑に髪を撫でてきた。
何でも器用にする、大きな手だ。ほんのまれに、体に触れる彼の手にすべての神経を傾ける。大きさ、形、熱、触れかた、たった一瞬のそれが今のすべてだった。
「オレが居ない所であんま飲むなよ?」
促されて店の中へ舞い戻ると、薄暗い照明と音楽が熱っぽい肌を撫でる。
それより頭に触れる感覚に集中していたオレは、彼が呟いた言葉に過敏反応していた。
気付かれないよう、奥歯を噛み締める。
まともな意識はみんなカクテルの炭酸になって発泡したはずなのに、飛び込みたくて仕方のないその腕の中へ酔ったふりで転ぶことだって自分は出来ないのだ。
いつだってそう。いつだってそうだった。
この関係を失いたくないとかそんな言い訳ばかりで、十年間ずっとこんな思いで生きてきた。
あんまり、勝手な事を言うなよ。そう言う心は、これ以上傷つけないでと泣いている。
オレの気持ちなんて気づかないくせに。
オレの期待になんて応えてくれないのに。
優しいふりして、これ以上オレの心を潰さないでよ。
潰さないで、呼吸をする位は許してよ。
お願いだから、ねえ、浜田。
―― バーテンとスーツ
「どっこらしょっと。」
年寄りじみた声を掛け、勤め先から引き摺ってきた細い体をベッドへ落とす。
帰路につく前からそいつはへべれけで、足取りもおぼつかなかったから、道に人気がなくなってからは背中におぶって連れてきた。
ぼす、とスプリングが一度跳ねてもそいつは起きやしない。頬だけでなく小さな顔のほぼ全体を赤くして、健やかに寝息をたてている彼を、オレはシャツの首を寛げながら上から眺めた。
酒が回り、一番赤く色付いているのはやはり頬だ。学生の時分は思春期だったり運動部だったせいで肌が荒れていたが、社会人になってもあまり改善が見られない。体質でもあるのだろうが、原因は食生活とか、やはりストレスを疑ってしまう。
彼が新社会人になってから数ヶ月経つ。
ちんちくりんの小学生だった頃から知っているかつての後輩は、今やスーツを着て働くようになっていた。
一時期は同級生でもあった彼は泉といい、高校を下がると大学へ行き、今年新社会人となった。
本来、泉とは一才上であるオレは高校の三年間を彼の同級生として過ごし、それからは職に就いて、周りより一足早く社会に出た。
幾つか仕事もしてみたが、今はバーテンに落ち着いている。接客は向いているし、職場環境も良くて、気が付けばもう一年以上勤めていた。
そんなオレの職場へ泉が来るようになったのは勤め始めからで、高校を下がってからもなんとなく連絡を取り合う仲だったからオレのほうから報告した。彼が大学の頃は金銭的な理由であまり頻繁には来ていなかったが、仕事を始めてからはその帰りによく来るようになった。
あまりよく来るので酒が好きなのだろうかと思えばあまり強くはなく、一杯で赤くなる。それだけで帰るのもよくあることだ。
飲んでも二杯くらいでいつも帰るのだが、今日は特別だった。ピッチが早いとは思ったが、オレの同僚が一人遅れて来たので仕事が増えてしまい、落ち着いた頃にはもう泉はすっかり出来上がってしまっていた。
そこまで思い出し、ふと思い付いてしまう。
よく店に来ることといい、もしかして仕事で何か悩みがあるのだろうか。
泉は落ち着いた奴ではあるが、だからこそあまり人に相談することをしない。
今日はやたら飲んでいたし、きっと新人なりの悩みがあるのかもしれない。
台所で水を飲みながらそれに気付き、今度ゆっくり話を聞いてやろうと決める。泉はきっと、曲がりなりにも先輩であるこのオレを頼っているのだ。たぶん。
今ではタメ口を聞くこの元後輩であるがかわいいところもなくはないのだ。酒が好きなくせに弱いところとか。
シンクにグラスを置き、オレはまた泉が寝ているベッドへ戻った。のんびりする前にしなければならないことがいくつかある。
今日は金曜で平日だったから、泉はスーツを着ている。そのまま寝ては皺になってしまうから、着替えさせてやらなければならない。
一応スーツ替えくらいは持っているだろうが、それはそれとして着替えさせてやるのが思いやりだ。そう思い、オレはネクタイに手を掛けながら泉の名を呼んだ。
「泉、スーツ皺んなるから着替えよ。手伝ってやるから。」
「………。」
「起きるくらいしろ、ホラ。」
控えめなストライプ柄のネクタイを解き、適当に畳んでサイドテーブルに置く。スーツを脱がしたら一緒にハンガーへ掛けてやらなくてはならない。
泉は目を開けたものの、まだぐだぐだしている。その間にスーツのボタンを外し、ワイシャツのそれも上から外していく。
上から三番目のボタンまで外したところで、泉はやっと微睡むのをやめた。重そうな瞼を何とか上げて、睫毛の陰になった瞳でじっとオレを見つめていた。
「……………はまだ…」
「なに、水飲む?」
「………ひっ、く」
「え゛。」
オレの名を呼ぶので喉でも乾いたかと思い、声を掛けたら、泉は何故か泣き出した。
普段は大きなその目の、今は半分くらいしかない眼裂から目尻のほうへ、涙の玉がぽろぽろと流れ出してくる。
小さく鼻をすすりながら、その涙は止まらない。
商売柄、こういう客を見たことがないわけじゃなかった。酒が回ってくると、特に傷つける発言をしているわけじゃないのに泣き出すタイプが世の中にはいるのだ。
泣き上戸というやつ。けれど泉が飲むのを何回も見てきたが、普段の彼にそんなくせはない。
ボタンを外す手も止めて、オレは泉のケアを試みた。どうした、と声を掛けながら、濡れた目元まで散らばる髪をのけてやる。
首のボタンは外したからもう苦しくはない筈だ。今日はだいぶ飲んでいたことであるし、仕事のいやなことを思い出しているのかもしれない。
それならここで吐き出させたほうが良いだろう。とりあえずはここで吐き、また後で同じ話をしたって構わないのだ。そうやって鬱憤を晴らすお客は少なくない。
切なそうに顰められた眉に指を伸ばし、掛かっていた髪の細い束をのける。
と、泉はそのオレの手を掴んだ。両手で取り、オレからは泉の目元が見えなくなる。
「すき。」
「……へ、」
「すきだ。」
ぽろ、ぽろ、と流れる涙は止まらない。
透明なその玉は赤い頬を撫でては零れ、泉の髪に染み込んだ。
すきって、何の事だ。
なんで、泣きながらすきだなんて言うんだろうか。
「いず、」
「……つらい、」
「どしたの、泉、」
「つらい。こんなの、…もういやだ」
「…仕事の話?」
「十年だよ。ずっとすきだけど、なんにもならなかった。おまえのこと、すきだけど、もう、つらい。つらい……しにたい」
もう、しにたい。
そう、最後に言った唇は震えていた。
つらそうな口呼吸の音と、しゃくり上げる喉の音。静かに静かに泣き続ける泉を見下ろして、オレはただ茫然としていた。
つらくてしにたいのは、仕事のせいではなかった。
ついでに言うと、泉がオレの職場に来るのもたぶん、仕事のせいではなかった。
泉がしにたいのは、オレのせいだった。