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柚子ソーダと夏の夜


 ふーっと、ベランダから透明の夜風が吹き込む。洗ったばかりの髪を薄く掬って、サッシに置いた爪先とカーテンがこすれあう。
 ぼーっと、外の景色を見ていた。それは見慣れた自宅からの景色じゃなくて、最近見るようになったもの。夏の街は熱に酔ってほんのり明るく、紫色の夜の帳に浮かぶ屋根と、遠くの明かりがぽちぽちついてるそれは住宅街。車の往来のある通りは一本向こうだし夜ともなればかなり静か、横の道に車がたまに通るだけで、俺の耳にはテレビの声と、涼やかなカーテンの音しか聞こえない。

 窓を開け払い部屋とベランダを区切るサッシにふらりと凭れた俺の手元に、汗をかいたグラスがあった。中には氷のみっつぶ入った柚子ソーダ。普通に柚子のジャムを入れただけのソーダ水だが、爽やかな甘さが加わった透明の炭酸水は淡く濁り、水底で果肉がゆらゆら、見目も麗しい飲み物へと変身した。
 底にいるジャムを銀の匙でかき混ぜるたび、割れにくいという厚手のグラスの中で大粒の氷がからからと鳴る。そんな耳に快い、涼しい音をたてるから、つい飲まないで混ぜるだけになってしまう。
 水位の不変は、本当はそれだけの理由でないのだけれど。


「それうまいっしょ、」

「ん?あぁ」


 かろん、と音をたてて、フローリング上のグラスがふたつに増える。四角いコースターに乗った色違いのグラスが並び、部屋にいる人数もグラスと揃う。
 中身の同じ柚子ソーダは、部屋の主である恋人がこないだどこかへ行った時に飲んだものらしい。立ち寄った店の新作だとかなんとか、俺にも飲ませたいとか言って作ってくれた柚子ソーダは、ジャムとソーダの割合が難しいようで何度か作るのに失敗したとか。俺が来る前に作り方を覚えていたので、今回は一発で持ってきたけど。

 そいつは作りたてのソーダ水を、柄の長い匙でからから、氷とジャムをかき回す。小さなあぶくの水槽で上へ下へたゆたう果肉と氷。それが口元にグラスを運び、ひとくち飲むまで俺はずーっと眺めていた。


「うまー。‥あれ、泉のあんま減ってなくね?好きじゃなかった?」

「や、嫌いじゃない、けど。」


 びくっとして手元のグラスに目を落とす。透き通ったソーダの底が白く淡い柚子ソーダ。 もったいなくて飲めないなんて、この口はそんな言葉を知らない。言ってやったらそいつはとても喜ぶのだろうけど、とてもとても、恥ずかしくて。

 俺は、毎日それこそ休みなく部活に明け暮れている。ふたりで出かけることさえ出来なくて、恋人には物足りない思いをさせているのだろうとは常々思っている事だ。部活は好きだし楽しいし、恋人だって口ではそうしなさいと言ってくれる。
 けれど恋愛を疎かにしたいわけでは決してないから、なんとか恋人の都合と合わせ、こうして部活あと、たまに泊まりに来たりしている。なのにシャワーを浴びて飯を食うと、疲れを纏った重力が瞼にのしかかる。よって、つかの間に愛の巣を求めてもただのセーフハウスと化していた。


 無精者で、素直じゃない。自分から求めて結ばれたのに俺は恋人としてはあまりに不足だった。
 こんな俺を、最愛の人はいつまで構っていてくれるのだろうか。溶けた氷がかろん、とひとりでにソーダ水へ沈む。時間を置きすぎて薄くなるソーダ水。ちょうど良かったジャムの甘さは、氷がすべて溶ける頃にはうまくもない水になって縁から零れてしまう。

 匙でかき混ぜ口に含むと、少し薄くなった柚子とソーダの味がした。俺は炭酸とかいった安っぽいものが結構好きで、コンビニに行くとき手にとるのはソーダと決まってるくらいだ。好物なのだ。
 グラスをからからいじくりまわす。淡い水がくるくるまわる。それは、俺が土日も泥にまみれている間どこかしら遊びに行く恋人が、行く先で見つけてこれおいしいよと作ってくれた甘い水。ふつうにデートさえ出来ないおれたちのそれは宅デート。


「‥‥今度さあ」

「うん?」


 部屋の明かりが飛び込むグラスの中は目映く乱反射、光の洪水。水位の下降は、もったいないから少しづつ。


「晩飯どっか食べに行かね。」

「え。」

「夜なら、どっか行けんじゃん。」


 そしたらかなり遅い夕飯だけど。からからからから、すごい勢いで氷がまわる。渦が出来そうだ。
 横目でちらりとそいつを見たら、すごく嬉しそうにして笑っていた。


「したら、俺いいとこ知ってンだよ。泉。」


 恋人の笑顔を見たらなんだか俺まで嬉しくなって、グラスに隠れて俺も笑った。


―― Citrus, breezes to the summer night.

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