続・里の子まよい子いちょうの葉
鳥、野鼠、虫、ほおづき、あけび、ぐみ、イチジク、ぎんなん。
秋はいい。少し歩けば、すぐ何かしらの食べ物にぶち当たる。
ほおづきの茂みの側へ腰を下ろしたはまだは、人間のかたちになって今さっき食ったほおづきの実で遊んでいた。赤く丸い実の種を適当に出して空気を吹き込み、唇で銜えるとぐーぐーと音が出る。いつぞや、山に入ってきた人間の子がやっていた遊びだ。別にとりたてて楽しいというわけでないが、ただ何の音もしないうす青の秋空にほおづきの音の響くのを、なんとはなしに眺めていた。
あんなに高かった空も今ではいつも通りの位置に戻り、実の弾けた綿をちりばめたような薄い色の青がただ広がっている。何も変わりはしない。薄らと水色を伸ばして、鳴かず、騒がず、するすると風だけ吹いて流れてゆく。
これをあと何度か眺めたら曇天から雪が零れ、山は完全に沈黙する。そろそろ、来るべき日のために食料を貯めねばならない。 時期は教えられるものではなく、自然とわかるもの。それを思い出すと、同時に沸き起こった焦燥感で肌がちりちりしたので思わず腰を浮かした。
ぼんやりしているひまなどないのだ。黄色い葉の額縁の中でゆったりと巡る空を眺めつつ、音の出なくなった実を奥歯で噛むと、少しだけ、青くさいほおづきの味がした。
立ち上がるとき、ついでにほおづきをもう一、二個もいで袖に入れる。おそらく今ごろ、みはしはねぐらの辺りをひとりでうろうろしているのだろう。袖にはほかに道すがらもいできた秋の実がいくつか入っていて、それらはすべて留守番をさせているみはしのぶんだ。
ほんとうははまだの小さな弟分にはもっと食いでのあるものをやらなければいけないのだが、ことのほか甘いものの好きなみはしはこれらをとても喜ぶのでついついこちらに手がのびる。まあ、小動物を狩るよりはよっぽど簡単だし。
(……また、くだらないこと考えてた)
どうでもいいことに時間を取るのはやめて、そろそろみはしのところに戻らなくては。そう思っていよいよ腰を浮かしかけた時、茂みの向こうに、黒髪の小さな子どもの頭を見つけてしまった。
(あいつ、こないだの。)
「……」
反射的に隠れた茂みから、少し向こうのそれを伺う。
はあ、と大きく息をしながら、その子どもはちいさな頭を右に左に振っていた。年の頃は人間の、いつつより幼い。やわらかそうな丸の頬を薄ら朱に染めた、瞳の大きなその顔には見覚えがあった。 先日山の中でまよい子になっていたのを、手を引いてふもとの里まで送り返してやった子だ。あのときは完璧に同伴者とはぐれて泣きじゃくっていたが、今回は足取りもしっかりとしていて、見ていると何か目的があって動いているようだ。
ちいさな頭を右に左に、さらさらと黒髪を揺らすその素振りはまるで何かを探しているような。はまだが観察しているうちに、頼りない二本の足ははまだの隠れる茂みを過ぎていちょう林のどんどん奥へ行ってしまう。
(あのばか、)
はまだが今いるところは、ちょうどたいていの人間がこの辺りで引き返す地点で、人の踏みならした道はここで終わり、あとは山の動物しかいない自然の迷路になっている。ここまであの幼い足で来るのも大変だったろうに、それはふらふらとまだ先に進もうとする。
ああ、まずいことになる。まためんどうなことになる。頭に浮かんだそれを現実にしない為、痛む頭を振って、腹を決めるとはまだは茂みから出て目いっぱい面倒くさげに幼児を呼び止めた。
「お――」
「ああ!いたー!」
がさりと葉を鳴らした音に振り向いた幼児は、出てきたはまだの顔を見るなりぱあっと顔をほころばせた。
それは秋と対の季節に咲くあたたかな色の花のようで、はまだの気勢はそがれてしまう。 駆け寄ってくる音にはっとして、次に気づいた時には、はまだと幼児の距離はもう幼児の足で一歩ぶんになっていた。
「な。なんだよ」
「あんね、これあげる。」
「あ?」
「ちょっとまって。」
子どものはまだより頭ひとつもさらに小さなその子どもは、小さな手のひらにぎゅっと握っていた巾着を漁る。
右回りのかわいいつむじを眺めながら、はまだは(子どものにおいがする)とぼんやり考えていた。
子どもは、あまいにおいがする。乳くさいのに似ているだろうか。 乳離れはもう明らかにしているものでもそんな香りがするのだから、きっと、小さな子どもはいつも母親のそばにいるからそんなにおいがするのだろうとはまだは思う。
それは、人間でも動物でもあまり変わらない。動物だってまだ小さなうちはあまり獣くさくなく、ふわふわしていて、あまったるいにおいがする。
でもそれは、母親がいるからだ。 優しく守られもせずに、ただ生き抜くのに必死なものは、幼くともそんなにおいなどしない。小さな頃からけもののそれだ。
自分とみはしがそうであるように。
「ん、あった!」
巾着をまさぐっていた幼児が声を上げる。何かと思って手のひらを見ると、茶色の光る木の実がふたつ。
「……」
「これ、どんぐり!」
「……うん。」
見ればわかる、と見つめるのは小さな手のひらに乗った大きなドングリの実。
ひらりと差し出された白いそこには艶やかなドングリが帽子つきのまま二つ乗っていて、はまだのほうにぐいと寄越す。
「やる!こないだおれのこと、うちまでつれてきてくれたから、おれい!」
舌足らず言葉足らずの彼が言うには、どうやらこれはこの間、里まで送り返したことのお礼なのらしい。
なぜドングリなのかはわからないが、初め見たときもせっせとドングリを拾っていたし彼にとってはこの小さな実はけっこう大事なものなのかもしれない。
「‥くれんのか?」
「うん。ぼうし、ついてんだ。」
手を伸ばしてくるので受け取ると、誇らしげににかっと笑った。なるほどやはり彼にとって、この木の実は大事なものらしい。
そう思うと、はまだは少しいじわるしてやりたくなった。
自分のわるいくせだ。手のひらのドングリを見つめるはまだの顔をもしみはしが見ていたら、きっとこう言う。
(は、はまちゃんは、いじわるだ!)
はまだの小さな小さな弟分は、すこうしいじわるしただけで必死になってそうさけぶ。
おれがいじわるのことなんて、はじめっからだ。みはしの丸い頬をあかくして言うのを思い浮かべ、ちょっと笑いながら、はまだはもらったドングリから帽子を外した。
ここで怒るかな、とちらりと見やるが、相手はみはしが何をし始めたのかそちらに興味が向いたようで、手の中を覗き込んでくる。
艶やかなドングリにも負けないほど、おおきなおおきななち黒いろの丸い瞳。ああ、そんなに見つめて眼窩から零れやしないのだろうか。向かいあう幼児の目を見て、はまだはぼんやりそう思う。 帽子のとれたつやつやのドングリの実を自分が摘むと、なち黒目玉は動きを追って視線の高度を上げていく。小さなドングリ。はまだはそれを、あっと開けた口に放り込んだ。
「……!」
つるつるとした舌触りのそれを歯の上へ誘導して、噛む。
がりと音をたてて砕けた実は、木の実らしく淡白で渋い味がする。
「んー……やっぱドングリだな。」
「……たべた……。」
むぐむぐと口を動かしながらちろりと見たら、子どもは大きな目を見開いてはまだのことを見つめていた。
ああ、ああ、なち黒目玉が零れ落ちる。きゅうっと瞳を小さくして、人間の子はドングリを咀嚼するはまだの口元を見つめる。
渋い木の実の味が広がる口元を。大切な宝物を分けてくれた彼は、泣くのだろうか、怒るだろうか。
でも、だって。人間もドングリは、煮れば食えるが彼は遊びで集めたのだろう、それでも自分たちにとっては一切が雪の下となる冬へ向けての大事な栄養源だ。その価値観の違い。
別に、泣こうが喚こうがどうでも良かった。ただ、いじわるしてやりたかっただけで。
はまだを見つめて逸れぬ視線は、真っ直ぐに黒く。それはやがて、その手元の巾着に移る。
どうした泣くのか?
「……」
「?」
ざらざらと手が巾着の中をかきまぜる。その音は優しく、耳に快い。
手はやがて小さなドングリを摘むと、はまだに倣い
「あー……」
「ばっ、」
口に入れようとした。
「やっめろ!」
「? なんで。」
なんでもなにも。
ドングリなんか、人間が生で食ってうまいもんじゃない。渋くて吐き出すのが目に見えているし、いかな小さなドングリでもその細い喉に支えないという保証はない。きっとおそらく噛めすらしない。
そう言ってやろうとした浜田だが、喉の奥で飲み込んでしまった。
そんなの、まくし立てたところでこの幼児にはまだわからないだろうし、それよりなにより言葉はすべて、彼の真っ直ぐな視線を受けて喉でつかえてしまった。
「ねえ。」
きょとんとはまだを見つめる、黒い睫が縁取った、おおきなおおきな眼窩に嵌ったまるい瞳。
いやだな、と思った。まえに見つけた時は泣きじゃくってぐずぐずだったくせに、今日はなぜか、その視線は真っ直ぐはまだを捉えて放さない。
なんでだ。この目はなにか、胸のわたりがへんになる。ざわざわする。
「ねえ。」
「……なんだよ」
「あんね。あたま、さわってい?」
「あ……あたま?」
このままこのがきに付き合っておかしな思いをするより、はやくいなくなってほしいと思って言葉のつぎを促した。かれを真正面から見ることがこわくてそっぽをむいてそう言ったというのに、それがまったくはまだの見当ちがいのことを言ったものだから、視線を合わせてしまった。
あたまをさわっていいかなどと。里の人間はがきと同じ黒や茶のいろばかりだが、はまだは人間のかたちになってもそれとだいぶ違う、秋のいちょうの葉のいろをしている。それはきつねの姿のときの体色と同じで、みはしなんかはきっと薄のいろになるのだろう。日が射すと本当のくがねのいろになるはまだのそれは親と同じで、それがかれらのいなくなった理由であることを知っているゆえに、はまだは自分のそのいろがだいきらいだった。
人間はでかかろうとちいさかろうと、このいろがすきなのらしい。胸のわたりがぞっと寒くなる気がしたが、さわらせてやれば気が済んで帰ってくれるだろう。
だから幼児の手が届くくらいまで屈んでやった。ふれるのを見たくなくて瞼を伏せた世界で、幼児がほうっと息をつくのが聞こえた。
「あっつくないね。」
「…あつい?」
「おてんとさまのいろしてるから、あっついかとおもった。あったかくて、きれいないろだね。」
触れ合えば、見るよりよほどちいさな手のひらだった。指先がすいと毛先にふれて、それから手のひらで触れたわけは熱いと思ったかららしい。
言いながら幼児はもっと手を伸ばして髪をくしゃりとやるように撫でた。地肌のほうから毛先に向かって梳いてはくすくすと笑い、いろが違えば質も違うのか、やらかいと言って何度も同じように指でなぞる。
むかし。そんなことを言ってくれたひとがいたことを、はまだはうつむきながら思い出した。あんたのいろはかあさんたちといっしょよ、おてんとうさまのいろよと言いながら触れてくれるのがとても好きで、家族とそろいのくがねのいろが誇らしくすらあった。
けれどそれゆえにかれらがいなくなったことは。そのことは、はまだを歪め、つぶしてしまった。ふと視界に入る自分の毛のいろがいやで、人間に化けられるようになってからはその姿のままでいることのほうが多くなった。
厭うべきはいろでなくこの人間のかたちのほうなのに、おかしな矛盾はそのままひずんで、ひずんで、なおらないままここまで来てしまった。
だってだれも、それでいいんだよなんて言ってくれなかった。
「どうしたの、」
「……うっ、」
「なんで、ないてるの? おなか、いたいの?」
「ひっ、ぐ、……ふっ……」
「……だいじょうぶ?」
幼児の手が離れ、心配そうに覗きこんでくるのがゆがんだ視界の端に映る。自分でもわけが分からないが、両目から水がこぼれてきて止まらないのだ。それにへたをすると大声を出してしまいそうで、ぐっと奥歯を噛んでいないといけなかったし、はじめてこんなふうになって、はまだはだいぶと混乱していた。
なぜかはわからないが急にいろいろなことが頭に浮かんで、そうしたら気づいたときにはもう世界は水の中に沈んでしまっていた。とりあえず両のこぶしを目元にあててぬぐってはみるが次々と沸いて出てくるから全く意味はない。
まったくわからない、この目の水とこの状況にはまだは動転して、そばにあの幼児がいることなどすっかり忘れてしまっていた。かれはというといきなり泣き出したはまだに驚きはしていたが、比べてだいぶ落ちついていて、どうすべきかをその小さな頭で必死に考えていた。
次にはまだが小さなかれの存在にふたたび気づいたのは、その幼い思案の結果のごく自然の行動だった。
「ん。」
「……っ、……?」
「おれ、いつもなくと、おかあさんがぎゅってするんだ。」
「……う、」
「なきたいときはね、ないていいんだって。よくなるまで、おれがぎゅっとしててあげる。」
屈んだままうつむいたはまだのきんいろの頭を、そう言って幼児が抱いた。
姿勢を低くしてはいたが、頭ひとつもちがうと腕を伸ばしてもようやっと抱きしめていると言えるような、手を結べるくらいだ。それでもかれの体温は、なきつづけるはまだの奥の奥のほうまですうっとしみていった。
大粒の涙がいよいよあふれてきた。ぼろぼろぼろと出てくるそれはもう止めようと思っても止まるようなものでなくなって、はまだもあきらめて声を出してなき出す。
あのときからため続けたなにかは、もうずっと前からあふれていたらしい。はまだは自分より小さな子の腕の中でなさけないほど声を上げてなき続け、そのあいだずっと、かれはぎゅっと抱いてくれていた。
細い風がふたりの立つ道を流れていく。それにさんざめいたいちょうの小雨がおちるのを黒い瞳が映して、そのまま目を閉じた。
その瞼の裏には、いつもいっとうきれいなものを閉じ込めている。
それはおてんとうさまに愛されて、いつも光を振りまく金のいろ。それがなくのにあきるまでぎゅっとすることくらい、じぶんにしてあげられるのなら、とてもかんたんだとかれは思った。
「……。」
「もう、だいじょうぶ?」
「……だいじょうぶ……」
ぐすん、と鼻を啜って応えると、幼児は腕をほどいた。
思えばけっこうな時間こうしていた気がする。ふだん兄貴をしているぶん小さい子に気の毒なことをさせたなと反省する部分と、なんとなく気恥ずかしいのとで、はまだはかれから目をそらしてしまう。
しかしかれは特に気にもならないふうで、さっきとかわらずまっすぐ相手の目を見ながら胸のわたりを指し、すきっとしたかと訊いてきた。
そういえば妙に体がすきっとしている。声をたくさん出したせいか頭がぼんやりしているし、いつもとなんだかちがう。
それが良い意味であるのは、なんとなくはまだもわかっていた。
「えへへぇ。よかったなあー。」
「あ、のさ。」
にへらと屈託なく笑うかれを、今度はちゃんと目を合わせて話しかける。
ん、とまたたくどんぐりまなこ。ちょっとはずかしかったけれど、かれはだれなのか聞いておきたくてたずねてみた。
「おれはね、いずみ。おまえは?」
「おれは、はまだ。」
「はまだ?」
「うん。」
はまだ。はまだね、とちいさないずみは何度かくちにしてみて、それを眺めるはまだはやっぱりなんだかはずかしかった。
腕のわたりがくすぐったくて右腕をぎゅっと握ると、今度はいずみがくちを開く。かんたんな、拙い言葉の行き来をしているだけなのにやたらと胸が高鳴って、どうしてしまったのだろうと思う。
そんなはまだのことなどしらないいずみは、つやつやした髪を揺らして、また会いに来てもいいかとたずねた。
はまだの気持ちはそれを聞いて、すぐに是と答えたかったが、山の御使いとしての役目を思い出して一瞬口ごもった。
使いは人間にも山のいきものたちにも、ひとしくなくてはいけない。だけれど、はまだは一度ぎゅっと目をつぶると次にはいいよと答えていた。
「でもそんかし、ほかのひとに、おれのことは内緒だぜ。」
「え、ゆっちゃ、だめなの。」
「そ。ひみつ、守れるか。」
ひみつ、というのは子どものだいすきなやつだ。それを分け合ったいずみもまた目をきらきらさせて何度もうなずくのを見て、はまだは笑った。
「じゃあまたこの次な。そのときはおれがおまえんちのちかくに迎えにいくから、ひとりで山に来ちゃだめだぞ。」
「うん、うんわかった。またこのつぎな!」
「そしたら、今日は送ってやるから。足いたくないか。」
首を振りふりだいじょうぶ!とは言ったものの、やはり無理をしていたのだろう、しばらく歩くとすぐに限界が来てしまった。
背負ってやると、いずみはいたくご機嫌でまたはまだの髪を指でいじった。が、もうそれほど気にならなくなっていた。
かれのその手は、はまだの奥でうす暗く澱んでいた水を掬い取ってくれたそれだ。すきっとしたかとかれが叩いた胸の真ん中は、驚くほど軽くなっていた。
あの目から流れていった水が、ずっと底のほうに溜まっていたそれなのだ。つらいとかくるしいとか、ほんとうは思っていたけど見ないふりをしていたそれ。
自分だって気づかないふりをしていたそれを、見つけて掬ってくれたいずみの手は、自分たちの術なんかよりよっぽどすごいものであるのに違いないとはまだは目をしばたたいた。
相も変わらず頭の上をするすると流れる空は、気がつけば明るい薄青に色めいて、匂いだってしそうだった。
なんてふしぎな子なんだろう。からっぽになった胸にふるふると湧き出した新しいそれがなんて名なのか考えるはまだの背の子の目には、きれいな秋の空と、だいすきなおてんとうさまがふんわり丸く浮かんでいた。
―――― thank you found out me, thank you held in me your arms.
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