里の子まよい子いちょうの葉
――― 里の子まよい子いちょうの葉
ほうぼう茂ったいちょうの木は、秋口のうすあおい空を遮って黄色の雨を降らせていた。そのため世界は一面黄色く、空くらいしかほかの色がない。ばらばらと降ってはやわらかい土の上につもり、砂時計のように上から下へとこぼれつづけるが、秋のいちょうはどれほど葉を落とそうとおわりなど知らないかのように黄色の雨は降りつづいた。
そんななか、一枚のもみじの手のひらは、ちいちゃなどんぐりを拾うのに夢中になっていた。
ぴょん、ぴょんと跳ねながら、いちょうもみじの葉の陰を茶色のつぶ目がけて進んでいく。見つけると嬉しいのは、ぼうしのついたどんぐりだ。どんぐりは帽子のついたのとついてないののふたつがあって、時には帽子どうしが枝でくっついたものもあり、拾うときは茶色の実が落ちてしまわないようそうっとつまんでおかあさんの縫ってくれた巾着に入れていく。
それは至極単純で、ちいさすぎてあそびに混じられないいずみにとってたまらなく楽しいあそびだった。
薪拾いを言いつけられた兄について、いずみは秋の山へ来ていた。 ふもとの里にあるいずみの家から見える山は、夏の緑一色からもみじといちょうの二色に変わってとてもにぎやかそうに見えたが、山の中はそれ以上にきれいだった。山道には葉という落ち葉が重なって地面を見れば黄のいろ、空を仰いでも、のびのびと廻った枝に茂る葉のいろでこれまたおなじくこの世をひといろで染めあげる。
まだちいちゃかったいずみは薪をひろう兄とは別に、落ち葉にうもれたどんぐりの実を拾っていた。これがけっこう楽しくて、茶色く光るトチやナラのちいちゃな木の実を、空より地に近いいずみの目は葉に隠れたものさえ容易に見つけることができる。けれどいかなちいちゃなどんぐりとはいえ、いずみの手のひらではせいぜいニつぶ入れるに止まる。兄について山に行くたびどんぐり拾いをするいずみがそれではいやだとぐずるので、いずみのおかあさんはいくつかの端切れでかんたんな巾着を作ってくれた。
葉は降り続き、いずみのつやつやした髪を撫でて地面につもる。そんなことにはかまいもせず、どんぐり拾いに夢中のいずみは粒を見つける度しゃがみ、つまんで巾着へ入れ、目線を前にやるとまたどんぐりのあるほうへぴょんと跳んで拾いに行く。そうして、巾着がいっぱいになる頃やっと、ひさしぶりに膝をのばした。
ひさびさに立ったら足がすこしぴりぴりする。それでもたくさんどんぐりをひろって満足していたのでちょっとくらいの痺れは気にもならず、くるりと振り返って兄のすがたをさがした。
ところが、兄の姿はどこにもなかった。ただうしろに延延とつづくいちょうばやしには降る葉以外にうごくものはなく、黄のいろ以外ほかのいろなどひとつもない。
そうしてようやくまい子のいずみは、いっしょに山へ来ていた兄とはぐれてしまったのに気づいたのだった。
いずみはまだ三つになるくらいで、ひとりぼっちになったと知るや心細くて泣き出してしまった。
「にいちゃん」
どんぐりの巾着のくちをきゅっと握り四つ上の兄を呼ばってみるが、どこからも声は返ってこない。見渡しても四方はいちょうしかないため見た目にははじめに兄といた場所とちがいはなく、いずみの頭は混乱した。兄だけがこの場からいなくなってしまったように思えたのだ。
いずみにはどんぐり拾いに夢中になって、自分がはぐれてしまったことなど気づかない。うもれてしまいそうな一色にとり残された心細さと不安だけが、いずみにわかったことだった。
それでもちいちゃな足は黄色の上をそろそろと、兄を探して歩きはじめた。四方いちょうの帰り道などもとより覚えていないので、兄さえ見つかればうちに帰られると思って、涙で濡れた声で何度も兄を呼ばってみる。
「にいちゃん。にいちゃん、どこ。」
舌たらずの幼い声が、こだまもしない林の中で幾度も呼ばる。けれどいくら呼ぼうと、恋しい声は返ってこなかった。そのうちにいずみのか細い足はくたびれて、金色の土の上で膝を抱えてうずくまり、ぐすぐすという鼻声はとうとう本気で泣き出してしまった。いちょうはそんないずみの上に、そ知らぬ顔で黄の葉っぱを降らし続ける。大粒の秋の雨がはらはらと、風もないのにこぼれ続ける。
うつむくいずみのちいちゃい頭が、しゃくり上げるたび膝の上でひくりと震えた。そこからこぼれるなみだと濡れた泣き声だけ、地面に落ちてしみこんでゆく。
どれくらいそうしていたろうか。いずみは目をつぶっていたからわからなかったが、その頭にあるとき黒い影が被さった。
おいと声をかけられてようやっと、いずみは顔をあげた。なみだと洟でぐしゃぐしゃの顔はいずみのおおきな目も染めて、声の主の姿さえ映さなかったので、はじめいずみは顔を左右に振った。ほんとうはそのひとがいちょうと同じ色をしていたので、わからなかっただけなのだけれど。
声の主が見つからずまた泣きかけると、左のほうから声がした。声はいずみを「おまえ」と呼んだ。
「ヒ、ック。」
「おまえ、まよったのか。」
「う。えー・・・」
まよった、という言葉で、心細くてただ泣いていただけだったいずみは自分の状況にはじめて気づき、また泣き始めた。それをとめたのは声の主だった。
そのひとは何も言わずいずみの頭を膝から掘り起こすと、自分の袖でていねいに顔を拭い、今度ははっきりと同じことを訊いた。
「おまえ、ふもとの里のもんだな。迷ったんだろ。」
「・・・」
「帰してやるからついてこい。」
水気をうばわれたいずみの両目にようやっと、声の主の姿が映った。
そのひとは山のいちょうとおんなじ色の髪と瞳をしていた。いずみの兄の仲間にも、こんな色をしたひとはいない。おてんとうさまの光が差し込むといちょうよりも一層濃い金の瞳は淡く明るく輝いて、気を惹かれたいずみはほんの少しだけ泣くことをやめた。世界はあまりに黄のいろ一色で、もうこれ以上は変わらないと思っていたのに、その髪と目のいろは飽いた世界と一線を画していた。
けれどその瞳と視線がかち合った途端、いずみは迷子であるのを否が応でも思い出してまた涙があふれてきた。ひとりぼっちではないにしろ、このひとはいずみの兄ではないし、いちばん会いたいその兄はもういずみのちかくにはいないような気がしていた。
さくさくとわらじの下の落ち葉が鳴く。下がりがちな視線をすこし上げると、だれかと手をつないだいずみのちいちゃな手が見える。
いずみがしゃくりあげるだけになったので、そのひとはどんぐりの巾着と反対側の手をとって、黙って葉っぱの雨の中を歩いていた。
いずみは少しだけ前を歩く右手の先のひとを黙って見た。年の頃は兄よりも自分と近いだろうか。淡い藍の小袖に、やわらかそうな髪が襟にすこしかかっている。
あのいろはなんなのだろう。やわらかそうな細いそれは、明らかにいずみたちとは異質なものだ。
それは、おとなたちならそう言ったかもしれない。けれどその手をつないだいずみは、良くも悪くもまだみっつの子どもだった。木々の間を縫い差し込む光が、やわらかくその髪をなぜるのをきれいだとおもっただけだった。
いずみの手をひくそのひとはまっすぐにまえを向いて、まるであちこちにしるしがあるかのようによどみなく山の中を歩いていた。しばらくそのひとと歩いていたけれど、さいしょにすこし会話のようなものを交わしたきりいずみたちは一度もしゃべっていなかった。
いずみは終始洟をぐすぐすいわせていたし、そのひとは前を向いたっきりいずみのほうなんか見なかったから。けれどいずみが歩きやすいようにとろとろと歩いてくれていたし、やぶみたいなところはよけてちゃんと道になったところを選んでいたり、ちいちゃいいずみのことをちゃんと気にかけて進んでいた。
歩いているうち、ざざ降りだったいちょうの雨はしだいに弱まりその割りあいは少なくなる。手をつないだのと反対側の手に持った巾着のくちをぎゅっとにぎって足もとの葉っぱをずっと見ていたいずみは、ひさしぶりに目のまえのひとの声で頭を上げた。
「ほら、着いたぞ。」
そのことばで。はっとして顔を上げると、くさむらと木の向こうにいくつか家が見えた。ひとつはともだちのふみきの家、ひとつはおとなりさんの家、もうひとつは。
「おかあさん!」
いずみの家のすぐ横には畑がある。そこにおかあさんをみつけて、いずみは手をはなしてぱあっと駆け出した。
くさむらの中からがさがさっといずみが出てくるのを、おかあさんがはっとして見ている。
その膝にまとわりついたいずみを屈んで頭を撫でているのを、優しい目をして見ているのを、木の影からそのひとは見ていた。
なつかしいものを見るような目で。けれどそれらのあたたかい世界を、どこかとおくから見ているようなさみしい目で。
その影が消えた頃、抱きしめたちいさな子が落ちついたのを見ておかあさんが「どうやって帰ってきたの」と言った。さっきは上の子がひとりで帰ってきて、また探しに山へ行かせたのだ。その兄とは一緒でないようだし、ちいちゃないずみがまだひとりで帰って来られるわけなどないのだからそう尋ねると、いずみは自分の来たほうを振り返ってから首をかしげた。
「どうしたの?」
「あのね、つれてきてくれたの。」
「誰かと一緒だったの?」
「うん。さっきいたけどね、今いなくなった」
このいろのひと、と、いずみは持たせてやった端切れの巾着をごそごそし始めた。そこから取り出したのは。
「いちょう?」
「うん。きんいろのひと。」
どんぐり袋に一枚入った鮮やかないちょうもみじ。今山を賑わせているその葉に似たひととは、おそらくは山のひとだろう。
昔からふもとの人間が迷ったり怪我をしたりすると現れるというそのひとは、山の均衡を保つために山に生けるもの山を利用するものを分け隔てなく助けてくれる。里山は人間が入らねば荒れるし、また人間が入り過ぎても動植物の乱獲を招くので、そういうものには手厳しく、けれど普段は見守ってくれる山の使いだ。
「じゃあ、次にあったらお礼をしなきゃ。」
「おれい?」
「おまえありがとうも言わなかったんだろう?次に会ったら、ちゃんと言うんだよ。」
そう言って頭をなでてくれたおかあさんに、いずみはうんとおおきくへんじした。それを見ておかあさんがわらう。
つぎ会ったら、どんぐりをあげよう。たくさんあるから、みっつかよっつあげて、そうしてありがとうを言うんだ。もしかしたらあのいろにも触らせてもらえるかもしれないと、思うだけでとても楽しくなった。
それはちいさなちいさな頃のゆめ。やわらかい秋の色の、たいせつな。
□
いずみがうっすらと瞼をあげると、視界を縁取るきんいろの野っ原のようなものがさらさら揺れているのが見えた。それへかけていた指先に感覚が戻り、自分がこの毛並みに埋もれて眠っていたのを思い出す。
そのまま、上下する腹毛を撫でた。冬毛に変わろうというその部分はやわらかく、触るともこもこと気持ちよいのだが、指で梳くといくらか抜けた毛がとれる。それもなかなか半端な量ではないので普段は櫛で梳いてやるのだが、今は昼寝の延長線、この夢とうつつのはざまを堪能してもかまわないだろう。
瞼をとろつかせながら何度も撫でる。外気はひやりとそばかすの頬を撫ぜたけど、自身の体温を含んだ毛はほどよく温くまだ夢の中にいるようだ。
金色の夢を見ていた。ばさばさといちょうの雨の降り続ける、一面が黄色、それこそあきれ返るほど鮮やかなひと色の夢で、そこでちいさな自分はどんぐり拾いをしていた。もみじのような手のひらにひとつ入れるのが精一杯のどんぐりを、チョウチョのようにあちらこちらとめぐりながら。
今よりもっとちいさかった頃、いずみはとにかくどんぐり拾いに夢中になっていた。あまりちいさかったので四ツ上の兄は遊びに混ぜてはくれなかったし、仕方がないのでいつも母親についていた。だいすきな兄がやっと戻ってくるのは手伝いの時だけで、それでもいずみはよく後ろをついて歩いた。今思うと足元にちいさいのがちょろちょろと、邪魔だったろうなあとあの頃の兄くらいになったいずみは思う。
そんな時だった。かれと出会ったのは。
いずみは薪拾いを言いつけられた兄と山ではぐれ、泣いていたところを彼に助けられた。
「はまだ‥‥?」
金の毛並みの上へぽつりとつぶやくと、んん、と声がした。すると毛並みの向こうからおおきなきつねの頭が現れて、仲間とするように濡れた鼻先をいずみの顔へ近づけてきた。
くすぐったくていずみはわらう。すり寄せられた頬に手をそえてあたたかい目のみつめるのは、黄よりも濃い鬱金の瞳。
「起きた?寒くなかった?」
「ん。もう術といていい。」
「じゃあ。」
するん、と指から髪から、体の下にしていた金の毛布が消える。秋の山でうとうととし始めたいずみのために、かれはおおきな狐に姿を変えてその金色の体でくるんでくれていたのだ。
言いながら体を起こしていたので転んでしまうようなことはなく、降り積もった木の葉の上にちょこんと座ったいずみの体を誰かが後ろから抱きしめた。
髪に鼻先をうずめられるとくすぐったくて、体をよじろうとすると腰のあたりを捕まえられる。はまだ、と言うとやっとこそばいのから逃がしてくれた。
振り向くと金の眼。あの頃よりおたがい年も増えて背も伸びたけれど、その優しい色だけは変わらなかった。
「あべとみはしは?」
「みはしはあべ追っかけてって、二人ともまだ来てないよ。」
「またおにごっこでもしてんのかねぇ。みはしも、ヒトの姿でなけりゃ勝てんのに。」
「そりゃ、まあ、むずかしいからな。」
腹の前でむすばれたはまだの手に、いずみは自分の手を重ねる。だいぶと涼しくなってきて山は里よりもひんやりするけど、体をよせているところはずっとあたたかい。いずみの見えないところではまだがちいさく笑った。山のひとはおいそれと自分の正体をばらしたりしない。はまだといずみがちょっとばかり、ふつうでないのだ。
いずみと友達のあべはふもとの里の子だけれど、はまだとみはしはヒトではなく、山の子の狐だ。
今でこそこんなふうに甘ったるくじゃれあうけれど、出会った頃はなかなかそうもいかなった。はまだが山ではぐれたいずみを助けてくれたのだって、いずみがかわいそうだったからでなく、いずみを探しに山へヒトがたくさん入ってくるのが嫌だったからだ。
それを面と向かって言われたし、もともとはまだはヒトが好きではなかった。それはとても根深くて、だれであっても治してやれるようなものじゃなかったけれど。
「探しにいくか?」
「いや、じゃますんのもワルイじゃん?」
「ええ?」
「二人とも、ぶきっちょすぎんだよな。すきなんてさ、たったふた文字なのに」
いずみのくろいおおきな目が、はまだの目に映る。両親とも撃たれたあとにはまだにきれいな目をくれたのは、同じようにしてひとりになったみはしと、山と、いずみだけだった。びっくりするほどちいさくても生きていかなきゃならなくて、死に物狂いで生きてきた。こころはすさんですさんで、みはしはそばにいてくれたけれど埋まらない部分が確かにあった。
それに触れたのはちいさなもみじ。ぐうぜん見つけたまよい子の、とうさんもかあさんも連れていった大嫌いなヒトの子の、ちいさなもみじみたいな手のひらだった。
『ねぇ、そのかみ、さわっていい?』
「おれたちは、あいつら来るまでこうしてよ」
「ん。」
ちいさなちいさな、ぶどうみたいな丸い目の子がそう言った。
その子のそばはおどろくほどあたたか。抱きとめられるだけその腕で抱きとめて、薄い黄色の葉のふるなかでふたりはずっとそうしていた。
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