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世界の果てまで雪は降り

【人狼と悪魔】
 


 地平の向こうまで世界は蒼く
 吐く息は凍りついて、白かった。


 世界には二色しかなかった。
 それは夜の色が雪によって緩和され、蒼く見えるのと、吐いた息がはしから凍って白く煙るからだった。

 今宵は新月で、光はない。しかし雪は蓄光性でもあるのかうすら青くさざめいて、瞬きするほどに深さを増してゆく。

 その深雪で、ウメはぼんやり佇んでいた。
 針葉樹がぼつぼつ生えるその陰で、地平まで同じ景色を見やって立つ。

 実のところ、なにか見ているわけではない。じっと、来るべきなにかを待っていた。


「さーみぃなァ……」


 ひとりごちてみても、しんしんと降る雪に吸い込まれてしまうようだった。
 つい先程まで秘境の温泉を探して山中をうろついていたウメだが、途中懐かしいにおいを嗅いでここにこうして立っている。
 わずかな風が運んで来たのは、真っ白な雪とは似合わない、赤黒い血のにおいだ。
 狩りや何かで流されたふつうのけもののにおいであれば、それは自然の摂理であるしウメが出張る必要はない。

 しかし、そうではない。そうではないから、ウメは雪の中に立っていた。

 紅い瞳が見据える先、どこも同じような雪の地面と林のそれが、突然ぼこりと隆起した。
 ほんの一部。地面を割って現れたのは、大きな狼だった。



「よぉ」

「………」

「元気?」



 パンツのポケットに手を入れたまま、薄笑いのウメが狼にそう言う。
 が、状況はへらへらと気安く声をかけられるようなそれではなかった。

 雪原から現れたその狼は、体長がウメの倍もあるような大型のけものだった。一見雪色に見える体毛は僅かに金がかっており、その存在が正確には狼という生き物でないことを語る。

 その色が、今や無残にも赤黒く汚れてしまっていた。
 ウメの嗅ぎつけた血のにおいだ。所々に傷を負い、いくつかは深手らしく一層強く香り、死臭さえ混じりかけている。びりびりと毛を逆立てて威嚇してくるのは、致し方ない事だ。


『退け。』

「どこ逃げたって捕まるぜ。」

『……退けよ、』

「そんな死にてえのか。なら止めねーけど」

『……』

「生きたいんなら、助けてやるよ。」
 

 低く低く唸り 牙を剥くけものは、同じ喉から人の言葉を捻り出す。それはそうだ、彼は人でもあるのだから。

 世の中には人間外の存在が多少なりともいる。色濃く芳しく香る血からは同胞と人間の両方が匂い、またその姿から彼は人狼という種族のようだが、ウメにはそれ以上詳しい事はわからない。
 わかるのは、純粋な魔性だろうと人が混じっていようと、殲滅しようとする人間がいるという事だ。
 彼らはイレギュラーを許さない。自分たちに害を及ぼそうが及ぼすまいが、化け物と呼び蔑む存在は全て消してしまわないと気の済まない人間が中にはいるのだ。

 だから彼は淘汰されようとしている。ウメは悪魔だが、同胞をひどいめに合わせようと思った事はない。それなのに、同じ血が入ったものをも殺せる彼らは、ウメを悪魔と罵り同じく淘汰しようとする。全く恐ろしい事この上ない。
 ほんの通りがかっただけだが、同胞がそんな危ない奴等にいじめられているとあっては顔を突っ込みたくなるのが悪魔ウメの性分だった。

 別に死にたいというのであればそれで構わない。でも、生きていたいのなら、死ななくともいいのじゃないか。ウメはそう思っている。


『…おまえ、なにもんだよ。』

「あくま。」

『ハァ?』

「つーかどーすんだよ、生きてぇのか死にてぇのか。あいつら来たぞ。」


 ちらと目を向けた先、狼が吐いた血のけぶる息が雪で崩れると、背後の林から人影がふたつ現れた。
 彼らは間違いなく狼を淘汰しようとする人間たちだろう。何らかの方法で狼を追いかけて来たようだが、ウメを見るとその歩みを止めた。
 ウメは見た目には彼らとそう違いはない。姿は同じく、雪山をゆくための暖かな格好も同じだが、十分な距離を隔てて対峙するふたりと二人は決定的に違っていた。
 二人の掲げる清らのしるしはふたりにはなく、それを前に薄ら笑うウメの後ろには狼がいた。ただ彼はもう大分血を失って、巨躯を支える四肢はしばらく前からがくがくと震えている。
 しかしその翠の眼はぎっと前をねめつけていた。ウメが笑うのはその為なのか。相入れない二人を前に、ウメは口の端を上げる。

 彼は生きたいと言った。だからウメは、そうする事にした。


「……それの仲間か、」

「そ。それでこいつ、死にたくないって言うんで」
 

 零下の夜。氷めいた粉雪が降り頻りただただ白い世界にて、それより冷たい空気が停滞していた。固形と化した空気はふたりと二人にまつわり、距離はいつまでも埋まらない。
 たったの一言それだけ交わして二人はふたりを殺してしまうことにした。いやその前から初めから彼らはそうと決めていたのかも知れないが、彼らが滅却の為に獲物を振りかざすそれより早くウメは右手を彼らに向けた。
 人差し指と中指と手首と肘を真っ直ぐに、差し向けられた二人は攻撃を想定し身構える。一人は防壁を作るために手にした本の詠唱を始め、もう一人は獲物を構えこちらに向かって来た。
 バックアップ、アタッカーと役割が決まっているらしい。固化した空気は音をたてて割れ、狩りが始まる。が、ウメの右手がそれと交わる事はなかった。

 指先は二人のうち、こちらへ向かってきたほうへ向けられた。指の点すのはその黒い瞳で、丸いそれには手にしたものを正しく降り下ろす為に、ウメと狼が写っている。
 その瞬間、彼には滅ぼさねばならない相手がぐんと大きくなって見えた。空間を削り取ったように一瞬で懐を掻い潜り姿が眼前に迫ったと思ったが、そう認識は出来ても人の身でその速度に対応する事は敵わなかった。

 ああしんでしまう、と練磨の彼は思った事だろう。ただ感嘆すべきはそう悟っても怨敵から視線を逸らさず右手を降り下ろすのをやめなかった事で、振り抜いた一撃はその膝より積もった雪を砕く。
 真綿の雪の地面に近いほうは圧されて窪み、上のほうは衝撃で結晶がまた吹き上がり一帯は更に濃くけぶる。
 しかし手応えはなく、更に視界は零。相手が化け物であるゆえに上下を含む全方位からの急襲に備え再び構えをとる。

 が。彼の獲物がウメか狼の素っ首を捉える事はなかった。氷と雪の覆いが消えそこがただの雪山に戻ると、最早そこには誰もいない。
 ただ降り頻る雪と自分の作ったすりばち状の凹みがあるだけで、影も気配すらも残っていなかった。
 あの時やつらは目の前に飛び込んできて、そのまま逃げたのだろうか。それなら後ろで見ていた筈の連れが知っている筈だと振り向くと、全てを見ていた彼女はふたりの消えた場所を指さした。

 厚い手袋に被われていてもわかる、ほっそりとした指。
 透き通る目の見るものと、指さすものは、彼の丸い黒い瞳だった。







「だーっ、死ぬかと思った!」

「オレの部屋で死ぬなよ。つかそれ温泉土産? 温泉行くって言ってなかったっけ。」

『……な、何だ……?』


 どちゃり、と地面へ強かに叩き付けられてそのまま仰いだ空は、ノスタルジックな橙色に染まっていた。
 否よく見れば空ではなく天井で、狼が伏しているのは地面ではなく板張りの床だ。窓の外から光は入って来る様で、橙の強い西日が部屋を染めているらしい。

 さっきまで雪山にいた筈なのに、これは一体どういう事なのか。
 あの時、あくまだとかいうこの赤い奴が指を指したもの。それは狼を殺そうとした奴で、右手が上がるのと同時に赤い彼は反対の手で狼に触れた。
 あとは一瞬の事だった。強い殺意の色をした目がぐんと近づいて、ああ殺されてしまうと思ったのに、気がついたらここにいた。

 ぽかんとして瞬いた狼の耳に、また別の声が触れる。その人物、というより黒い布の塊は、狼たちが部屋へなだれ込んだ音のせいで現れたらしい。塊は自称悪魔と話しながらカーテンを閉め、橙色を追い出してしまうと、被っていた布を脱ぐ。
 薄暗がりでもわかる程強い金色の髪をした青年だ。見た目は自称悪魔と同じくらい若い人間の姿だが、瞬間移動なんてして見せた奴の知り合いだ。本当のところはどうか。
 彼は煩わしい布を脱いで腕へかけると、狼の顔を覗き込んだ。


「ああ、すげえ血の匂い。人間と混じってんだ。」

「やっべぇ忘れてた。おまえ結構ケガしてたんじゃん。」


 狼へ思い切りのし掛かっていた自称悪魔は慌てて飛び退き、ざっと体を見回して一番深い傷口に手を翳す。狼の元々の性質として傷の治りが異常に早いのはあるのだが、彼が手を翳したところは深手だったにも関わらず、出血は止まってしまった。
 手は触れてはいないが皮膚の程近くにあり、彼の体温へまた別の熱が乗っているような熱い感覚がする。焼けるほどではないが、じわりと広がるような温かさだ。

 他人の体温は、こんなに心地の良いものだったろうか。覚えているのはずっとずっと昔に親の庇護下にあった頃の感覚だけで、他人の熱なんてそれから触れた事がなかったから、知らなかった。
 血が足りなくて冷たい体に、自称悪魔の熱が触れると、それを吸い取って体が温かくなるようだ。それがあまり心地好かったのと血を流し過ぎたせいで、狼の瞼はゆっくりと閉じていく。

 それを見て、悪魔が死ぬなと宣った。
 悪魔というのは存外にハートフルな存在らしい。


「オレこんな頑張ってんだから死ぬなよ!」

「ウメ、ちょっと見せて。」

「はまだ、なんとか出来んのかよ」


 死ぬなと言われてもそもそも自分は死にたくないのだが、負わされた傷については自分の力ではこれ以上どうにもならない。
 他にも音が聞こえたが、狼はそこまで考えるともう意識を保っていられなかった。

 自分は死ぬのだろうか。
 いろいろとこっぴどくやられたし、死んでもおかしくはないが、今死ぬと助けてくれたあの悪魔に悪い気がする。
 長いことひとりきりで生きていたから、がんばれ、とか死ぬな、とか、そういう事を言われた事はなかなか嬉しかった。
 それに手のひらは暖かかったし。
 死にたくないな、と思った。
 その後に降りてきた世界は、ただただ黒かった。



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