Category:阿部と三橋
2016 8th Mar.
☆ 僕らの春まであと少し
【高校生と高校生】
ペンの先が紙を滑る音がする。そこへ時折ページをめくる音がして、午後の柔らかな日が差す部屋はそんな音楽で満ちていた。
阿部は今し方解いた問題から顔を上げ、前を見る。
ただし、彼には気づかれないように。そんな心持ちで様子を窺う相手は、睫毛を伏せて一心に問題を解いていた。
柔らかそうな印象の睫毛だ。実際はちゃんと太さもあるのだがそうは見えないわけは、日差しが睫毛を淡く輝かせているからだろう。
その色は髪と同じに金の色をしていた。否、本当は色素の薄い茶の色だ。少し癖気味の柔らかい髪は一条二条の光を吸い込み、そこだけきらきらと金の色に照ってみせる。
綺麗だった。ただ真っ黒い自分とは違う色に興味を持っていかれ見つめていると、彼は視線に気づいたようで少し顔を上げ、正面に座す阿部を見て笑った。
きら、と音が聞こえそうなほどその笑顔は淡く光る。金色の睫毛を優しく伏せて目を細め、くすぐったげに笑うその目はただ阿部のものだ。あんまり優しくて見とれていると、彼は頬笑んだまま阿部に話しかけた。
「阿部く、どこ、まで進んだ?」
「え、ああ……予定したとこまでは終わったな」
久方ぶりに聞いた声にさえ気を取られてしまったが、すぐにはっとして問いに答える。手元の問題集はもう残りわずかだ、進捗としては悪くない。
その阿部の回答にはそうかとだけ返事がきて、会話はそれで終わってしまった。それはそうだろう、こんなふうに勉強していられる時間もあと少しなのだ。そもそもそんな限られた時間の中で他人の集中を乱した阿部は本来責められても仕方がない。
けれど阿部は彼がそんなふうにはしない相手だとわかっていた。だから黙って手元へ目を落とすと再び文字列を辿り始める。
現在高校三年生の阿部は大学受験を目前に控えていた。既に学校の授業を終え、今は自宅で参考書を開く日々だ。
受験する大学は一応判定のうちである。それでもほぼ無趣味の阿部にはこれといってする事もなかったし、苦手な分野は相変わらず苦手なので勉強を欠かしてはいない。
阿部は一人で勉強できないタイプではない。けれどわざわざ相手の家に出向いてまで一緒に勉強するわけは、そんなのたったひとつしかなかった。
阿部と彼、三橋という名の同級生は、同性でありながらごく親密な仲だ。そして三橋は勉強が不得手であったため、阿部が付ききりで教えてやっている。
三橋は勉強に関して、当初はどれが得意科目なんだと頭を抱えるくらい全般が苦手であったものの、部活に在籍していた頃に部員みんなで勉強会を開催していた事もあり今はそれなりの成績を上げていた。
まあ、そうでなくては阿部が困る。自分と同じ大学へ進みたいと言ったのは三橋のほうなのだから。
理系の阿部と文系の三橋では得意な分野が違うから同じ学部とまではいかないが、大学が同じなら今までとそう変わらない関係を続けられるはずだ。
だから三橋には頑張ってもらわねばならない。そして阿部自身も受からなくては意味がないから、毎日二人して問題集に向かっているのだった。
しかし。
(……わっかんねえ)
罫線の上を滑っていた阿部のペン先が止まる。ある一点で手がぴたりと止まっていたかと思うと、やがてシャーペンが投げ出され、右手はそばへ控えていたペットボトルへ伸びた。
キャップを開ける音がする。お茶のボトルが視界の端で上下するのを認識しながら、三橋は阿部がペンを取るのを待った。
一分待っても、その時は来なかった。
「阿部君」
「あ?」
「手が、留守だ」
三橋が顔を上げてそう言うと、正面の阿部はばつが悪そうに自分からも問題集からも目を逸らした。
三橋は阿部の手元をちらりと見やる。そこへ広げられた問題集には、読解力を要求する長文問題が設けられていた。
阿部は国語が苦手だ。それでも暗記能力のほうを求められる漢字の書き取りや、古典での動詞の活用などシステマチックなものは難なく解ける。
問題は長文問題だ。読む事はできるが、登場人物の心情を答えよなどという問題になると途端に手が止まってしまう。
案の定線が引いてあるカタカナを漢字に変換する序盤の問題は解けているのに、四択にされた筆者の意図を選ぶ事ができていない。
おそらく阿部の言い分はこうだ。作者がこの作品を通し何を言いたいかなんて本人以外にわかるわけがない。
その言い分もわからなくはないが、こうして問題にされている時点で答えはあるのだ。それも四択にしてあるのだから、まずあり得ないだろうというものから除外してあとは選べばいい。と三橋は思うのだが、それも教科が変われば「数式を覚えておけば簡単だろう」と言ってのける阿部と変わらないのだろう。
だから三橋は阿部のほうに手を伸ばした。ちょっと貸してくれと問題集を拐う。
「こっち、見ちゃダメだ。向こう向いてて」
「何する気だよ」
三橋に向こうを向いていろと言われた阿部はそうひとりごちて、何となく横に置いていた端末を手に取った。
時計代わりくらいにしか機能していない阿部の端末は案の定なんの通知も来ていない。気晴らしになるようなアプリも入れていないので阿部は早々に端末を放ると、三橋がぺらりとページをめくるのが視界の隅に見えた。
「……見た?」
「見てねーよ。何したんだ」
「じゃあ、いい。オレ、最後のページにちょっと、書いたから。ちゃんと問題ぜんぶ解いてから、読んで、くれ」
元の長文問題のページを開き、三橋はそう言って問題集を阿部に返した。
ちょっと書いたって何だ。阿部も高校卒業間際になり、三橋の言葉も出会ったばかりの頃に比べるとわかるようになったとはいえ、彼の言う事は根本的に文の成分が足りていない。
主語をつけろ主語をと思いながら、三橋が何か書き込んだらしい最後のページに気がいってしまう。透けて見えやしないかと思ったわけではないが左のページを凝視していると、三橋に解けと言われてしまった。仕方なしにペンを構える。
「……筆者の意図なんか本人以外、」
「でも、答えはある。四分の一だ」
「……」
知恵のついてきた三橋に黙らされる事が増えた阿部だった。
黙々と問を解く。しばらくの付き合いだったこの問題集も残りわずかとなり、あと三ページほどだ。
軽い音をたてるようになった一ページと三橋の言葉で問題を解く速さにも拍車がかかる。開いて右、左のページも解くが三橋の文字はどこにも見あたらない。
次のページか。そちらにはもう設問がなく、奥付などが書かれたページのはずだ。
阿部はめくる前にちらと三橋を窺った。解き終わった事に気づいたらしい三橋は阿部と視線を交差させると、何も言わずに目を逸らす。
「終わったぞ」
「…………」
(見てもいいって事だよな?)
無言を肯定的に受け取った阿部は三橋を窺いつつ、めくった次のページを見た。
白いページだ。右は帳尻合わせのためだけの白紙で、左に奥付がある。一見してどこに三橋の字があるのかわからず首を傾げた阿部だったが、白紙の右ページの隅に銀色に光るシャーペンの文字を見つけ、それを目で辿った。
筆圧の低い三橋の字は細い。隅に小さく書かれた文字列は、ほんの一言だった。
「…………、」
「うう……」
もうとっくに読み終えたはずの時間が経っても阿部は問題集から顔を上げない。しばらくの沈黙に耐えかねたのは三橋のほうだった。
小さくうめいたのは恥ずかしさからで、色の白い頬が薄く色づいていくからそうとわかる。
阿部に手紙めいたものなんて書くのは初めてだ。端末相手に送るメッセージとはわけが違う。やる気を出してくれればと思っただけだが、実際に自分の字で書いた言葉を見られるのがこんなに恥ずかしいとは思わなかった。
そろそろ顔を上げてもいい頃なのに。もしかして字が汚すぎて読めないのだろうか。何て書いてあるんだと聞かれたら泣いてしまうと三橋が耳まで赤くした頃、阿部はようやく顔を上げた。
「三橋」
「はい……」
「何やってんだ。早く問題解け」
「え」
「解け。早く解け。いいから解け」
顔を上げた阿部はまくし立てるようにそう言い、三橋はぽかんとしてしまう。
だって言っている事と表情とが合っていない。まっすぐに見つめてくる三橋の視線から逃げるように、阿部は手にした問題集で顔を隠した。
「受験まで日がねェんだ、それまでとにかく勉強すんぞ」
分厚い紙にくぐもる阿部の声に、三橋はようやくくすっと笑った。阿部には問題集から覗かせたたれ目で睨まれてしまったが、そんな顔では迫力なんかこれっぽっちもない。
うん、と三橋は頷いた。それを黙って見ていた阿部の顔は、先ほど考えがぐるぐるして真っ赤になった三橋と同じくらいの色をしている。
そう、二人おんなじ気持ちなのだ。だから全然こわくない。
三橋が最後のページに書いたのは、「合格したら、一緒に部屋、探しに行こう」という短い一言。三橋が阿部だけに宛てたメッセージは一足先に春を見ている。
しかしそのためには目の前のものから片づけていかなくてはならない。参考書と問題集のページと同じく、その日まであと少しだ。
二人夢見る同じ春まであと少し。
桜色をした二人の春が手に触れるまで、ほんのあと少しだ。
一年365題より
3/8「残り少ないページ」
← →