Category:浜田と泉
2014 28th Jun.
あのこのおかあさん
【あのこのお母さんとぼく】
あのひとに初めて会ったのは、空が青くて白い日だった。
「よしろー? まだ帰って来てないよ。」
玄関の戸を叩けば出てきてくれると思ったひとはいなくて、その不在を告げた彼女にオレはただただ戸惑った。
今日学校が終わったら遊ぼうねと約束したのに、友だちはまだ帰っていないという。何をして遊ぼうかなんて楽しみにしていたぶん、友だちではないひとがアパートの一室から出てきたとき、風船みたいに膨らんでいた心はしぼんでしまった。
さらに応対したのが当時のオレの周囲にはいなかったタイプの女性だというのも、オレの言葉を奪った一因だった。
彼女はまだ「お姉さん」で充分通じる年頃の女性だった。セミロングの髪はとても明るい色で、その日はあんまり外が明るかったから周りから光が差し込んで、とても明るい茶か金色の色をしていたように思う。
出で立ちもまた全然違った。暑かったのかキャミソールに丈の短いパンツだけで、隠れているところといえば体幹部分だけ。明らかに部屋着のそれからは細い手足が惜しげもなく出されていて、当時のオレの低い視界は彼女と向き合うと肌色しか見えなかった。
たいてい友だちの家に邪魔をしてその際応対してくれる女性と言えば、「おばさん」とこちらが呼ぶお母さんか、おばあちゃん、あとは同じ小学校に在籍する友だちの姉ちゃんくらいだ。
けれどこの年代の、こんなに明るい色の女のひとを見たことは皆無だった。驚いたのと困ってしまったのとで黙り込んだオレを、不思議そうに見つめてくるのも落ち着かなかった。
「あーそっか、何年生のトモダチ?」
「に、二ねんせい、です。」
「時間割違うんだよねー。そっかそっか、じゃあウチ上がって待ってなよ。そろそろアイツも帰って来る頃だし」
「え。」
「ウチボロいけど気にしないでねー。」
彼女は決して「一を聞いて十を知る」タイプなのではなくて、一を聞いたら十を決めるくらいの勢いなのだと思う。学年を答えただけなのに、次の瞬間にはドアの内側に誘われていた。むしろ押し込まれたような覚えがあるようなないような、それくらいの勢いだった。
前置きしたということは、快活な彼女もそれなりにあの建物の状態を気にしていたのだろうか。ボロいよとの言葉どおり、中も建物の外見と違わず古めかしい作りになっていた。
旧い台所と色の褪せた木材部分、それは畳も同じで、最早黄色くなった畳の部屋はけれど、ひとが暮らしている雰囲気をあたたかくしているようにも見えた。わりに片付いている居間とおぼしき部屋は狭かったが、玄関と真向かいになる窓は大きく、開け払ってあったために窮屈さは感じなかった。
暗い部屋にそこだけ、光る絵画を嵌め込んだように窓が眩しい。古い木の窓枠は夏空を切り取って、青と白の眩しい色は記憶に焼き付くほど鮮烈だった。
「ねーねー、アイス食べる?」
「え、あの、」
「チョコ好きー?」
窓の外に目を奪われていたが、背後からかかったその声にはっとした。振り向けば冷凍庫を開けたらしい音のあと、彼女がアイスを持って歩いてくるところだった。
「ウチさ、アイス食べたくても二人いないと食べられないってルールがあるんだよね。決めたオヤが破るわけにいかないからさ!」
ね、と差し出されたのは、小さなボトルを模した入れ物に入ったアイスで、もともと二つでペアになって売っているやつだった。彼女の言うルールはよくわからないが、このタイプなら二人で食べないと端数が出るからわかりやすい、というチョイスなのかもしれない。単に好みなだけかもしれないが。
「はい!」
さっきまでペアだったのだというような繋ぎ目部分が未練たらしくついたそれを、ハサミで口の部分を切って渡される。
何かもらったらお礼を言わなくてはならない。気圧されてもそれは身にしみついていたから、ありがとう、と言うと、彼女は笑った。
自分のぶんを咥えながら、照れたように笑った彼女はとても魅力的だったと思う。
目鼻立ちのはっきりしたひとで、大きめの口をにっと引いて笑う。口元だけでなく顔のすべてで嬉しい楽しいを表現するのは、まだ帰宅していない友だちによく似ていた。
この笑顔を見ると、見ているだけのこちらも胸がぽっと明るくなる。それだけで当時のオレは彼女のことが好きになった。
「よーし、じゃあアタシは洗濯物たたむわー。よしろ来るまで好きにしてて。」
オレにアイスを渡すと、彼女は素足をぺたぺた言わせて窓の方へ歩いていった。
ベランダのない古いアパートにおいてあの大きな窓は洗濯物を干す場所でもあるらしく、竿に下がった洗濯物がはたはたと気持ち良さげに空を泳ぐ。
ひとの家でどうしていいかわからなかったオレは、何となく彼女を見た。
洗濯物の取り込みなんて、家庭ごとに違うわけでない。物干し竿に下げたハンガーごと、乾いた衣類を大きなカゴへ放り込んでいくのを黙って見守る。
中には見覚えのある服もあった。当たり前のことなのだが、友だちの生活風景を垣間見たような気がして新鮮に思ったものだ。
そして彼女は最後に、真っ白くて大きなワイシャツを取り込んだ。
白い色が太陽の光を弾いて一瞬光ったものだから、作業を眺めていたオレはびっくりして目を丸くした。彼女はそれに気付いたらしく、ワイシャツとオレとを順に見て口を開いた。
「ああ、これ? おっきいでしょ」
またあの顔でにっと笑って、彼女はそのワイシャツをハンガーにかけたまま自分の体にあてた。
ワイシャツの大きさを示すためだろう、確かに彼女の細い体に比べると、男物のそれはだいぶと大きい。いや、あれはきっとふつうの男性のものより丈も身幅も大きかった。そのため彼女がごく短いパンツを穿いていたこともあり、大きなワイシャツはまるで夏向きの白いシャツワンピースのようにも見えた。
それを指先で撫でて、彼女はまた笑った。
けれど今度は今までの快活なそれでない。まだものをよく知らない子どもの目には、それは嬉しそうな顔に見えた。
「これはねぇ、アタシの大事なひとのなんだ。」
さっきまでは唇の端をにっと引いて笑っていたひとが、唇で笑うのじゃなく、気持ちを唇へ乗せたようだ。
それはふんわり優しく、今まで見ていたひとと随分違うのでオレは彼女を見上げていた。少し吊った目元は軽く伏せた睫毛に隠れ、なんだか照れたような顔だったから、オレは嬉しそうだなんて思ったのだろう。
けれどそれはたった一瞬のことで、玄関先で聞き慣れた声が帰宅を告げる声により、彼女はまた快活な彼女に戻る。
とても明るく笑う彼女。そんな彼女の別の側面は、ずっと印象に残った。
それは年を重ねればいつかはわかるもので、またある経験をすれば、答えは簡単に出る。
今のオレにはそれが簡単に導き出せる。そうあれは、いとしくて大切なものを思う顔だ。
「九州から何が来たって?」
「袋ラーメンがぎっしり詰まったダン箱がひとつ……」
あれから時間は経ち、小二と小三の子どもは高校一年生になった。あの日アイスを食べていたオレたちをずるいずるいと非難した小三の彼は、今や親元を離れ一人で生活をしている。
そんな彼のもとに届いた荷物には、彼女の名前が書いてあった。懐かしくむしろ笑えてくるのは、あの頃と相変わらずの彼女が荷物から見えてくるからだ。
「出来るだけ日持ちする食い物を寄越そうと思ったんだな、きっと。」
「日持ち考えんなら息子の健康も考えてくれっての。なあ?」
悪口にも似た言葉を、肩を竦めて交わし合う。
困ったように言うけれど、笑いを噛み殺して荷物を見る彼の表情は、あの時の彼女とそっくりおんなじ顔をしていた。
―― Our fair Lady.
一年365題より
6/28「白いワイシャツ」
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