365 | ナノ

Category:浜田と泉
2013 30th Aug.

(猫) 翳

【猫いずみシリーズ】



 瞼の裏は暗い。
 黒なのではない。なぜなら真昼の光が瞼を透かして僅かでも明度を上げる為で、意識はしばらくその中に居た。
 夢を見たかと問われれば、暗い色のそれを見ていたと答えるかもしれない。発熱などの疲労感の所為でそれ一色の中にずっと居た浜田は、覚醒と共に瞼が上がった。

 眠気をベースに倦怠感と浮遊感を混ぜ込んだ、発熱時によくある雰囲気に部屋が浸かっている。テレビの前に置いた時計を一度瞬きして見ると、時刻は十二時十五分前を示していた。


「…っ、」


 その瞬間、微睡んでいた瞼は限界まで押し上げられた。
 十二時十五分前。昼目前のこの時間は、本来ならとっくに昼食の支度に取り掛かっている筈だ。
 それがこんな時間まで寝ていた上、更に悪い事には、今日はまだ朝食すら済ませていない。

 同居の仔猫が腹を空かせている。勝手に冷蔵庫を漁るぶんにはいいが、変なものを口に入れて具合を悪くしていたら大変だ。
 そう思い飛び起きてから、浜田は仔猫が居ない事に気がついた。

 もとい、思い出した。仔猫は、友人に預けたのだった。

 そろそろと布団へ戻る。枕に頭を沈め、一瞬であちこちに巡った緊張を解いてしまうと、忘れていた微熱の感と倦怠感とが舞い戻る。
 不注意でちょっと重めのカゼをひいてしまい仔猫にうつしてはいけないと、あのこは一日友人のところなのだ。
 そう、今はカゼを出来るだけ早く治すように眠らなければならない。けれど泥のように深く眠った後では瞼も重くはならないので、浜田は手の甲を額に当ててぼんやりと部屋の中を見た。

 浜田がカゼをひいたところで、部屋の様子など変わらない。数字の入れ替わるデジタル時計と、休んでいるテレビと、昨日寝る前にお茶を飲んでそのままのコップがベランダから入る光を静かに受けている。
 今日は天気が良いらしい。 真昼近い光は白く目映く、窓枠の形をして延び入り込むところはとてもとても明るくなる。風が吹く度舞う小さなものは塵だろうがそんなものさえ、あと僅かの午前中をきらきら彩る飾りになる。

 けれどそれは、心の中まで入らない。
 手を伸ばせば簡単に触れる暖かな世界を、翳ったところから見ている事に浜田は気付いた。
 それはベッドが部屋の端にあるから翳っているとか、そういう事でない。
 感覚の話だ。しかし浜田にとってこれは驚くべき事では最早なく、ここ暫く忘れていただけの、むしろよく知った感覚だった。

 そう、こんなふうだった。
 八畳の狭い部屋に満ちているのは沈黙。テレビも時計も洗濯物も、グラスもテーブルもカラーボックスも皆息を殺して佇んでいる。
 その中にたった一人息をする自分自身の呼吸さえ、あるはずなのに周りに吸い込まれて音がしない。
 夜なら瞼を閉じてしまえば自分も「もの」のひとつになって溶けてしまえるのに、昼はだめだ。明るい昼に一人でいると、翳った冷たいところにいる自分が浮き彫りになり、暖かな世界から糾弾されるようで息が出来なくなる。
 一人の部屋はとても広い。音もなく、存在もなく、暖かで美しいだけ。

 久方ぶりに自分を襲う世界を見ていられなくて、浜田は目を伏せる。と、狭まる視界の端で携帯の光るのが見えた気がした。
 悪友のくれた差し入れ達に紛れていたそれを取ると、確かに光が点滅している。
 なんだろう、と二件のメール通知のアイコンを選択すると、メールの差出人は悪友たちだった。

 熱を出した時、浜田は親しい友人二人に連絡をした。一人は電話をかけたらすぐに出てくれ、仔猫を預かってくれたが、もう一人は捕まらなかったのだ。
 梶山という彼のメールは今ほど電話に気付いたという内容で、仔猫をかわいがっている事もあり後ほどそちらに合流するとの事だった。
 もう一通は、その仔猫を預かってくれている梅原という友人からだった。
 差出人と件名しか表示されていない一覧からそれを開くと、たった一文がそこにあった。

 「これからメシ。げんき」とあるそれは、彼の現在の状況を現すもののようだが、それを浜田に報告してくる意味がわからない。
 返信の仕方に困りながらスクロールすると、画像が添付されていた。


「ふっ、」


 それは、梅原と仔猫のツーショットだった。梅原が仔猫を抱き抱え頬擦りしていて、仔猫は仔猫でオムライスの乗った皿を抱えるようにして食べている。ただ、目は真っ直ぐこちらに向けて、スプーンを持つ手と反対の手は小さくピースサインを作っていた。
 梅原に抱えられ出ていった時は涙に濡れた目をして不満そうにしていたが、大好物のお陰か機嫌は幾分良いような顔だ。

 画像を見て、浜田は吹き出した。暫くそれを見つめる浜田の目は和み、優しい色を湛えるのだった。

 以前自分と世界との関係は常に冷ややかだったのに、忘れてしまっていたのは何故だろう。
 底から生まれて水面で弾ける泡のように、頭の中へ次々と浮かんでいたことがらを止めたのは、その問いの答えだった。

 独り暮らしを始め、通学費や生活費を稼ぐ毎日に忙殺されて冷えきっていた浜田のこころにやって来たのは、生まれたばかりで捨てられていた仔猫。
 春雷の降りかけた夜に黒い仔猫を拾ったが、彼が来てからの毎日は、記憶の中にあるそれ以前の事柄とは全く色を違える。

 いそがしく、せわしなく、慌ただしく過ぎる仔猫が来てからの毎日。けれど優しく暖かく輝く彩度の高い毎日は、浜田の冷たくなった芯を融かしてこころを同じ色に染めるのだ。

 息をつくと、さっきまで押し黙っていた部屋の中が一斉に深く息をするようだ。
 目映いだけでなく色もついた世界に再び戻ってきた浜田は、返信に添付する為、へんな顔を作りながら携帯のカメラを自分へ向けた。


 自分の世界に色を付けてくれた大切な仔猫の為今日はたくさん休んでおこうと、返信を済ませた浜田は再び泥のような暗い夢を見るのだった。


―― Even shadow is Brightly.


一年365題より
8/30「弱音を吐くな!」
以前友人が住んでいた部屋がそうだったので、八畳とかいってます。


 
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