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2015 2nd Jan.
★ 春は雪の下
【狼と羊】
雪を叩きつける風の音が痛い。
やっとのことで逃げ込んだ洞窟の中で、ふたりは久方ぶりに息をした。
外は猛吹雪だ。気温がより低いのだろう、粉のように小さな雪が吹き付けて、あちらはもう息さえ出来ない。視界が悪いのは尚の事だ、今日はもう進めないと、見つけた洞窟の中に逃げ込んだ。
とはいえ、外との違いは風と雪がない事だけだ。雪山の洞窟は冷えていてあまりに寒い。自分たちはいちおう毛皮を着ているから、それなりに凌げはするが、寒いものはやはり寒い。
それだけの理由でなく体の冷たいはまだの前で、連れの彼はもこもこした上着を脱いだ。
彼だって絶対に寒い筈だ、どうしたのだろうと見ていたら、上着についた雪を払う為に脱いだらしかった。
白くもこもこの上着から雪の固まりを払い落とし、彼はそれをまた着るとはまだのところへやって来た。
「これ伸び縮みするから、おまえも被れ。」
「オレも羊になんの?」
「外がこう寒いんじゃ、ふわふわもこもの羊になりたくってたまんねえだろ。」
脱げ、と言われるまま言葉の通りに上を脱ぐと、頭からふわもこの上着を被せられた。
今まで吹雪の中を来たなんて思えないくらい、彼の服は暖かい。本当によく伸びるらしいそれは、はまだと彼のふたりを中に納めても全く苦しくなどなかった。
むしろふたりだけの、柔らかくて暖かな寝床のような。鼻先をくすぐるきれいな髪に唇を落とすと、彼は腕の中で照れたように笑った。
「服着て抱き合うより、裸のほうが暖かいんだって聞いたんだけど、ほんとだな。」
「いずみは物知りだなァ。」
「てめえ、ばかにしてんのか」
「褒めてんだって。」
ここはこんなに冷たいのにどうだろう、この睦言の暖かさは。
堪らずきゃらきゃらと笑い出した恋人を腕に抱いて、その薄い唇を自分のそれで塞いでしまう。
腕の中の恋人は、はまだよりいくらか小さい。まだ少し子どもなのだ。
ほとんど大人の狼であるはまだの大切な子は、同じ狼ではなく、羊の子だった。
本来彼らは捕食者と被食者の関係であるが、偶然から親しくなり、互いに一番大切な存在になった。
けれどそれぞれの仲間がいる故郷では祝福されず、ふたりは穏やかな春の国があるという山の向こうを目指して故郷を捨ててきた。
かなり逃げては来たが、今も狼の仲間は追って来ている。先に進まなくてはならないが、ふたりとも生きてたどり着く事が大切だ。
今夜はもう休もうとはまだが言うと、いずみは小さく返事をした。おやすみを言うがそれには返事がない。
「……はまだ、」
「ん?」
「まだ、寒いか?」
「いずみのお陰であったかいよ。大丈夫、」
「……でも、おまえの体、冷たいまんまだ」
そう俯いた額に唇を落として、時間がかかるだけだよと言って聞かせる。
すると、彼はもう何か言ったりしなかった。心配そうにおやすみを言うその背中を安心させるように撫でてやりながら、はまだは虚ろに外を見た。
いずみは賢い子だ。そう、この体はもう熱を作るのが難しくなっている。
もう何日も食べていなかった。狼であるはまだの主食は、いずみのような生き物だ。
血の臭いをさせて帰ると彼は怖がった。そんなのは嫌だから肉を食うのをやめて、彼の真似をして草を食べてみたが、だめだった。
そもそも狼の体は草を消化出来るようには作られていない。口に入れても吐き気がして、冬の山に来てからはいずみの食べる分さえ手に入らなくなったから、はまだは食べることをやめた。
体が冷たい。中身が抜けて、ふわふわするようだ。
そのうちよく眠れなくなって、毎日瞼を閉じるだけで夜を過ごしている。
まだいずみは気付いていない筈だが、それも時間の問題かもしれない。
狼の仲間が追っている。いざとなれば戦わなくてはならないが、体が動くだろうか、頭が動くだろうかという心配がある。
それでも自分が死んだらいずみが爪で引き裂かれて、牙で食い千切られて殺されてしまう。
痛がって泣いているいずみを想像するだけで爪が尖る。きっと万一の時でも相討ちくらいには持っていけるだろうから、それならまだ安心だ。
「……ん……」
ぼんやりしていたはまだの耳に、吹雪の音以外の声が聞こえた。
いずみは寝付いたらしい。規則正しく、健やかな寝息を聞いて、はまだは口の端を少し上げると、さらさらした髪の分け目にキスをした。
唇には髪の感触、鼻には羊の匂いが届く。
もう久しく食べていない、肉の匂い。仲間と追い込んで、首に噛みつくと少し抵抗した後ぐったりとするから、あちこち食い破って散らかすのだ。
白くもこもこした毛が厚くて邪魔だから、適当に爪で掻いて剥ぐ。牙でするのは挟まるし口の中に入ると大変だからやらない。
まだ温かい皮を食い破ると肉がついていて、特に骨に付いているようなところが旨い。
そのうち真っ白かった毛が赤くなる。用が済んだら帰って眠る。
そんな妄想をしていたはまだだったが、腕の中の羊の子には全く爪を立てられなかった。
確かに旨そうな羊の匂いはする。
けれどもう、この匂いは恋人の匂いになってしまっていた。
愛しくて、爪をしまって抱き締めてやりたくなる、牙をしまって口付けたくなる恋人の匂い。
これからどんなに狂ったって、きっと彼だけは殺せない。それだけで、氷みたいな指先が暖かくなってくれるのだ。
(……ああ、でも)
眺めていた洞窟の外に、動くものを見つけてしまう。
いつの間にか吹雪は少し和らいだらしい。ふわふわの上着にいずみをくるんで、出来るだけ優しく寝かせると、はまだは凍ったような自分の服を着て外に出た。
もう、帰って来られなくても、いずみが生きていてくれたらそれでいい。それが一番良い。
その為には死んでもここで追手を殺さないといけない。
はまだはふらふらと外に出た。
弱くなった風が吹くと、木に積もっていた雪が舞う。白い、風花というやつだ。
吹雪はもうたくさんだが、これならいずみと見ても良い。
いずみは喜んでくれるかな。そう思いながら、金色の狼はひとり、冬の夜に姿を消した。
―― Snow slow
(Snows know)
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