部屋の一番目立つところに、薄手の、いかにも夏向けのワンピースがひとつ。それから、一緒に羽織るようにと念を押された軽い素材のジャケットが、皺一つつくことなく掛かっている。漸くこれを着る日が来た。
どちらも普段到底自分では選ばないもので、どうしても気後れして避けてきた華やかなデザインのそれを選んだのは凛くんだ。試着室でこれを纏って、大きな鏡で自分の姿を見たとき――確かに、胸の奥がじわりと温かくなるのが分かった。こんなに可愛い服を自分が着ても良いのだと、彼が私自身の代わりに認めてくれたような気がして嬉しかったのだ。凛くんはこれを試着している私を見て、似合う、可愛い、と沢山褒めてくれた。あの時は手放しに褒められたことへ何故だかかえって気後れしてしまって、ただ、この姿が変はないかと尋ねることしか出来なかったのだけれど。
この一着を選んでくれるまでに、ショッピングモールの中の店を数え切れないほど巡った。はじめのうちは、きっと凛くんだって自分のものも見たいだろうし、彼の服を選ぶところも見られるものとばかり思っていたけれど、実際のところは違った。男性向けの売り場へは全く目もくれず、ショーウインドウの女性服の掛かったマネキンを真剣に眺めたり、ハンガーを次々手に取っては私に合わせて、戻すを繰り返していたのだ。そうしながらも、移動のさなか、私の疲労や足を頻繁に気にしてくれていた。この日は沢山歩く事を加味していたからローヒールのパンプスを選んでいたし、凛くんは私に合わせて歩いてくれるからちっともその心配はなかったのに。大丈夫だからと告げても、ちらりと私の踵を覗き込もうとして、ふわりと揺れる金色の髪が愛おしかった。彼はいつもそうだ。私の服を選ぶことが自分の都合で、それが自分の楽しみで、だから長く歩かせて私が足を痛めたらいけないと、そう思っている。本当なら、そんなやさしい彼へ先ず、一言お礼を言うべきだった。この服を私の為に選んでくれてありがとうと、素直に言えればよかった。
待ち合わせの時間には少し早いけれど、もう家を出酔うとよそ行き向けの鞄を肩へ掛ける。前回は私の方が少し早かったから、もしかしたら凛くんが早めに待ち合わせ場所に居るような気がしたのだ。普段から使い慣れているミュールを履きながら、玄関の扉を閉めるとき、姿見の隅に映る自分の表情が少し硬いのを見た。
 

 
時間より少し早めに待ち合わせの場所へ着いたはずが、凛くんは既にいつものベンチへ腰を下ろしている。棒付きのアイスクリームの自販機が唯一側に有るベンチなので分かりやすくて良いと、付き合うようになる前からここを待ち合わせの定位置にしていた。普段と変わらず、背もたれに緩く凭れてipodで音楽を聞きながらスマホを眺めている。ただ今日は珍しく、左手にはアイスクリームの棒が握られていた。
私がベンチへ小走りで行くと、声を掛けるより前に、凛くんは流れるようなしぐさで片耳だけ付けていたイヤホンを外してポケットの中へ押し込む。彼がすっと立ち上がると、視線がぴったり合わさった。薄い灰色に青みがかかる綺麗な瞳を持った眦が、私を捉えたとき、必ずほんの少し甘くさがる。

「……わっさん、アイス食べた。」
「いいよ、そんな。なんで謝るの。」
「何となく。やーもかむか?」 
「ううん。じゃあ、何食べたか当ててみようかな。当てたらお願い一つ聞いてね。」

お願い、という言葉に凛くんは面白そうに微笑む。これが、あきらかに勝敗の見え透いた当てっこだからだ。彼は、この自販機のアイスのラインナップが豊富な中で、たった一つしか選ばない。それを、敢えて勝負と持ちかけた私のことが可笑しくて笑ったのだ。そして、私がするお願いが、きっと何が来ようと単純なのだと踏んでいる。実際そうだった。彼が明らかに困るようなことを頼む気は元から無かったのだから。

「いちごアイス。」
「正解。で、願い事ってぬーがよ。」

そう私に問いかけながら、凛くんが投げたアイスの棒は放物線を描いて見事に狭い間口のゴミ箱の中へ入った。からん、と、箱の底と棒とがぶつかる小気味の良い音が遅れて聞こえる。

「……手、繋いでほしい。」
「それ、お願いにならんどお。」
「ううん、なるよ。ちゃあんと一日繋いでいてね。」

行こう、と今日は私から凛くんの左手を取ると、彼は明らかに目を大きく丸くして――それからすぐ、込めた力よりも強く握り返してくれる。指先だけが先程食べたアイスの包装紙が纏った水滴で濡れてしまったようでひんやりとしていた。練習で何度も肉刺が出来て、その度治った彼の努力が垣間見える手のひらは厚く硬い。そして、熱を持っている。私より一回り大きい彼の手で私の手はすっぽりと覆われてしまった。

「……凛くん、どうかした?」

このあとすぐ歩き出すであろう、と一歩目を踏み出そうとして腕がくんと引かれる。凛くんはその場から動こうとせず、私の顔を姿をじっと眺めながら、

「……その服、やっぱりやーにでーじ似合う。」
「ええと、有難う。凛くんが選んでくれたからだよ。」
「そのイヤリング、やーが選んだば?ちゅらさんやあ。」
「なんか今日は特に褒めてくれるね……。」
「そうか?」

凛くんはやはり臆面もなく、はっきりと褒めるのだ。
塞がっていないもう片方の手で、私の右耳のイヤリングに少しだけ触れて軽く揺らす。花びらを模した大ぶりの飾り同士が触れ合って、しゃら、と鳴るのに気を取られていると、繋がっていた手のひらの熱が一瞬離れて。彼の指の間に、ひとつ、またひとつ私の指がするりと通された。離れた熱がより一層熱くなって、どうしようもなくなってしまう。

「わ……凄い、恋人同士みたい。」

繋ぎ直され、一層彼の熱を感じてどうにかぽつりと絞り出した言葉は、それは大層間抜けなものだ。それを聞いて凛くんはふ、とたまらず吹き出した。
「はあ?恋人さあ、みたいじゃなく。あーあー、嫌でももうこのままやし。手繋ぎたいっていうのはやーのお願いだからよー。諦めれ。」

「嫌じゃないよ、嬉しい。」
「止めてやら……え?」
「この間も、今日もね。沢山褒めてくれて有難う。すごく嬉しい。」

凛くんのほうが少しだけ余裕があって私の方がどうしようもなくなってしまう筈なのが、この時だけは違った。今までのままであればここで恥ずかしがって俯いてしまうのだけれど、今日だけは、真っ直ぐ彼の方を見て、素直な気持ちを伝えることが出来た。少しだけ勇気を出した私はきっと見るに堪えない真っ赤な顔をしているだろう。けれど、それを全て見せてしまっても。彼になら構わないような気がした。

20210601