寛くんの手が好きだ。
手のひらを合わせてみると、私よりずっと大きくて、骨張っていて、触れればいつも爬虫類みたいにひんやりと冷たい。夏はつい隣で微睡んでいる彼の手を無理やり自分の方へ持ってきて、頬を寄せてしまう。私は体温が高いから、触れたところから汗ばんでしまうけれど、彼は優しいので何も云わない。薄っすら私の方を見て必ず、眠ろうねえ、とひとこと囁く。空いているもう一つの手で私の背中を撫でる仕草はもう、怖いくらい慣れている。そうしてそのうち、私も、彼も、いつの間にかまどろみの海へ沈んでいるのだ。
寛くんの髪が好き。黒くて、しなやかで、いつだっていい香りがする。背の高い彼の髪へ触れられる機会は限られているけれど、私には魔法の言葉がある。彼がパソコンへ向かって真剣に何かをしていたって、洗濯物を畳んでくれていたって、ただ一言、寛くんと名前を呼ぶだけでいい。それだけで、彼は何もかもを切り上げて、涼しい眼をじっとこちらへ向けてくれる。手を伸ばせば、嬉しそうにはにかんで、長い腕が私の体を閉じ込めてくれるのだ。ベッドの縁へ凭れていたはずの私の背中は、いつの間にやら柔らかな布団の中へうずもれて、眼の前には憧れたつむじがある。彼からは、いつだってなにかの花の匂いがした。きっとこんな匂いのする花なら、さぞかし綺麗なんだろうと思ううち、天井から下がった照明がぐらりとわずかに揺れて、部屋の中は真っ暗になってしまう。ちかちかと、闇に慣れない私の目の前に白いなにかが瞬いて、なにも捉えられぬうちに、あの花の匂いが強く私の鼻をくすぐった。
やがて、月の光がレースの向こう側から、僅かに部屋の中へ明かりをもたらしているのだと気がつく頃には、寛くんの端正な顔がすぐそこにあって、私の顔を覗きこんでいる。

「びっくりした。こんなに近かったんだ。」
「あい?見えなかったの。」
「だってこんなに暗いから……でも今はちゃあんと見える。」
「わんからも見えてるよ。やーの顔、でーじ真っ赤さあ」

鼻先が漸く触れ合ってから、寛くんの吐息が目蓋を掠めて、ゆっくりと一つ口づけが落ちた。体も、手のひらも冷たい彼の薄い唇と舌はひどく熱を保っている。
私は寛くんの唇が好きだ。彼のすべての中で、此処がはじめに熱いのを、それを知っているのは、今も、これから先も、私だけであってくれるとしたらそれは何と贅沢なことだろうか。彼の好きなところをこうして全て一人占め出来るのなら、代わりに私の何もかもをあげてしまってもいい。それでも一生、釣り合いがとれぬほどの幸福だ。
澄んだ夜空に星屑を散らしたような寛くんの瞳が、闇の中でにわかにきらきら輝いて、ただ一心に注がれているよろこびを感じたとき、ここで初めて、漸く息を深く吐けるのだった。


20210421