名頃は慣れた手付きで仏壇からマッチ箱を持ってくると、横薬と頭薬を擦り合わせた。ジッという静かな音を立てて、焦げたにおいが辺りに薫る。畳に腰を下ろし、蚊取り線香の先を炙ると、眩い橙色の灯火が初夏の風に煽られて、軸木を強く燃やしたり、またその灯火がちかちかと消えかけた。やがて渦を巻いた先に火が点いたことを確かめると、指先にまで迫った灯火を吹き消した。
廊下に出してある蚊遣器の中へ蚊取り線香を入れ、火を点けるのは名頃の毎晩の役目だった。初夏から秋口に限ってのことではあるが、故につい忘れてしまう。忘れて寝床に蚊帳を吊るしていると、奥から声が聞こえるのだ。

「鹿雄さん、蚊取り線香点けてくださいね」
「分かった」
 
このやり取りは何度も繰り返されていた。女も辛抱強く、それも全くうんざりしたようすでもなく、まるで初めてとばかりのあかるい声色で同じことを云う。だから名頃も同じように、毎晩「忘れてた」と悪びれもなく応えてしまうのだ。
名頃がマッチのもえがらを始末して戻ってくると、鏡台で髪を梳かしていた女が寝る前の支度を終えたようで、名頃の吊るした蚊帳の中へ入った。名頃も電気を消してからその後に続いた。きちんと整えられた布団の中へさっと足を入れると天井を見上げる。横の女も同じように上を見ていた。

「昨日よりは涼しいなあ」
「ほんとうですね。鹿雄さん、昨日は寝汗びっしょりかいていましたよ。拭おうとしたら突然手掴むから……びっくりした」
「ひやっこいのが頬に触ったから。そら逃さへんようにする」
「人を氷枕かなにかだと思っていませんか?」
「ああ、うん。夏はひやっこくて、冬はぬくいもん」
「エアコンついてる部屋で寝たら、ぜんぶ解決するんですけどね」
 
女は上掛けを手繰り寄せて薄い腹へのせると、すぐ名頃の手を探した。そばにあるとわかると、暗がりの中でも名頃へ向かって微笑んで見せる。

「暑いんとちがうんか」
「あつい。鹿雄さん大好き。離さないでね、絶対」

調子がいい、そう分かっていても女のいじらしい言葉がじんと心に滲みてしまう。名頃の胸が熱くなる。
自分へ投げかけられたことは明白でも、はじめは女の言葉を疑っていた。何かべつに下心があるのではないかと問い質しはせずとも態度で拒絶を続けていた。同情、なのではないかとも。だのに何度も何度も、臆面もなく貴方の事を好いていると云われれば絆されずにいるのは難しいことだった。そんな形で女の愛情に身を任せてしまうことは、都合が良かったのだ。
自分には気が遠くなるような期間、狂おしいほど思い続けた人が心の中に居る。しかしそれを口にする気はない。情けないし、泣きたくなる。泣きたくなるが……。めらめらと――そう、まるでマッチの先の灯火のように揺れるこの感情と、一生付き合っていくつもりでいる。おのれの中では眩く、甘くあるもの。そして図々しくあるこの想いと。
 
「離さないで……」
 
女はもう一度、今度はうるんだ声で尻すぼみに呟いた。
名頃は女の声に弱かった。ひとたび拒めばばらばらに壊れてしまう、薄張りの硝子のような感情が遠慮なしにぶつかってくるようなこの声に。まるで鏡に映った自分を見ているようで、むず痒い。女が自分のような想いを抱いているのだと分かるから。抗えば、自分を否定するような感覚になるのは、自己中心的に思えて嫌だった。
名頃は女を好いていた。女を通して、透けて見えるような自分の心を労るような、そんな自分のことはひどく憎らしかったが。
名頃は女の手をひときわ強く握りかえしながら、
 
「分かった。離さへん」
「うん」
「トイレ行きたなっても離さへんわ」
「それは……離していいです」

願うならただ一人の馬鹿な男でいて、純粋に女を好きになりたかった。今日もまた、右手の中に一回り小さな熱を感じながら名頃は深い眠りにつく。
 
20200628




名頃先生の恋心を否定したない……みたいな話ばっかり思いつくし、寝る前のやり取りみたいなの大好きなので五億作は書きたい。
あと暑くなると名頃鹿雄は趣を増す……。