「お嬢ちゃん、こんな時間にお出掛けかな」

玄関の引き戸を静かに引いたと同時、のほほんとした柔らかい声がすぐ傍で聞こえる。驚きのあまり思わず後ずさるととうぜん同居人――名頃さんにぶつかった。名頃さんはそんな事も予想していたのだろうか、私の体を両手でしっかりと受け止めると腰をかがめながらもう一度、お出掛け?とわざとらしく声を潜めて問いかけてくる。
しばらく同じ空間で生活をともにして分かったことだが、名頃さんがいやに優しい声を出すのは少々へそをまげているときだ。一体何に機嫌を悪くしたのだろう。名頃さんの我儘が加速したのはここ最近のことで、出会ったときはもっと大人らしい大人だったはずなのだけれど。

「こんな時間も何も、まだ19時ですけれど」
「そう」 
「お夕飯、お鍋にポトフが入っています」
「ええ……。今日和食の気分やったのに」 
「お米はしかけてありますから、炊けたら食べてください。名頃さんの好きな麦ごはんですよ」
「おじさんと食べてくれへんの」
「……お漬物とほうれん草の和え物は冷蔵庫の中に。それじゃ」
 
同じ内容は台所の机の上にメモを残してある。早口でさっと説明を済ませて行こうとするが、二の腕をかるく掴んだ大きな手のひらがそれをさせてくれない。体を引かれると後頭部が名頃さんの胸板に触る。癖のついた左足のパンプスが抜けて、ストッキング越しに足先がひんやりした。長く細く、女性のようにしなやかな指が私の首筋をなぞっていくとネックレスを弄ぶ。
これは名頃さんが日頃のお礼にと、ある日突然呉れたものだった。銀色のチェーンに下がった控えめに光る宝石の名前を、何度たずねても彼は教えてくれなかったから結局何なのかも分からないままだ。直接首に飾って呉れた形だったので、ブランド名も何も分からないこれを私は身に着けていることになる。
もしかしたら、ただの硝子玉なのかもしれない。あり得る。けれどそれでも良かった。物の価値はそんな所にはないし、名頃さんが呉れるものなら、きっとどんなものでも嬉しかったはずだ。
これを呉れたのは何の節目のときでもない――そもそも男女の関係ですらないのだから節目も何も無いが――とにかく、不器用な彼の感謝のかたちとして渡されたことだけが明確な事実としてあった。何もない女へこれを。
私がネックレスを名頃さんの前で身につけたことは今日を除いて一度もなかった。鏡台の前でこれを着けた自分をぼんやり眺めたとき、何だかしるしめいて見えてしまったからだ。鏡の中の女が嬉しそうに笑うたび、その感情はすべて浅はかで図々しいものだと分かってしまう。
ここで暮らし始めて、少し肉のついた頬を抓る。こんな風に幸せの中へ溺れていくような自分は嫌いではなかった。
そのぜいたくで満たされた頬を、今名頃さんは指先でするすると撫でている。
 
「めかしこんで、誰のために……?」
 
名頃さんは私のコートの掛け釦を一つ外しながら呟いた。値札も付けっぱなしだった服を着ることは果たして『めかしこむ』事になるのだろうか。
共に出かけたい人を誘う勇気もなく、用意だけをしていた女が着ているこの服は情けなくはないのか。
 
「会社の忘年会のためです」

私がそう、3日前にも名頃さんに直接伝えて共用のカレンダーにまで予め書き込んであった予定を告げた。するとどうだ、彼は急にぱっと私から手を引いてみせる。
外された釦を掛け直して、名頃さんの方を向くと驚いたような顔をしていた。私の方こそ、そんな顔をしたいところだ。
ややあって彼は私の首からネックレスを外すと掌の中に収めてしまった。
 
「あっ」

結局ネックレスが彼の懐にしまわれてしまうまでの一部始終を眺めていた。華奢なチェーンだ、どこかに引っかかって切れてしまうことを恐れて丁寧に扱ってきている。呉れた当人へ云うのはおかしなことだが、思わず、もっと大事に触ってくださいと消えそうな声で抗議をした。その扱いが変わるわけではなかったが。
 
「これは、他所様に気軽に見せるもんと違う」
「だったら誰に見せるんですか」
「俺」
「どうして」
「どうしても」

そう云われてしまったら、この問答はこれ以上意味をなさない。 
それから名頃さんは思い立ったように一度部屋に引っ込んだかと思うと、手に何かを握って戻ってきた。彼が出張や試合の前に使っているコロンの瓶だ。瓶の蓋が開くとかぎ慣れた香りがする。
 
「特別サービスや」
「お出かけする名頃さんの匂い」
「何やそれ、けったいな子やな」


馴れた手付きでコロンを手のひらに一吹きして、私の項や手首に躊躇いなく触れた。今度は私から、名頃さんの匂いがする。目の前に本人が居るのに不思議なことだ。それでも寂しくなってしまった首を撫でると、名頃さんは玄関のコート掛けと一緒に下げてあるマフラーを恭しく巻いてくれた。私がふだんしている、雑誌で見てから真似た巻き方とは程遠かったけれど、何故だか私に1番似合う気がする。私の黄みがかったダッフルコートに、名頃さんの黒の毛糸のマフラー。色合いこそそうおかしくは無いけれど、ひと目で紳士物のそれとわかる。ちぐはくではないだろうか。

「飲み屋の匂いがつきますよ」
「洗たらええ」
「そうやってなんでも洗うから。この間縮んだ服のこと忘れちゃいましたか」
「細かいことよう覚えてはる子やな……。外寒いから、暖かくして行き。お土産は焼き鳥」
「本当に食べますか?」
「うん。ねぎま、ぼんじり、ししとう一本ずつ。それから」

一拍おいて、うずら、と二人分の声が重なった。
 
 
 
この日の忘年会は私に付き合っている男性がいること前提の話が上がったが、私には付き合っている人も、勿論婚約者だっていなかった。根も葉もない噂だからきっと酒の席だけで終わってくれることだろう。
しっかり一次会で抜けて来たので、おかげさまで帰りがけにレンタルショップに寄ってディスクを返せたし、土日に消化するための新しい映画も借りることが出来た。名頃さん、SFは好きだろうか。そもそも、今週末は家にいるのだろうか?
私が云われたとおり律儀に持って帰った焼き鳥を名頃さんは次の日の朝に温めて食べていた。

20181211