ある時、早乙女さんが前触れもなく私に小箱を呉れた。
飾りも素っ気もない、まっさらな小箱は滑らかなビロードのようなもので覆われている。思わず私は目を煌めかせて、開けてもいいですか、と前のめりに云うと彼はああ、とだけ返した。箱の中身は私が期待に胸を膨らませていた通り、指輪だった。銀色に、控えめなピンクダイヤモンドが嵌め込まれた飾り気のないもので、しかし当然のように対の指輪は無いのだった。

「早乙女さんの分の指輪は……」
 
と、私が何気なく問うと早乙女さんは吸いさしの煙草を灰皿に押し付けながら
「また今度」とだけ云う。 
 
早乙女さんの指輪はわたしが買いましょうかと提案をしてみたのだが、彼は首を横に振るばかりでそのまま誤魔化すようにベッドへ共々雪崩込んでしまったので、結局指輪は片割れのままだった。
この指輪は安物だと早乙女さんは分厚い毛布を頭から被りながら呟いた。中央のダイヤモンドも人工のもので、シルバーも鍍金であるから直ぐに剥がれてしまうだろうと聞きもしないのに指輪の正体について洗いざらい饒舌に話すので、それが却って彼らしくもないが、まるで予めそう云っておくことで後々の面倒事はごめんだとせんばかりの態度だけ彼らしかった。

「なら、鍍金が剥がれないように大事にしないといけませんね」
「そうか、そういうモンか」
「大事にしたらいけませんか」
「いや。お前が思うように、大事に持っていてくれ」 
「でも、そう思うと着けずに大切にこの箱にしまっておいたほうがいいと思うんです」
「馬鹿だな、着けなかったら意味ねェだろ」
「意味がないですか」
「その指輪が駄目になる頃には貰ってやる」
 
貰ってやるという言葉が何を指すのかはすぐに分かった。
それが嬉しくて、思わず跳ね起きると早乙女さんはベッドから落ちてしまった毛布を自分の方へと引き寄せる。本当に、本当に、とせっついてみれば遂に煩わしそうにいずれは、と小さな声で返してくれた。
この時早乙女さんのいずれ、は、先の見えないいつかであり、それが一ヶ月先なのか、一年先なのか、まずは指輪を駄目にしなければ次には進めないのだと思った私は、兎に角貰ったこれを四六時中肌身離さず傍に置いた。水仕事の時でさえ傷がつくことを恐れずに敢えて外さずに行った。艶々とした指輪は二ヶ月経たずしてくすみを帯びる。ダイヤモンドは相変わらず輝いていた。この石はどんな時でも瞬くので、私はそのうちこれは早乙女さんなのではないかと思うほどだった。
半年が過ぎて、遂に鍍金が剥がれ落ちた。どこかに引っ掛けてしまったのだろうか、無機質な傷が遠慮なくくすんだ表面を抉ったようだった。指輪の姿は貰った当初の面影を多少残してはいるものの、はじめに付けた傷からぽろぽろと銀が剥がれていくのをまた喜ばしく思うのだった。大事に持っていてくれというのに、これが見る影もなくなることを私と同じように早乙女さんも望んでいるのだと、思っていたのだ。
ある日を境に早乙女さんとぱったり連絡が取れなくなった。電話はおろかメールすら来なくなった。そのうち携帯が解約されたようで、彼の家の場所すら知らない私はすっかり困ってしまった。けれども、どうやら金貸しの仕事をしているらしいことだけは知っていたので、うろ覚えの端々の記憶からどうにか早乙女さんが居るであろう、事務所にたどり着いたのである。冷たいドアノブに手を掛けて私は勇み気味で来た足をひとまず止めた。──早乙女さんに会って一体何を言おうとしているのだろうかと思った。思えば彼の生い立ちも、家族構成も、交友関係も、何もかもを知らなかったのだ。そんな人と私は結婚の約束をしていた。それは随分おかしな話だった。古びた金属質の扉に、乱暴に貼り付けられた『早乙女金融』の文字が急に恐ろしく現実でないように感じる。
それでもどうにか、右手でドアを叩きながら、ノブを捻ったとき──そこには、誰もいなかった。恐る恐る中を伺えば、オフィスデスクと、古びた革張りのソファーが残されているばかりである。窓際に向けてひとつ恐らくこの事務所の中で一番偉い人間が座るであろう机を見た。ここに早乙女さんは座っているのだろうか。
何か手掛かりはないものかと駄目元で机の一番広い引き出しを引いた。が、空である。次に右側のキャビネットの引き出しを一つ一つ上から順に引き出した。三段目を引いたところでごとん、と何かが転がる音がした。手を差し入れて、探った指先に滑らかな何かが触れた。掴んで、手のひらにあるものは私が希っていたものだと気がついたとき、彼はもうこの世にはいないのだと分かった。

20171031