目の前で深く上下する胸をじっと見る。勿論、ただ眠っているだけなのだが、閉じられた瞳がまるで永遠に開かないのではないかと錯覚してしまうほど、目の前の女性は眠りを続けている。こうして痛いほどの視線を送り続けても、目を覚ますことはない。起きやしない。どこまでも起きないものなのかと、柔らかな髪に触れてみたり、すこし赤みのかかった頬へ向けて、おどろくほど冷えた自身の手の甲をあててみたりをすることは最早毎回のことだった。
さて、そろそろ彼女がかけた目覚ましも鳴る頃だろうと、寝相で床に落ちていた自分のものではない、型落ちのしたスマートフォンを拾い上げたときだ。視線を彼女にやれば、丁度重い瞼を開ききった頃だった。

「おはようございます、まだ目覚ましは鳴っていませんよ」
「…安室さん、早起きですね」

彼女の寝間着の襟が、すこしばかりはだけていたので、そっと元の位置に整えた。目のやり場に困ってしまうほどのものでは無かったが、何となくだ。 今時の肩の露になった服だとか、膝丈よりも上のスカートだとか。この人にはそういった類いのものが不釣り合いのような気がしてならなかった。彼女はそんなものを好んで着たことは一度もないのに。

「あの」
「はい」
「おはようございます。わたし、返していませんでしたね」
「──ああ、そうでしたか。有難う御座います」

彼女との朝はいつも、後朝と呼ぶには余りにも名残のない、至ってあっさりとしたものだった。僕と彼女の間には一切のロマンスがない。兎に角ここで過ごす時間には甘いひとときなど存在しないのだ。僕が彼女の部屋に訪れたときは、ただテレビの前のソファに腰を下ろし、他愛もないことを語る。ああでもない、こうでもないと、それは時事問題に拘らず。最新の本のことから、共通の知人や友人についてなど、それが尽くされれば、どちらともなく風呂へ行き、そして眠る。それだけ。この部屋の替えのタオルの位置、靴下の置かれた箪笥の段、ティッシュボックスの在処、些細なことでさえ僕は逃したことはないのに、手すら握ったことはない、彼女は恋人ではない、セックスフレンドだなんてとんでもない。どこか、汚してはならないような、汚す気すら起きないような、そんな人だ。そのくせ同じベッドに入っているのだから、僕だって分からない。彼女は一体何なのだと、問われてもきっと答えられはしない。──壁に掛けられた時計を見る、あと二分ほどで目覚ましが鳴るはず。

「朝食は何にしましょうか」
「いいんですか。安室さんに毎回作っていただいて」
「良いんです。一宿の恩なので」
「なら、サンドイッチを」
「へ?」
「ポアロで出されている、サンドイッチを」

食パンも、ハムもあるんですと呟くと、恥ずかしそうにまた布団に顔を埋めてしまう。そういえば、ここで作ったものといえば、簡単な卵焼きや、味噌汁程度でサンドイッチは一度もなかった。特に、彼女はポアロに訪れても一度も食べ物らしいものを頼んだことがなかったと記憶している。てっきり、あの場所には食べたいものが無いのか、と勝手に解釈していたため、まさかこんなものが出てくるとは思いもよらず。──僕は笑ってしまっていたらしい。

「そんな風に笑うんですね」
「僕、ふだん無愛想ですか?」
「違います、違いますよ。いつも笑顔なので、そうではなく。……素敵です。とても」
「それは……」

真意が読み取れず、どういうことなのか、と問いかけようとすると同時に、けたたましくアラームが鳴り始めた。細い指が枕元のスマートフォンに触れる。すぐにそれは消えた。安っぽいベッドのスプリングを軋ませて、彼女はゆっくりと起き上がる。

「続きは次に話しますね。また後で良いので、安室さんの空いている日を教えてください。観たい映画が沢山有るんです。──ここで、ふたりで。」

夢のような時間は無粋な終わりを告げるが、ここにきて、彼女から切り出された初めての"約束"に、僕の胸は疼いた。

20170717加筆修正
20170427