危ない、と、若い男の声がした。
成る程確かにわたしは急勾配の階段の天辺で、今にも飛び降りそうなほど高く足を上げ、碌に下も見やしないでいる。大きな右手がしっかりと、自分の左手を掴んでいた。案外強い力で元居た場所に戻されると、また先程と同じく、危ない、と云った。灰色のスーツを身に纏うこの人は、わたしの知り合いではないと思う。薄黄色の前髪の隙間から、青い瞳が遠慮もなくこちらを見据えるものなので、吃驚して思わず下を向く。もう一度、恐る恐る見上げれば、そこには無表情の男がやはり立っている。今度こそ瞳がかちりと合った。
「さあ、帰るぞ」
当然のように男はそのままわたしの手を引いた。そこには一切の戸惑いもなく、至極当たり前のような所作である。みるみるうちに石階段から離れてゆくのを、ぼんやり眺めたら、今度は振り向きもしない男の背中を見た。随分と童顔であるけれど、年の頃は20の後半は過ぎている筈だと思った。歩く最中、どうして此処に来たのかと問うと、男は憮然とした声で、当たり前だとだけ云った。全く答えにはならないのだが。はあ、そうなのですかと出かけた言葉を、すっかり飲み込んだ。
どこまで行くのかも告げられず、また自分も当然分からず、はて、はたしてあの階段までどのようにして辿り着いたのか、それすらも分からないことは不思議であったけれど、きっとそれはこの男がすべて知っているような気がしてならなかった。気がつけば畷を突き進んでいた。丁寧に磨かれた男の革靴は、泥と土埃でみるみる汚れていく。男は関せずといった態度で変わらずに進んでいく。やがて真横に八重桜が見えた。強い風が吹くたび、濃い桃色を一際美しく乱してゆく、一面が美しい反物を敷きつめたような有り様だった。わたしがもっともな表現を出来るものなら、この光景をまともらしい言葉で、口から滑らせていたのかもしれない。ここではただ、ほうと息を吐くことしか叶わずにいた。不思議とこの八重桜には見覚えがあった。
「ここには以前来たことがある」
「ええ、ええ。覚えていますとも 」
「それは覚えているんだな」
「貴方にも以前お会いしたのでしょうか」
「どうだろう」
男はやはり眉ひとつぴくりとも動かさずに、今度はわたしのほうをじっと見る。手は確りと繋がれたままである。先程出会ったばかりの男とこうしてしばらく居ることは、まったく奇異そのものだった。にも拘らずそのままで居るのは、きっとこの気味が悪いほどの心地のよさにある。わたしもまた、こうして手を引かれることが、共に歩くことがまるで当たり前のような心地だったからだ。あの寂しい石階段の上にぽつりと残されていたときの方が、違和そのものであった。
あのとき確かにわたしは落ちようとしていた筈なのに、どうして落ちようとしたわけも分からないのだろうか。それもこの男がすべて知っているのだろうか。そうなのだとしたら、それは恐ろしいことだ。自分には何もないのだ。わけがわからないまま、このままゆくのだろうか。
「手を離して頂けやしないでしょうか、降谷さん」
──降谷さん、と、自然と口から言葉が零れる。そうだこの男は降谷さんというのかと、自分の名前も抜け落ちたわたしが、何故か臆面なく呼んだそれが、ただしいものと分かるのは、たしかに男が笑ったからだった。
「今、名前を呼んだな」
「ええ、ええ。呼びました、降谷さん。貴方は降谷さんでしょう」
「ああうん、そう。そうだよ」
降谷さん、降谷さん、と意味もなく繰り返し呼ぶと、男はついに私を掻き抱いた。さきほど後ろから眺めていた彼の肩幅は、思っていたものとぴったりの具合だった。ああ、人は暖かいんだな、違うな、降谷さんだから暖かいのかな、と、懐かしい匂いをいっぱいに吸い込んで、私はゆっくり目を閉じる。

20170430