――ガササッ。
…一体何分、何時間そうしていたのだろう。
不意に自然に起こったとは考えられない草を分ける音で僕は目を覚ました。
しっかり目蓋を開け、上体を起こす。毛が逆立つ感覚を覚えながら僅かな葉擦れの音も拾おうと耳をそばだてた。空気の震えが鼓膜に届く度にぴくりぴくりと神経質に耳朶を動かす。
望美さん…、じゃないですね。足音が違う。
咄嗟にそう判断した僕は直感に従ってこの場を離れようとしたが注視している方向から例えようもない殺気を感じて足を止めた。
「…逃げんなよ。んな面倒くせぇ事しようとしたら仕留める前に両足噛み切るぜ」
ぞっとする事を言いながら今度は足音どころか気配すらも潜めず、夢現つを打ち破るかのように密集した丈の高い草の内から声の主は現れた。
――すらりとした無駄のない体躯。
青みがかった毛は少し癖気味なのだろう、全体的につんつんとしている。抜けるような瞳の色は綺麗で粗暴な印象を精悍なものへと昇華していた。
そしてそこで揺れる耳、波立つ尻尾。
一見しただけでも分かるその相貌は何もかもが捕食者然としていて…彼女と同じか、それに連なる――狼である事は明らかだった。
「あーあ、寝てる時にやれりゃあ一発だってのに。俺も随分鈍ってんな〜」
誰に話し掛けるでもなく、やれやれと言った風に一人語ちた彼はまるで何事もなかったような軽い足取りでこちらに歩いてくる。
相手がはっきり目視出来るようになった事で先ほど感じた押し潰すようなプレッシャーは薄らいだが未だに僕の足は地に縛られていた。
「めず…、らしいですね…。ここらは君じゃない狼の縄張りのはずなのですが…」
虚偽など微塵もないであろう先程の台詞は脅迫ではなく、予告なのだろう。 声が緊張で擦れる。
あまり獲物とは言葉は交わさないのか彼は一瞬虚を突かれたような表情をした。
「あ?…あー、そうなんだけどよ。最近近場で獲物が減ってきたし、新しいエリアの開拓にな。…ここいら仕切ってる奴群れじゃないねぇだろ?ちょいとおこぼれを頂戴しにな」
要するに縄張り争いって訳ですか…。
…こんな状況下でも望美さんに仇為すもののだと思うとじわりと敵対心が沸き上がってくる。
彼女は雌だし、必然的に雄と争えば弾かれる可能性が高い。テリトリーを侵され、追い出されるだけならまだ良いがその時に怪我でもしたら――。
すると僕の怯えの中に何か違うものを感じ取ったのか目の前の狼は目を眇た。
「何だ、お前?兎の癖に。ここの狼と仲良いのか?」
「……いえ」
「ふーん…ま、どうでもいいけどよ。どっちみちそいつには会うつもりで来たんだ。――第一、これから腹ん中収まる奴との仲聞いてもしょうがねーか」
びりっと瞬間空気が震えた気がして僕は咄嗟に踏み出し、今もたれ掛かっていた岩の側を離れた。
一メートルほど移動したのに微かに残る何かが毛を掠めた感触、風を切る音。
ふと振り返るとこちらを先ほど抑圧的でありながらも笑いながら話していたとは思えない鋭い眼光で睨む狼がいた。
…まずい。
そう直観的に身震いするほどの命の危険を感じた。
本来ならば僕ら兎は群れで行動する分、とかげの尻尾切り――と言う訳ではないが何羽の内一羽を犠牲にする事で全体を守る事が出来る。状況が良ければ小回りが利く分、人海戦術的に迷いを生じさせて逃げ切る事も可能だった。
けど今、ここには僕だけで――狙われているのも僕だけだ。
「っ」
……だからと言って諸手を上げて降参する訳にもいかない。僕は彼の視線を振り払うかのように踵を返した。
背に感じる彼の気配が遠くなる。
「お?ははっ、逃げんのか。…いいぜ?遊んでやるよ。ただ俺は忠告したからな。どうなっても自己責任、恨みっこは無しだからな!」
笑う声が聞こえる。
面倒臭いと言っていたはずなのに駆け出した僕に狼は至極楽しそうだ。
――知っている。
肉食獣は狩りを食事としてでなく、ただの一間――暇潰しとして狩りを行う事があると言う事を。
捕まえた餌を噛んで嬲って戯れに逃がしてまた爪を立てる。空腹でもなく、遊ぶ為に僕らをいたぶるのだ。間際のか細い断末魔が長く森に残ったのを聞き、幼心ながら震え上がった…今考えても嫌な思い出だ。
まだ声に距離は感じるが後ろなんて見ていられない。なるべく姿を隠せるようなコースを選んで僕は走った。
――死ぬ事が恐ろしい訳じゃない。
芽生えてしまった叶わぬ恋に絶望し、僕は一度は想う相手の一部となる事で悲願としようとした。だからあの世を見る事はむしろ救いだと思っている。
けれど彼女に食われ、彼女の為に果てるからこそ死が至高となるのだ。それ以外は連鎖に飲み込まれた、ただの惨めな犬死にでしかない。
暫くして入るも出るも困難なほどに雑草が生い茂り、木が複雑に絡まり合った群生地に辿り着いた僕は一端身を隠そうと歩みを進めたが…一気に距離を詰めてきた何かが首に触れ、視界がブレた。
ザッ、ッ――ダン!
一拍もせずに地面に叩きつけられ、瞬間声が喉から音にならずに出る。空気を吸う前に圧迫感が襲い、恐らく後ろから首を絞めるように押さえ付けられていた。
「……か、はっ…」
「…残念。やっぱ兎はちょろいな」
低く唸り喉の奥で笑う気配がして一気に血の気が引くのが分かった。
追い付かれていた――それなら今どこに、いつから、と疑問が降って湧いてきたが現状はそれらの思考を許さず、爪がきつく肌に食い込んでいく。
「ぐ…」
死ぬ――。
頭が真っ白になる。何かけたたましく警鐘を鳴らしているのに僕はそれを聞く事が出来なかった。
視界が霞む。
「ん?」
ふと手加減など微塵も思わせない力が僅かに弛まる。本気であの世を見かけていた僕はその要因に意識を向ける事が出来なかったが彼は何かに気付いたのか上体を上げ、鼻をスンと鳴らした。
「――っ待ってっ!駄目っ。それ食べちゃ駄目だよ!」
静寂に少しだけ高い澄んだ声が響く。
自由の利かない身体で視線だけ無理矢理上げるとよっぽど急いで走ってきたのだろうぼさぼさに髪を乱し、荒く息を吐きながら仁王立つ彼女がいた。
「の、ぞ」
倒れた際に軽く頭を打ったのか顔を上げようとすると朦朧とする意識が更に眩む。
折角捕まえた獲物を横取りされると思ったのか一瞬低く唸った彼だったが次の瞬間纏っていた殺気が綺麗に掻き消えた。
「っ!つーか、おいっ。お前望美じゃねぇか!」
「…あ、将臣、君?」
僕を押さえ付けたまま、明るい声を出す将臣と呼ばれた彼と若干困惑気味の望美さん。どうやら知り合いのようだが…手に意識が向かなくなった事で全体重が掛かっていてさっきとほぼ同じぐらい絞まっている。
「んだよ、久し振りだなっ。群れから離れたってのは聞いてたんだがここに縄張り張ってたのは知らなかったぜ〜」
「ぅ…、ぐ」
「ちょっ、そんな事より将臣君!絞まってる絞まってるよっ。離して!」
流石に目を白黒させている僕に気付いたのか、慌てたように僕を彼から離そうと駆け寄ってくる望美さん。しかしそれに彼は眉を潜めた。
「あ?何でだよ。どうせ仕留めるんだし、いいじゃねぇか。絞まろうが潰れようが…」
立ち話もなんだからやっちまうかと言った彼は口を開け、首の動脈に牙を押し当てた。突き立てられる気配にザァッと血の気が引く感覚がしたが皮膚を貫く前に彼女の声が一層大きく響いた。
「だっ、駄目!とにかく駄目なのっ。第一その兎私のだよ!」
「獲物は早い者勝ちが鉄則、だろ?俺もうペッコペコなんだよ。唾付けてたからって分けねーからな」
「私だって今日はまだ食べてなくてお腹減ってる…ってそうじゃなくて!お肉どうこうの問題じゃないよ将臣君っ。傷付けちゃ駄目!」
「はぁ?噛んだり、引き裂いたりしないで食えって事か?そりゃあ前衛的…」
「じゃなくて。食べないで離してあげて」
獲物イコール食事の大前提で話す彼に望美さんは少し脱力気味に説いた。まぁ、当然と言えば当然で捕まえて逃がすなんて事はまずあり得ない。彼の困惑は妥当だろう。
「何で。逃がす意味が分からねー。俺もお前も腹減ってんのに。あ、コイツがそんなに食いでがなさそうだからか?確かに肉はあんまりねーけどよ。ただ太ってるだけの奴より、これくらい引き締まってる奴の方が脂が乗ってて上手い…」
「じゃなくて!その兎は…弁慶さんは――わ、私の非常食なの!今は食べないのだから!」
「……非常って。お前…」
やや呆気に取られた雰囲気が隠しきれない彼は何言ってんだコイツとでも言いたいかのように胡乱とした目で望美さんを見つめた。
当然だろう。
よっぽどの日照りで草花が死滅しないと食いっぱぐれない僕らと違い彼らの食事は完全な自らの力との競り合いだ。運が悪ければ三日食事に有り付けない事なんてざらだろうし、体力の衰えは死に直結する。だから食べれる時に食べると言う考え方が全うなのだが…。
物言いたげな旧友の視線に分かったと望美さんは溜め息を吐いた。
「あっち。私が来た方…大体二十メートルくらい離れた場所かな。そこに仕留めた鹿が落ちてるからそれ将臣君にあげる。…だから弁慶さんは離してあげて」
「!」
未だに地面に突っ伏しながら話に耳を傾けていた僕はびっくりして目を見開いた。
望美さんの言うように逃げない餌――平たく言えば非常食扱いにも他の獲物と一線を帰していて僕は密かに胸を熱くしていたのだが折角仕留めた獲物との引き替えの提案に喜びより先に驚く。
「ね、別にいいでしょ?将臣君」
「まぁ、それなら別に構わねぇけどよ。…お前も複雑だな」
呆れと言うより、どちらかと言えば仕方ない奴だとでも言いたげにただ苦笑った彼はようやく僕の首から手を離し、拘束を解いた。
途端に肺一杯に広がる酸素。会話からその必要はないのだと分かっていても喉元を押さえ、少しでも距離を取るべく身を起こした。
「弁慶さん、大丈夫?どこも怪我してない?齧られたりしなかった?」
「…大丈夫、です」
僕が立ち上がるよりも先に側に来てしゃがんだ望美さんは僕の顔を覗きこんで心配そうにそう言った。
齧るどころかまだ一口も食ってねぇつの!と低く通る声が濡れ衣に遺憾の意を示す。
「あははっ。ごめんごめん将臣君、ありがとう」
「ったく…また会いに来るからな。……色々考え過ぎんなよ」
「うん」
苦り切った顔で笑顔を浮かべた彼は望美さんに近付いて何か挨拶だろう、一つして去っていった。