何だかんだ言い合っていると時間の流れるのは早い。
促され、案内されたのは何の変哲もない家々が立ち並ぶ一角だった。
粗末な納屋のような姿の建物で弁慶さんと薬師を営んでいるあの五条の庵によく似ている。荒く組まれた木片はずれ、外からでも中が伺えてしまいそうだ。
けれどこの界隈にある物はどれもそうだった。ひしめき合い、今にも倒れそうな自身の自重をお互いで支えている。
「僕も寝泊りにしか使っていないので片付いていませんが――その辺りで野宿するよりは幾分かましでしょう」
「あ、…はい」
ガタガタと立て付けの悪い引き戸を力を込め、開くと少し埃っぽい空気が流れ出る。
先に戸を潜った鬼若さんに気付かれないように僅かに顔をしかめて襲い来る物の海に身構えた。
――あの弁慶さんが「綺麗なものですよ」って言う部屋があんな惨状なんだもの。鬼若さんが片付いてないって言うなら一体どのぐらいの物が溜まっているんだろう。
……寝る所、あるのかな。
「――あれぇ」
敷居を跨ぐと想像をしていたよりもずっと広い板の間が迎えてくれた。
部屋の片隅に数冊本が積み上げられ、布団は敷きっぱなしになっていたが狭い空間の割にすっきりした印象を受けて私は正直拍子抜けする。
「どうかしましたか?」
「いえっ。――お邪魔、しまーす…」
夜なので小さく家主に改めて挨拶をすると隙間風が入る戸に手をかけていた鬼若さんがクスリと笑うのが分かった。
取り合えず円座などは置いていなかったので適当な所に座る。
「本当に余り使っていないんですね、この部屋」
「ええ…帰って来るのも十日ぶりくらいになりますね」
成程、つまり生活自体を行なっていないなら物が蓄積しないのも頷ける。
ぽつりと置かれた灯籠に明かりを灯すと鬼若さんは再び土間に降り、草履に足を通した。
「――鬼若さん?」
「…僕はこれから少し知人の下に君の着れそうな着物を借りて来ますから君はゆっくりしていて下さいね」
「えっ、今からですか?」
一体どんな知り合いかは知らないが訪れるには余りに遅い時間ではないだろうか。ともすれば、寝ている所を叩き起こす事にもなってしまいかねない。
自分のせいでそんな迷惑を被らせてしまうのは申し訳ないと慌てて鬼若さんを止めた。
「い、いいですよ!裾がちょっと破れてるだけだし、何なら鬼若さんの着物でも構いませんから…っ」
「構います。僕がよくありませんよ――そんな、美しい足や…僕の着物に包まれてる姿を見せ付けられてはね」
冗談めかして笑む様子に揶揄した意味が分かり、ボッと顔を赤らめた。
「で、でも…鬼若さん頭、打ってるのに危ないですよ!それなら私も――」
「心配性ですね…。どちらかと言うと女性がこんな夜にうろついている方が危険ですよ。僕だけなら無用な荒事を起こさないで下さい」
言いながら薙刀を手にかけ、乱れた頭巾を羽織り直す。
確かに荒廃前とは言え、現代の日本に比べると格段に治安は良くはないだろう。
それに鬼若さんの言い分はもっともで、出て行こうとする彼を止める事が難しい。
ぐっと言葉に詰まってしまった私は支度を済ませた鬼若さんに釘を刺すように懇願した。
「…分かりました。でも鬼若さん、絶対に無茶はしないで下さいね!もし幾ら待ってても帰って来なかったら私、探しに行っちゃいますよ。だからっ…」
「ふふ――そんなに遠くはありませんよ。大丈夫、数刻の間には戻ります。迷子の君を探すなんて真っ平ですから大人しくしてて下さいね」
事実そうなってしまうだろう、二の句も継げない。
それでも私は再び小さく待ってますからと告げると少しだけ――ほんの少しだけ困ったように鬼若さんが笑った気がした。
「行ってきます」
愛しく幼い彼は伸びる影を部屋に残し、闇夜に消えた。
*****
しっかりと編まれた草履の藁は地を撫で、砂を踏み締める。
日の落ちた時間は空間を冷やし、温かく熱を帯びていた細かな石を再び静かに横たわらせた。鳴る音も今はどこか無機質に、転がる石の粒。
淡々と歩みを進める少年は辿って来た道をなぞるように進み、一度もその足を止める事はなかった。握る薙刀は微かに刃零れが伺え、鈍くその身を表す。
沿う河に――揺るぐ水面は流れつつ、ただ暗き空を映した。
足音がぎっぎっと打つ響きに変わり、人の手で作られた古い橋は動く度に軋む。
「…ぅ、あのアマ…やりやがって…っ。くそッ…くそ――」
――折り重なるように倒れる幾人かの男。
その中の一人が橋の欄干に背を預け、座り込んだまま頭を抱えていた。剣の柄で殴られたこめかみはずきずき痛み、朦朧とする思考は意識を失わせた名残が未だに身体を支配していた。
一度急所によって麻痺させられた平衡感覚は戻らず、こうして上体を起こす事もやっとだ。
現に覚醒したのは彼だけで仲間はまだ木目に顔を擦り付けている。
女に負けたのだと理解するのが悔しくて――男は自由にならない身に悪態を付いた。
「このままだと思うなよ…!絶対に引ん剥いて犯して――屈辱に塗れさせてから殺してやる…っ」
「――おや、それは頂けませんね」
ダンッ!
「がっ!?」
答えが返ってくるはずもない独り言に穏やかな声が耳に届き、同時に男の頭は地に押し付けられる。
瞬間的な刹那に思い出したかのように痺れが広がった。
再び殴打された痛みよりも衝撃に驚き、声を上げたが頭部にのしかかる重みに何が自身を襲っているのか満足に確認もこなせない。
藁に絡む砂利が頬を強くなじり、足が頭を踏んでいる事が分かった。
先程かかった声色と同じ音が降る。
「やはり甘いですね…とどめも為さないとは――。自身に無用な厄災がかかってくる事を分かっているんでしょうか……」
「お前は…ッ」
眼球を限界まで巡らせると見える白い布から微かに覗くのは琥珀の糸――鬼の一族と酷似したその色は忌み嫌われる金の髪にも似て…産まれながらにして業に相応しく浮かび上がる。
「鬼若っ――貴様…こんな事をしてただで済むと思ってるのか…!」
激昂する男はかかる重みを良しとせず、力任せに振り払おうとしたが思いの外鈍る指先には感覚がなかった。握り潰す勢いで掴んだはずの足首を頼り無さ気に包むに止まる。
それに鬼若は言ほどでもないと嘲笑を漏らした。
「そんな無様な格好で切られる啖呵ほど滑稽に見えるものはありませんね」
「ぅっ…!?ああっ!!」
抵抗する手とは別のただ強く握り締めていた手に鋭い物が突き付けられ、男は叫んだ。
銀の刃がぎちっと骨を削った音を上げ、神経が全身に激痛を走らせる。途端にくすんだ色の橋の板を血が赤に染めた。
「ぐあああ…っ!」
「煩い…こんな夜更けに大声を張り上げては迷惑でしょう?野太い男の喘ぎなんて聞いても何も面白くありませんよ」
嗜めるように吐き捨てながら、甲を貫いた薙刀をぐりぐり回した。
その動きに呼応するように痙攣する男の手を見る鬼若の顔は面白くない、と言う言葉に反して笑みの形に引き上げられている。
「ふふふ…痛いですか?可哀想に…」
憐れみを口にしながらも行為を止めない鬼若の声は嗜虐に染まる。虫の足を一本一本むしる事を楽しむ無為な喜びが非道に男を苦しめた。
はぜる視界に眉をしかめる男に聞いていなくても構わないと言った風に淡々と問いかける。
「君は最近ここらで幅を利かせている徒党の一派――と、言う訳ではありませんね。差し詰め僕が切った方のお仲間…とでも言った所でしょうか…。一人の時を狙って囲むのは中々良い案でしたが運がありませんでしたね」
「…っ――」
「普段なら余り深追いはしないんですが…今回は彼女が絡んでますからね。答えてもらいます。…今回の強襲は仇討ちですか?それとも指示されての復讐ですか?」
男は痛みに歯を食い縛りながらもそれには答えようとはしなかった。ただ今の今まで睨んでいた視線が揺らぎ、瞳が泳ぐ。
その動作だけで鬼若は全てを悟った。
「――どうも。目は口ほどに語ると言いますけどが君は案外雄弁なようですね」
「ま、待て…っ、これは俺達が勝手に――」
「いえ、もう結構ですよ。問いには答えて頂きましたから」
取りつく島もなく男の言葉を切り捨てた鬼若は肌を貫き、橋の板に刺さった刃先を引き抜いた。ぬるりと血が銀を濡らす。
「一輪の花――散らしたくないと思ったのは僕も初めてです。彼女が何者か知るためにも…もう少し見ていたい。邪魔はしないで頂きます」
自由になった薙刀が自身の胸に振り下ろされる様子は男には見えない。
*****
薄い戸口が誰かによって叩かれる。
門兵がいる訳ではないのだがそれなりに広い屋敷を打ち鳴らす音は大きい。
「牛若ー」
間延びした声はその者を呼び起こしたいのかどうか微妙なもので…嫌がらせと、先程から同じ加減で続けられている。
暫くそんな調子でいるとざかざかと中で土を踏みならす音が聞こえた。
「――煩いッ!毎度毎度しつこいぞ鬼若っ、何時だと思っている!」
「君が早く出てこないから悪いんですよ、牛若」
橙のまばゆい髪を振り乱し、多少着崩した姿で勢い良く門扉を開いた彼は眉をつり上げ不機嫌を顕にする。
しかしそんな様子を引き起こした鬼若は飄々としていて汚れた髪を少し流した。
「またお前は…そんな格好でっ――」
「ああ、お説教は止めて下さい」
うんざりだと言った顔の鬼若は手を軽くかざし、先を止める。言い掛けた言葉をつい飲み込んでしまった牛若と呼ばれた少年は大きく息を吐き、腕を組んだ。
「――それで今日は何の用向きだ。湯殿か?」
「それもありますが…君の所、女房を雇っているでしょう?若い女性の着物を二、三貸して下さいませんか?」
「お前また女を連れ込んでいるのか!呆れた奴だな…少しは控えろっ」
「人聞きの悪い…宿がなくて困っていたので助けたんですよ。見境無いみたいに言うのは止めて頂けますか」
事実その通りだろと呟く牛若をにこりとした笑みで一蹴すると鬼若は門扉を跨いだ。
「今日は余り遊んであげられないんですよ。彼女にバレると厄介なので早く湯を沸かして下さい。…何より臭くて――」
「それだけ血を浴びてれば当然だ!全く…っ」
肩を竦めて諫める牛若は鬼若を見上げる形なのにそのどっしりした風格が彼を大人びて見えさせた。
鬼若はその白い頭巾と茶金の髪を中心に赤に染め上げていて固まりつつある血糊を鬱陶し気に拭っていた。
夜に度々このように鬼若が訪ねてくるので家人はいつもの事と寝静まったまま起きては来ない。