流れる流水は見慣れた世界のものとは違いとても澄んでいる。魚は悠々と泳ぎ、月光にさえ透き通って底が見えた。

生活用水としては井戸の水を使うが傷口を洗うのには何ら問題がなさそうだ。

腕を掴む弁慶さんの顔を見てみると左目にかかるように血が流れている。恐らく額が切れているのだろう…出血量から見て結構な傷のようだ。

額――と言う事は直接顔を浸けるのは憚れる。

――私は暫く、逡巡して降りてきた橋の方も見上げたが…仕方ないと頷き、自分を納得させた。


「弁慶さん、ちょっと待って下さいね」


剣を取り出し自分のオレンジ色の着物の裾に少し切れ目を入れ、勢いをつけて破った。


「なっ…!!」


いきなりの行動に弁慶さんは驚き、声を上げた。

ビリリッと裂ける音がして斜めに大きく千切れた布を小さく畳み、川に浸す。川底の砂などが付かないように慎重に濡らして、軽く絞った。


「――いいんです、着物なんてまた繕えばいいんだし。それより傷の手当の方が大事ですから」


目を見張る弁慶さんは私の突飛な行動に面食らってるようだ。

何かハンカチみたいな物を持ってれば良かったんだけど…。幾ら私でも持ってたら態々、着物を破いたりしませんよ。

でも…ごめんなさい弁慶さん――。

若かりし姿で目の前にいる伴侶に見慣れた姿を映し、届かぬ懺悔を胸の内で呟く。

――折角買ってもらった着物駄目にしちゃいました。この世界に留まるって決めた時初めて贈って貰った物だったのに…でも、許してくれますよね?貴方の方が大事だもの…。

水に濡らす為しゃがんでいた腰を上げ、少し後ろで所在無げにしていた弁慶さんに近寄る。

そっと顔に手を伸ばすとビクリと身じろいだが気にせず相変わらずふわふわしている髪の毛をかきあげ、額を露わにした。


「――はい、弁慶さん。ちょっと座って…うん、そのままジッとして下さい。…あー、血の割にそんなに深手じゃないですね…。これなら消毒しておけば綺麗に治りそうです、――良かった…」


若くてもまだ私より少し背の高い弁慶さんの頭に手が伸ばし難く、手頃な岩に座るように促して傷に当てる。

頭部は出血が派手な割に傷自体が余り酷くない事もあるようだ。

弁慶さんの傷も切り傷と言うよりは擦り傷と言った感じで浅く細かい裂傷が左の瞼の少し上辺りから額の真ん中まで広がっていた。

ちょんちょんと血を押さえつつも拭き取るように布を当てていく。


「――ッ」

「あぁ…ごめんなさい。痛いですか?」


眉を顰め、息を詰めた弁慶さんに気付いて押さえる力を緩める。

中々止まらない出血に一通り辺りを拭うともう一度川に向かい、付着した血液を洗い流した。綺麗になった布を今度は先ほどよりも固めに絞って弁慶さんの元に戻り、今度は圧迫するように傷を覆う。


「もう少し我慢して下さいね…」


じわりじわりと滲む血が止まるまで押さえていようと額に手を当てたままの姿勢で佇む。

――先ほどまで怒声の響いていた川原は静かで、今は虫の鳴き声と川のせせらぎと私達の砂利を踏みしめる音しかしなかった。チリチリと可愛らしい虫音が耳に心地良い…。

すると弁慶さんはジッとこちらを見つめ、探るような目つきで問いかけてきた。


「――僕に何と言って欲しいのですか?」

「へ?」


脈絡のない問いに思わず妙な声が漏れる。


「余計なお世話でしたが…一応君が全員伸しましたからね。感謝しています――とでも言えば自尊心は満たされますか?」

「――そんなっ!私は…、別にっ」


蔑みともとれる言葉に語気を荒くして否定する。

別に感謝されたくてした訳じゃない。ただ弁慶さんが傷付くのを見たくなかったから…あの人達に切り付けた。――自己満足には違いないけれど…。


「ああ。自身の着物を裂いてまで君は偽善を気取るつもりのようですから――そんなつもりはなかった、とでも仰るんですか。素晴らしい……素晴らしい慈しみの心ですね――虫唾が走ります」


卑下するように吐き捨てる弁慶さんにはありありと嫌悪の表情が浮かんでいた。

全てを憎むような…視線だけで相手を射殺せるような冷たい瞳。

――戦を終わらせる為だと平家の船を燃やしたあの時の弁慶さんとは似て非なる冷徹な視線だった。

決意や悲哀をどこかに隠した強い眼差しとは違う…今、目の前の年若い弁慶さんはただただきつく私を睨んでいる。


「いい加減、離して頂けますか?いつまでも君の悦に付き合っているほど僕も暇ではないんですよ」


添えた手を退けようともせず、言葉でただ拒絶を示す。

私は額に押し当てていた布ごとスッと腕を下ろした。

薄く笑みを浮かべた弁慶さんは腰掛けていた岩から立ち上がろうと両手を身体の脇に置き、体重をかける。


「ああ…、でも君のような馬鹿がいると助か――、ッ!!」


バシーンッ!


夜の河原に響き渡った音は高く、天に届いた。

さっきまで怪我を治療していてくれたはずの相手に平手打ちをされた弁慶さんは驚きの余り再び岩に尻餅をつき、呆然としている。


「――ありがとう、です!」

「は…?」


意を得ない物言いに訳が分からない、何故礼を言われるのか――そう言いたげな返答に私は言い放った。


「何かして貰ったらありがとう、してしまったらごめんなさい――基本です!!それ以外は何もしなくていいですっ。情けないですよ、弁慶さん!今時、小学生でもちゃんとできますっ」


捻くれた態度に我慢出来なかった私は身を起こしかけた弁慶さんに渾身の力を込めて平手打ちをお見舞いした。拳を握ったパンチでなかっただけ有り難いと思って欲しい。

呆気にとられ、叩かれた右頬に手をかける弁慶さんの額からはたらりとまだ血が流れてきている。しかしお構いなしに眼下で座り込む彼に話続けた。


「それと私の事が気に食わないんだったらそうと、はっきり言って下さい!どうしていつもそうなんですかっ…弁慶さんのそう言う回りくどい所私嫌いです!!」


直接言わずに揶揄するように話す癖はこの頃から変わらないようだった。それだけに思わず普段から蓄積された不満もぶつけてしまう。

相手が察する程度の嫌味をちくちくちくちく浴びせる弁慶さんの話し方は実際私は一番苦手だった。

そう言われている訳ではないだけに激昂しにくく、皮肉を交えつつも真実を告げるやり方は流石と言うしかない。

類似点がある今これは性格だなと深く納得した。

けれど若さ故か実を得ない言葉は腹が立つと言うよりも聞くに耐えない。

だから決してムカついて手をあげた訳ではない。あくまでも愛の鞭、鞭だ。

パチパチ瞬きを繰り返している顔に手を添え、再び額に布を当てた。

空気を吸い込み、深呼吸して頭を振る。ため息が漏れ、諭すように静かに言った。


「――ごめんなさい。でも弁慶さんなら知っているでしょう?頭からの出血は深手じゃなくても怖いんです。だから…血が止まるまで少しくらい我慢して下さい。そんなに長い時間ではないと思いますから」

「じ、自分でしま――」

「駄目ですよ、させません。かなりの広範囲で血の量が凄いんです。ぞんざいにしたらそれこそ別の病気になりますし、多分貧血になってます。こんな砂利でよろけて転んだなんて洒落になりませんよ?」


頭を打って武蔵坊弁慶死去――なんて、冗談でもごめんだ。そんなの私こそ死んでも死に切れない。

にこりと微笑を浮かべる。


「だから弁慶さんが忙しかろうが私を見て胸がムカつこうが、絶対に帰しません」

「そ――」

「なんです。もう、小さい子じゃないんですから聞き分けのない事言わないで下さい」


さっきのお礼とばかりに至近距離まで顔を近付け、視線でギリリと睨み返した。俗に言うガンつけだ。

あんな冷淡な目で見られたのは正直久しぶりで怒ってはいないが負けてたまるかと言う変な競争心が湧いて来ていた。

ぽかんとする弁慶さんだったが暫くすると苦笑いを浮かべた。


「――っふ…。女性とは思えませんね…、君は…」

「失礼ですよ。こう見えてまだ十八の微妙な年頃なんですから不躾な発言は遠慮して下さい」

「それは、すみません。余りに慎みがないので童くらいかと思ってました」

「……もう目が悪いんですか。暗がりで本を読むのも大概にした方がいいですね。その内、心に引っ張られて目だけじゃなく取り得の外見まで年寄り染みて来ちゃいますよ?」

「――年寄り…ですか。随分、言ってくれますね……」

「弁慶さんに似たんです。おあいこですよ」


右手を弁慶さんの額に当てたまま、まるで普通の会話のように悪口を応酬し合う。しかし先程感じた怜悧さは言葉からは感じず、穏やかに思えた。

お互いに本気ではない悪態は心には届かず、話の一部として口から漏れる事が何だか新鮮で…ついふわりと緩く笑みが零れる。

こちらを見上げていた弁慶さんはその様子を見て一瞬目を見開き、表情を固めたがきょとんとする私を見てニヤリと深く笑った。


「…ふーん……」

「……何ですか?」

「いえ…、大の男を一人で何人も薙ぎ倒す剛健な天女なんて正直ごめんだと思ってましたが――そんな風に笑う君は…可愛いですね」

「なっ…!?」

「おや、言われ慣れてませんか?おかしいですね…君ほどの容姿を持っているのなら言い寄る男は多いでしょうに…。女性なのに粗暴過ぎるからですよ?」

「よ、余計なお世話ですっ!」


この弁慶さんとは初対面なのに向けられた言葉に混ざる口説き文句に絶句した。

そんなに始終女の人に軟派な台詞を投げ掛けているのかと、言われたことに恥じ入るよりも何だか怒りに似た感情が湧き出してくる。


「そんな事、辺り構わず言ってるといつか女の人に刺されちゃいますよ!」

「別に辺り構わず言っているつもりはありませんが…、そんな下らないヘマを僕はしませんよ。第一刺される前にもっと上手くやります」


自信満々に言い切る様子にがっくり脱力する。

弁慶さんは結構自信家だ。それを裏付けるだけの実力があるのだから当然だけど人の忠告すらも聞き入れない頑固な所は困ったものだ。

一気に萎んだ怒りに肩を落としながらため息を一つ吐いて口を閉ざした。

交わす声をなくすと周囲の静けさに包まれる。

口論に夢中になり、様子を見ていなかった傷口に布をしっかり当てなおした。

巻き込んでいた弁慶さんの白い頭巾から覗く前髪を丁寧に撫で付け、横に流す。




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