ジェーンは海と空の区別のつかない暗黒を眺めていた。月明かりは近くを照らすだけで、肉眼では水平線は全く見えない。
ジェーンが甲板に出てきたのは夢見が悪かったからだった。自分がまだ10歳にも満たない頃、家族と一緒にいた時の夢だ。こういうときはしっかりと気分転換をして、朝を待つのがジェーンのやり方だ。そのため甲板に出て風に吹かれにきていた。
急に、眩しい光がジェーンを照らした。光の正体は懐中電灯。眩しくて見えないが、懐中電灯の持ち主は体の形からして男だ。
男――。
夢の内容が頭を駆け巡る。
昼夜を問わず部屋に忍び入り、私を組み敷いたのはーー、
「……おい!落ち着けって!!ジェーン!俺だ!ルツだ!!」
気が付くと目の前にルツがいた。馬乗りの状態で、手には愛用のナイフがしっかりと握られている。ジェーンは驚いてルツの上から飛び退いた。
「ルツ…」
ジェーンが上から退いたため、ルツは体を起こした。懐中電灯が遠くに転がっている。
「おいルツ!どうした!」
アールが甲板に駆けてきた。私は慌ててナイフをしまった。そういえば今日のルツの見回りペアはアールだ。おそらくアールのものであろう懐中電灯がジェーンとルツを照らす。
「大丈夫だ。こっちは問題ねぇから。アールは向こうを頼む」
ルツの一方的な口振りにアールは眉を寄せたが、ジェーンを見て何も言わずに踵を返した。それを見届けた後、ルツは立ち上がろうとして、顔を歪めた。ジェーンが近付いてよく見ると、ルツの体は至るところに赤がついていた。ナイフによる切り傷であることはすぐにわかった。
「…私がやったんだな」
返答はない。私が両手にナイフを持ってルツを組み敷いていたのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
「…気にすんな。何も考えずにジェーンに近付いた俺も悪かった」
「…傷の治療を」
痛みはあるものの、ルツは動けるようだ。ジェーンはルツを連れて医務室に入り、治療を施した。幸いにも怪我は軽いものばかりだった。
用具を簡単に片付けると、ジェーンはルツの胸に顔をうずめ、背中に腕を回した。ルツの体が面白いくらい跳ねたが、ジェーンはそれをからかえる気分ではなかった。
「ジェーン!?」
「…悪かった…。私、気が付いたらルツの上にいて…何も覚えていないんだ」
理由なら分かる。夢を見た直後だったから、男というだけで体が反応してしまったのだ。姿がよく見えなかったのも影響しているだろう。
「いいって。別に気にしてねぇから」
「……ありがとう」
礼を言った後、ややあってジェーンは大きなため息を吐いた。
「昔の夢を見たんだ。それでちょっと…」
「…そうか」
「…トラウマなんて、とっくの昔に治ってたと思ってたんだけど…」
「……簡単に治らねぇからトラウマなんだろ」
のしかかる体躯。抑えつけられた体。いまでも体が覚えている。幼い頃に植え付けられた恐怖はそう簡単には拭えられない。
ルツがジェーンを抱きしめ返した。まるで子供をあやすようになでる手が心地いい。
「…私、もしかしたら白雪姫になっていたかもしれないんだ」
「……は?」
「最初の辺りで拒んだからならなかったけど。ならなくて良かったと思ってるんだよ。あんな運命は死んでもごめんだ」
ルツの手が止まった。タイミングのいいそれにジェーンは嫌な予感がした。胸の奥が重くて痛くなる。
「…俺が父親に見えたんだな」
ルツの言葉を聞いた瞬間、ジェーンはルツを突き飛ばしていた。
肌は真雪のように白く、髪は黒檀のように黒く、唇は血のように赤く。美しく育つ少女を、父親は次第に娘とは思わなくなった。
「ジェーン」
「…なに」
「今、幸せか?」
「…昔よりは」
「今が幸せならそれでいいだろ。それに俺たちは“卵から孵った”んだ」
「これは入隊式だよジェーン。君は全てを捨てて生まれ変わった卵だ」
ココの言葉が頭をよぎった。
「…そうだったね」
ジェーンは天井を見上げた。深呼吸して、ルツを見る。
「ありがとうルツ。もう大丈夫だ」
「そうか」
ルツから見ても、ジェーンはさっきまでのジェーンではなくなっていた。いつものジェーンだ。
「じゃあ俺戻るわ」
踵を返し、部屋を出るルツをジェーンは手を引っ張って止めた。振り向いたルツの唇に、ジェーンそれが重なる。
「おやすみ、ルツ!」
ジェーンは笑顔でそう言って部屋のドアを閉じた。
「……そりゃねぇだろ」
なりそこないプリンセス
(おはようございま…どうしたんですかルツさん。その隈!)