ごった煮 | ナノ

冬が来る

 ぱきり、ぱきん。軽い音を立てながら、ナマエは縁をなぞるように歩く。
 昨日までは少々大きいだけだった水溜りは、今日の早朝にはこのように薄くてもろい膜を張っていた。それは秋の終わりを感じさせるもので、はたまた冬の始まりを告げるものでもある。
 ぱきん、ぱきりと、そのささやかな季節の循環の一片を踏み砕くことは、毎年のナマエの恒例行事だった。
 ちいさい頃はただただその音と感触が楽しくて、面白くて、靴が汚れ濡れるのも構わずに夢中になっていた。普段はそう早起きでもないくせに、秋から冬に変わるこの時期になると途端に誰よりも早起きするくらいに。
 母親はその理由を、はしたないと渋面して、父親はお転婆がすぎると苦言を呈した。家の中では誰ひとりとしてナマエの楽しみを理解してくれる者はおらず、それが当時の子供心にもさびしいと思ったものだ。
 だが、かなしいとは思わなかった。ちいさい頃からその楽しみを共有してくれる存在がいたからである。 
 その希少な存在とはじめて顔を合わせたのは、確か六歳の頃だ。
 そのひとらは母親の親類で、時々家に自分の家族に連れられて遊びに来ていた。
 かの家は言うなれば貴族の中の貴族、といったところで、幼いナマエでもわかるくらいに尊い地位にある家で、彼らは大層きれいな母と貫禄のある父に囲まれていた。
 そんな家相手である。両親に言わしめてはしたなくてお転婆なナマエなど、家の恥だと憂慮した母親は、ナマエに彼らが帰るまで部屋から出ることを禁じたのだ(ご丁寧にトイレをナマエの部屋に併設し、状態維持の魔法をかけた食事を用意してまで)。
 それらに不満は当然漏らしたが取り合ってくれずじまい。挨拶もそこそこにナマエは具合が悪いことにされ、体良く部屋に軟禁されることとなった。
 ナマエはせめてと、せかせかとゲストルームへ戻っていく母親の背中に思いっきり舌を突き出して、心中でボロクソに言い連ねてやったが。

 彼らとの初対面は、ほんの一瞬だった。





 ぱきぺき。――――薄い氷が浅い水溜りに孤島となって取り残されるまで、あと半分。
 その半分を壊すべく、ナマエは小さくまた一歩踏み出す。

 



 彼らとはそんな一瞬の邂逅が続き、すっかり彼ら一家に幼いナマエは病弱な子、という認識を下されてしまった。
 彼らは訪れるたびに滋養にいいという魔法薬や呪(まじない)の品を持ってきてくれた。
 これで本当に患っているというなら嬉しい話だったろう。
 しかし事実は真逆である。
 使えもしないものがどんどんと家に溜まっていくのが事実だ。さっさと捨てるなりすればいいものを、見舞い品の質が高かったのが悪かった。
 高級品に目がない両親は、普段無駄に元気な娘のせいで見ることもなかったそれらをすっかり気に入り、コレクションしていったのである。
 ナマエはいつの間にやらマグルでいうところのボキンバコになっていた。
 しかもなんの嫌味なのか、はたまたお国ジョークなのか判別がつかなかったが、わざわざそれらをナマエの部屋に溜め込んでいく両親にナマエの表情はだんだんと沈んでいった。
 これがお菓子やオモチャなら、ナマエは喜んで部屋にこもっていたに違いない。魔法薬というのはおおよそ子どもには耐え難い味や食感や臭いをしているものである。とくに魔法生物の抽出エキス、とかいう類はいただけない。あれは溶液の中に丸々魔法生物が干からびたり、そのままの姿で浸かっているのだ。ひどいのは生きたまま浸かっているものもある。味や臭いはもちろんのこと、見た目が一番よろしくなかった。
 ナマエはまわりの女の子よりも少々活発なだけで、感性は普通のそれだ。部屋に真っ赤なカエルやナニかの臓物が浸かった薬瓶があったら怖がりもするし、気も滅入る。
 その様子を見受けた両親は、これ幸いと客人がいない時でもナマエを部屋に押し込めるようになった。あげく、時々瓶の蓋をとってそのまま放置したりして臭いでナマエを黙らせるしまつ。グロテスクな死骸や奇妙な生き物もそのままだった。
 そんなことが維持されれば、ナマエが両親の念願にそうように“しとやかな女の子”になるのにそれほど時間は必要としなかった。
 それにすっかり気を良くした母親はその行為をナマエを矯正する“薬”とし、従順になるまで与え続けたのである。
 無論、健康良児であったナマエがそれら一級品を実際に消費できるはずもない。
 ものがナマエの部屋を圧迫するまでになる頃には、両親は彼ら一家をナマエの部屋に絶対に入れなくなっていた。
 そうしていつまでもナマエは解放されることもなく、むしろナマエにとって悪化の一途を辿るばかりだった。
 時折見舞いに来てくれる彼らも、これには疑問を抱かずにはいられなかったらしい。なんたって見舞いしようにも部屋には入れずドアの前で母親が見舞い品を貰うだけで、肝心の娘には合わせようともしない。
 その上、毎度見舞い品を贈っているのに回復したという吉報もないときたら。
 訝しんだ彼らがどうにかしてこっそりドアの奥を覗いたのか、それとも開心術を使ったのかは知らない。
 だがついぞ「薬が減っていないようだが、ナマエのお気に召さなかったのかな?」と向こうに尋ねられた両親は焦ったようだった。
 その場では我がままな娘でして……などと言い訳したようだが次は誤魔化せないと悟ったらしい母親は、とんでもない暴挙にでた。
 なんら身体に不調のないナマエに、むりやりに魔法薬を飲ませ、呪の品を使用したのである。
 繕うものを娘ではなく、世間体、強いて言うなら自己保身に両親はあてたのだ。
 ……なんとなく、ナマエはそれを予測してはいたけれど。
 両親にとって体面とは地位の次に大切なものだから。
 加えて母には新たに宿した子がいた。
 もし男であったら家督を継ぐ者だ。女でも抜け作長女みたいにならないよう育てる必要があるからだろう。
 最近のナマエの優先順位など最下位であった。
 しかしちゃっかりしている両親は、将来ナマエを彼らの息子のどちらかに嫁がせようと目論んでいるようすだった。
 両親の曖昧な態度は人の子に接するというより、強いて言うなら不出来なペットを躾けるそれに近かい。
 そんな風に接せられれば、消化しきれない不安や不満をおさないナマエが内に飼ってしまうのは当然のことと言えた。
 その結果、からだは薬に、精神は歪んだ情の板挟みにあい、ナマエはどんどん追い込まれていったのである。
 そしてあくる日。いよいよナマエはパッタリと倒れてしまったのだ。
 予兆は沢山あったし、やめてくれと訴えもしたのにこうなることを察知してくれなかった両親に対し、ナマエは失望という言葉の意味を知った。
 それからはもう、両親はナマエの部屋に誰も近づけさせなくなった。
 臥せるナマエの症状は重く、動こうとすればひどい倦怠感に抱かれ、なにか難しいことを考えようとすればつららで直に刺されるような頭痛に苛まれ、物を摂取しようとすれば胃の中の全てを出し終えるまで吐き続けた。それまでわりとふっくらしていたナマエの頬はみごとに痩けてしまった。
 みるみるうちに弱っていく娘の姿にさすがの両親も危機感をようやく覚えてくれたようで、今度は“本当”の薬を与えようとしてくれた。――――が、からだが恐慌状態のナマエがそれらを受け入れられるはずもなく、いよいよ生死のあたりまで可能性が及んだときだった。

 ナマエが衰弱し始めたのは、彼らとの初対面から一年が経つ少し前のこと。
 二ヶ月ほど生き地獄を彷徨っていたナマエにとって、それは本当に突然に与えられた。

 



 ぱっきん。――――孤島ができるまで、あと四分の一。
 ナマエはこの孤島に住んでいる。彼らも住んでいたが一人は三年前に、もう一人も去年、ついに出て行ってしまった。
 今はたったひとりで、まだ外に出る覚悟できないでいるナマエだけが、住んでいる。





 彼らが毎度のごとく遊びに来た。
 ただ、いつもと違うことがひとつあった。いつもなら手紙やらで事前に連絡が来ていたのだが、今回は何の連絡もない突然の訪問だった。両親がバタバタと片付けやら茶の準備をしているのを音だけで察しながらナマエはぼうと自室の天井を見ていた。
 ややするとカツカツと床を鳴らすヒールの音が近づいてくる。同時に、玄関の重い戸が開く音がした。

「さあ、ナマエ、飲みなさい」

 玄関のほうで平静を装いながら話す父の声が鮮明に聞こえたかと思えば、扉から母親が唸るように呟きながらやってきた。その震える手には、ゴブレットが。
 またか、と淀んだ目を向けた。
 生死の間を彷徨い始めてから彼らが来るたびに、両親は疑いを晴らそうとこうして薬をナマエに服用させんとしていた。結局はナマエのからだの拒絶によって成功した試しなどないというのに、病院に行けばどういう経緯で“こうなってしまった”かが世間に露呈する可能性があることから両親は絶対に病院に連れて行くことをしなかったのである。
 大人の無駄な矜持と見栄。子どものナマエからすればお茶請け以下の存在に生命を脅かされているのだ。しかし、もはやそれに憤慨する気力すら、ナマエにはなかった。
 母が近づいてくれば、それすら拒絶したいのか、吐き気がこみ上げてくる。耐え切れず、ナマエはベッド下に置いていた金物バケツに吐き捨てた。
 ……どうせ。どうせいつもと変わり映えしないだろう。ナマエは汚物と口にできない感情を一緒に吐き出す。
 期待など、とうに潰えていると知っていた。
 母親はそんな娘の醜態に顔を真っ青にしている。それは娘の危機のせいか、己の未来のためか。考えても詮無きことだ。
 いつの間にか玄関での話し声が絶えたことに母親は安堵したのか、ホッと息をこぼしている。けれどすぐに階段を上がってくる複数の靴音にまた息を飲み込んだ。
 ガチャン。
 母親が掛けたはずの鍵がおちる音がして、二人は一斉にそちらを見やった。
 鍵は今母が所持している一つのみ。今この状況で父親が開けるということはないだろう。――――つまり。
 考え至るのと時同じく、扉は開いた。そこにいたのは、

 「こんにちは。ミス・ミョウジ、シリウス・ブラックです。お見舞いにまいりました」

 コンコン。開いた扉に寄りかかり、わざとらしくノックした、かの長男だった。
 ノックに使われていない方の手には、おそらく彼の両親のどちらかの杖が握られている。開錠の呪文を使ったということか。まだ学校に行っていないのに、なんという。
 ナマエが本当に具合が悪くなってからはゲストルームで両親を介して物品をよこすだけだったのだが……、長男を使って強行突破してくるとは。
 確かに、さっぱり回復の兆しの見えない娘に、そんな娘を入院すらさせず幽閉している夫妻。これで何か感じない方がおかしいであろうが。にしても英国魔法界一の旧家のやることとは思えない。
 現実離れした長男の行動とその怜悧な眼差しに、母親はさらに顔を死人よろしくな色にして口をポッカリ開いている。母親の右手から、するりとゴブレットが落ちた。華奢な音を立てて、中身を辺りに散らかし床を染めているのに母親は長男を見たまま固まっている。
 視線を受ける長男はそれに返すことなく部屋に散乱しているものからでる臭いと、吐瀉物の臭いに咳き込んでいた。
 当然の反応だと、ナマエは呆けたまま思った。
 嗅覚が麻痺してなければナマエだってそうなろう。
 だが実際にはナマエの嗅覚はほとんど死んでいる。いや、嗅覚だけではない。味覚も、視覚的な耐久性も異常をきたしている。だからこそ生まれる余裕のおかげで、ナマエのからだは部屋にあるものに反応しない。
 まともに生きていたのは親に対する感情だけだ。くだらない。ふざけるな。いい加減にしろ。もうやめてくれ。――――それから新しいものが一つ。
 ざまあみろ。
 “こんな”無様をさらして絶望を顔に浮かべる母親にナマエがこっそり吐露した頃、長男が思い切りその白皙をしかめ、母親を睨めつけた。
 大方、長男は誰からかこの有様に至る推測を聞かされていたに違いない。
 「これは、その」と必死に弁解しようとする母親を長男は無視することで一刀両断する。そして首だけ回して扉のほうを振り返った。

「レギュラス、来いよ。お前の言ってたとおりだ。見ろ、この空き瓶の数々を。空けたのはそんなに昔じゃないらしい」

 呆れたとばかりに空き瓶を蹴り飛ばす長男の奥、扉の外側に、先程は見えなかった黒い布を持った次男がいた。
 次男は兄の言葉に一度安堵したかのように顔の緊張を解くと、たしたしと床を鳴らしながらこちらへやって来た。次男とナマエの視線がかち合う。
 いったい次男の目には今のナマエがどう映ったのか。眉根をぐ、と寄せた次男はひどいとこぼすと、母親の前にまるでナマエを庇うように立ち、細く短い息を吐いた。
 次男の振る舞い怯んだ母親の、泳いだ視線が次男の肩ごしに見える。

「ぼく、前にきいたんです。どうして病気じゃないのに薬を飲まなくてはならないのか、どうしてだれもこない日でも外に出てはならないのか、と泣くミス・ミョウジの声を。だからぼく、父上に言ったんです。ミス・ミョウジの病の原因は、もっと違うものにあるのではないかと」

 次男が背筋を張って言えば、

「あなた、この二月、こちらが見舞い品を果物に変えていた理由はお察しで?」

 長男が嘲った。
 次男が言った言葉は紛れもない。ナマエの言葉だった。
 次男が叫びを聞いた日とは、初冬を迎え日のことだ。その日も彼らは遊びに来ていた。
 やはりナマエは部屋にしまわれたままだったが、窓から見えるところにあった薄氷に懐かしさを感じたのだ。
 ようするに、自分の感情に負けた。
 そして次男の言うように喚いた。それはもう、鬱憤の分だけ盛大に。
 その時はまだ、喋って吐き出すほどではなかったからできたことだ。
 まさか聞かれていたとは思わなかったと、ナマエは瞠目した。
 果物はきっと、“胃が受けつけない病気”を患ったナマエの代わりに、“一級品しか受けつけない”病気を患った両親が食べてくれたのだろう。
 なんの違和感も感じず――――実に、想像に容易い。
 次男が、両親からこちらに視線を流した。

「ミス・#ミ#にひつようなおくすりは、“ここ”にはないです」

 断言する次男に、ナマエはまた別の薬を飲まされるのかとひやりとする。
 もう、おおよそこのからだは様々な薬と呪の品のおかげで崩壊寸前なのだ。ピサの斜塔のように、今現在は絶妙なバランスでどうにか保っている。
 この惨状が表に出たことは嬉しいことだが、また薬漬けにされるのであればなんの意味もない。
 勘弁してくれと心中で嘆くナマエのそばに、次男はやってきた。
 ここで次男が手にしていたものが何かわかった。
 コートだった。それも上質であろう、たぶん、次男のものであろうものが、その腕に丁寧に掛かっていた。
 いったいどうしてそんなものをもってここに。せっかくの品に臭いが移ってしまうだろうに、なぜなのか。
 ナマエは次男を見上げた。

「おくすりは、向こうあります」

 次男の目が、似たような色の空が支配する外に向けられた時だ。
 長男はいつの間に移動していたのか、すっかり一年の間に開かずの門と化していた窓の前に立っていた。
 きれいな白い手が、錆び付いた鍵を開錠する。
 一年も開けていないと硬くなるのか、何度か力んだあと長男は勢いよく窓を押し開けた。
 瞬間、真冬の澄んだ空気が、この部屋の濁った空気を吹き飛ばすように入り込んできた。
 冷たい風に、雪のほのかなかおり――――空気が入れ替わっていくさまに、ナマエは息を飲む。
 寒いと思うよりも、それらにナマエの心は踊った。
 久方ぶりの外のにおいが、吐き気や頭痛をいくらか鎮めてくれる。
 それを察したのか、次男は自身が出した答えに間違いはなかったと、うれしそうにはにかんだ。

「あなたは、どうしたいですか?」

 次男がナマエの目を覗く。外の愚図ついた天気と似た色をしている次男の目。
 だが薄暗い色の瞳に外界からの光が差し込むさまは、時折見かけた天使の梯子のようにきれいで、幻想的だった。次男の顔の造形の良さもあって、本当にそこに天使が降り立ったかのような気すらする。
 ナマエはそっと天使に呟いた。もっと近くで新鮮な空気を感じたいと。
 しかし天使の手を煩わせるワケにはいかない。
 力があまり入らないからだをどうにかベッドから出そうとナマエが脚をおろした、そのとき。
 ふわり。
 と、まるでその行動を読んでいたかのように同じタイミングで何かが肩に掛けられた。黒いコートだ。
 はっとして見れば、次男が隣に立っている。

「お手をどうぞ。ミス・ミョウジ」

 ナマエと大差ない大きさの手のひらが差し出され、ナマエは少し躊躇した。両親が魔法で綺麗にしてくれていたからだだが、先程までゲーゲー言っていたのだ。
 そんな手で、高貴な、次男の手をとるのは……。
 そのためらいを次男は見てとったのか、やわらかく微笑んで小首を傾げ、自らナマエの手をとってみせた。

 だいじょうぶ。

 声に出さずに、口の動きだけで次男は言った。
 そうされてしまっては、ナマエは任せる他ない。
 ゆっくりと床に足をつけて、次男に肩を抱かれて助けられながら立ち上がる。
 ぺたり、たしん。
 ゆるやかな歩幅で、なんとかこんとか長男がいる場所へと向かう。
 もう長いことまともに動いていないからだには、それだけで重労働だ。一歩歩くのだってかなり辛い。
 そんな人間を支える側も一苦労だろうに、次男はナマエを急かすこともなく付き合ってくれた。
 そうして十数歩ほど歩き、ちょうどナマエの顔が出る高さにある大きめの窓へと、ようやくたどり着いた。
 少し窓から乗り出すようにナマエは世界を臨む。
 見えた外の世界は、一面雪景色だった。
 ところどころ雲間から冬日を受けてかすかにきらめく雪が、風にさらわれて雪煙となって奥の景観を白染めにしている。そのおかげで果がないようにも見えて、ドールハウスの住人と化していたナマエもようやく思い出した。

 ひとには制限なく動かせる手足があって、糸で吊られているわけではないことを。
 また各々の自責のもとに意思があって、台本をなぞっているわけではないことを。
 そして今この瞬間ナマエはそれらを――――取り戻した。

 ヒュウヒュウと乾いた風が、すっかり重たくなっていたナマエの髪を揺らす。
 そんな髪をおさえるように、長男がナマエの頭を撫でた。

(――――……ああ、やっと)

 ナマエは見える光景に目頭を熱くして、処方された“くすり”にぼろぼろと涙した。





 ぱりん。孤島は、後一歩で、完成する。





 両親の過失が彼ら一家に暴かれてからさらに一年。
 その頃にはすっかり元のお転婆娘に戻ることができたナマエは、冬が近づくと毎日彼らに感謝の念を胸中で捧げていた。こどもでは謝礼するといってもできることなどたかが知れていたし、彼らも一度の礼の言葉だけでいいと言ってくれたので素直に甘えている次第だ。
 その日も朝起きて窓の向こうに薄氷ができているのを確認するなり、ナマエは目を閉じて感謝をのべた。そうして朝食もそそくさと終わらせ、コートを羽織って外に出る。
 両親はもう、何も言わなくなった。彼らにあんな失態を晒してしまったのもあるが、一番大きいのは弟が生まれたことだ。両親は弟、後継に夢中になっている。
 対して、ナマエは自分の楽しみ興じていたのでそのことに大した感慨はなかった。
 それに、もうすぐやってくるであろう彼ら一家が待ち遠しく、胸がどきどきとうるさいせいもあった。
 厳格そうに、いや実際厳格な家風の彼らだが、長男と次男はナマエと同じく随分と行動派なやんちゃっ子で、しかしそれでいて頭脳明晰であるから目をつぶってもらっているのだ。
 ナマエもそうすればいい、そんな長男の助言どおりに勉強や教養の習得に励めば本当に両親は何も言わなくなった。
 あまりの呆気なさに言葉もない。
 突然バシンと音がして振り返れば、そこには彼ら一家がいた。
 姿現しだ。

「こんにちは、ナマエ。ご両親は中かな?」

 長男は父親と、次男は母親と手を繋いでいて、移動方法のせいで少し気分が悪いらしい。ナマエも何度か体験しているので気持ちはよくわかる。
 挨拶が終わったら遊ぼう、と次男がいつもどおりに提案したので、ナマエはいつもどおりじゃあここで待ってると小さく手を振って家に入っていく彼らを見送った。




「お前ら好きだな、それ。飽きないのか?」

 彼ら、兄弟が戻ってきた。
 ぺきぱきぱきぺきん。そんな小さな音を伴奏としながら、理解できんと腕を組む長男、シリウスは下二人の行動を見守っている。

「あきないよ。だっていっつも違う音と感触なんだから、あきるはずないよ」

 ナマエはシリウスに目もくれることもなく、小さな湖のほとりの薄氷を壊して歩く。

「兄さんは外で遊ぶのは好きだけど、思いっきり身体を動かすことが前提だから」

 ぺきりぺきり。次男、レギュラスが足下の薄氷を見つめながら軽い調子でナマエに明かす。

「そりゃあ、お前もだろう」
「ほうきに関してはね。でもこうして自然に触れたりみたりするだけも好きだよ」
「そうかい」
「うん」

 ぱきぺきぺきぱきり。ナマエとレギュラスのふたりで、縁を崩し終える。
 さながら湖に浮かぶ湖島のようだ。
 ほんとうはすべて踏み壊したほうが楽しみも多くなるのだが、いかんせんそれなりに大きく、また底もある水溜りなもので、中心部分を踏もうものなら靴がべしょ濡れになってしまう。
 一瞬で汚れ、水気を消し去る呪文があることを知ってはいるが、杖を持たない子どもが使えるはずもない。
 多少汚れる程度なら許してくれるようにはなったが、さすがにべしょべしょにして屋敷を歩いた日には雷が落ちるだろう。我が家には母が好いていないこともあって屋敷しもべ妖精がおらず、そのへんの家事はすべて母が担っているからだ。ただえさえ弟の世話で忙しいのに、いらない仕事を増やしたとなればそりゃあ、まずいだろう。
 いくらお転婆でも、そう考え至るあたりナマエはやはり上流階級の人間だった。
 少々ぶすくれたナマエを、シリウスが片眉を上げて笑う。

「お前みたいなのを娶れば、さぞかし毎日が楽しいだろうな」
「……」

 両親が目論んでいることを見透かしての、最高の皮肉だった。
 シリウスだって同じだろう、と言い返してやりたくなる。なにせ、そのような風に戻す手立てを示してくれたのはシリウスなのだから。
 シリウスは普段猫を被っているから分かりづらいが、相当な野心家であって自由奔放な性格だ。
 良家の生まれながら形式に囚われることを好まないナマエとシリウス。
 似た性質を持てど性能はまるで違うから反論しない。できない。彼とナマエとでは頭の作りが根本的に異なるのだ。
 あの格式高いブラック家が子息の“戯れ”を許容し続けるほどには、シリウスという人間は才智溢れている。それこそ、名は体を表す、だ。シリウスは勉学にしろ実技運動にしろとてつもない力を秘めていて、そしてそれは本人が意識せずとも滲み出て輝き、人の目を惹きつける。
 勉学面だけでなら聞くところによると、彼はすでにホグワーツ一学年の教科書の内容は網羅しているらしい。
 かたやナマエはようやっと読み書きと簡単な算術、超大雑把な魔法史を覚えた“程度”である。
 輝きなど、微塵もありはしない。
 どうせ何か言ったところで言い返され、言いくるめられるのは目に見えていのに、どうして勝てようものか。
 ささやかな反抗としてじろりと睨めつけるだけにとどめたが、鼻で笑い返されてしまい、ぐうの音もでなかった。
 完全な敗北にあるナマエに謙虚なレギュラスがそれを咎めてくれたのが、救いでもあり、また微量ないたたまれなさを感じるものであった。
 ――――確かにお転婆で抜けてるけど、それがナマエらしさじゃないか。僕は好きだよ。と。
 …………悪意を感じられないのが逆につらい。
 ナマエは黙っていたことで詰まっていた感情をため息にして吐き出した。
 シリウスの言うとおり、このままの状態を保てば、おそらく本当に二人のどちらかに嫁ぐことになる。ならば、デリカシーに“やや”欠けるシリウスよりも、慰めになっていない言葉を気づかずに慰めとして使うレギュラスのほうがいい。どこか鈍感で不器用な“やさしさ”のほうがマシだと、そのときのナマエは単純に考えた。




 ――――パキリ。
 ああ、ついに孤島は完成した。
 やっぱりどうにか魔法で、この島に大切なものを閉じ込めておけないものか。
 そう思索するたび、叶わない、と現実を受け入れる自分がいることにナマエはどうしようもなくもどかしくなる。
 ……いっそ、叶えてみせると啖呵を切れたらよかったものを、と、そう。
 現実はいつだって思うようにはいかないから夢を見てしまうものだ。
 目を瞑って夢を見れば覚めるまで盲目になる。
 歪曲した世界が全てになり、自分にとって都合の良い都に住んでしまえば出たくもなくなる。
 生暖かい場所でしゃがみ込み、耳すら塞いでしまえば、永遠に自分だけの世界の出来上がり。
 そこに入れ込んでしまうか否か――――。
 また線引きができるかがおそらく人生の分かれ目であり、ナマエはその岐路に立っている状態だった。
 足踏みしたり、きょろきょろと道の先を覗き込んで、見えるはずのない未来を見ようとしたりして。そうやって今自分はどういう道を選ぼうとしているのか、そこでただ考えるけれど、結局すべてを知ることはできない。
 茫洋とした未来に怖気づき、怯えて「誰か、誰か知りませんか? どうしたらいいのか、知りませんか?」と。それはまるできっかけを与えてくれと、駄々をこねる子どもだった。
 夢を望みとして見つめるか、夢で終わらせるか。
 まだ悩んでよいと許され、苦悩する子ども、だった。
 だが子どもは大人になっていく。
 大人になることを迫られる。
 ナマエが子どもでいられる期間はもう一年とない。
 世間的にはまだ猶予があるだろうが、ナマエの周りにいる人間が許してくれないだろう。
 両親は変わらず世間体を重んじる人たちであり、出遅れなど絶対に許されないからだ。
 どこに行くにしても、出遅れと判断されるまでに決断せねば両親が選んだ“最良”を歩むことになってしまう。闇の道か、はたまたどこぞに嫁ぐか。シリウスの一件以来、両親はブラック家に嫁がせることをすっぱり捨ててしまったから、いったいどこに嫁がされるか分かったものではない。あの日、彼らが取り戻してくれた権利を奪われるなどもってのほか。
 人形に戻るなんて考えただけでも怖気(おぞけ)がたつ。
 そうなりたくないなら、ナマエは自分で見つけなければならないのだ。自分の将来像を。
 ただし、ナマエ自身が動ける範囲で。
 ナマエにすべての障害を跳ね除け、自分で道を敷けるだけの力量があったならよかったが、ナマエも所詮、どう思っていようと親の庇護に甘んじて生きている側の人間である。その範囲は狭いし、条件だって決して少なくないのが悩みどころだ。――――考えれば考えるほど、不安と疑心ばかりが見据える先に映る。
 背後で雪を踏む音がするのを聞きながら、とんだ小心者だナマエは自嘲とに鼻を鳴らした。

「――――……まだやってたんだ。それ」

 さくり。音を立てながら隣に立った青年は懐かしむようなやわらかい声音でこぼした。
 黒い髪に、灰色に少し青を混ぜた目をするレギュラスは、懐古の中よりずっと大きくなり、柔和だった表情は年を取るごとに硬くなっている。
 レギュラスの問にナマエは肩を竦めた。

「年行事だもの。私にとっては」
「そう」
「レギュラスもやらない? 今なら、真ん中も壊せるし」
「たとえ魔法で汚れや水気を一ぬぐいで落とせても、しないさ」
「へえ」

 ちらりと隣を窺えば、レギュラスは一切の情を削ぎ落とした目をしていた。ここ数年、よくみる目だ。
 例えば、シリウスを。例えば、マグルを。例えば、グリフィンドールを。例えば……ナマエを見るそれ。
 レギュラスはシリウスとは違う。生真面目で他人思いだ。故に関係をひと思いに断絶できない性分である。
 でなければ、シリウスが家を出た時点でナマエとの関係も三つに分かれていたはずで、今このように幼馴染みとして接してくれてはいない。
 闇に仕えるか、はたまたそれを打ち破る騎士となるか、二つから距離を置いて保守にまわるか。
 ナマエにある選択肢はこの三つだ。
 元々純血主義に大したこだわりを持たないナマエは、シリウスに幾度かその道に来ないかと誘われた過去がある。今まではまだ先の話だと断ってきたが、もう六年生。先の話だと逃げられなくなってしまった。
 レギュラスとて去年は姿を現さなかったにも関わらず、今年になって現れたということは、シリウス同様に自身の身の置き方を決めたからだろう。
 そうして、二人はいつまでもぬるい揺りかごにこもるナマエに道を示してくれているのだ。
 それは成長するにつれ、違いが増えていく兄弟にもいくつか残存している共通点だった。
 ――――二人は、懐に入れた者には甘い。
 ただ、シリウスは切り捨てることが上手で、レギュラスは下手だという違いが、今のブラック家の内情を生み出すに至った。
 ナマエはその二人の共通した優しさのおかげで、未だ二人の天秤に掛けられていないにすぎない。

「そういうナマエこそ、壊せるんじゃないの?」

 島を眺めたままで、呟くようにレギュラスは吐き出した。
 今この場で壊すこと。それは、ナマエが二人の手を借りず、自分で道を選ぶことと等しい。
 さりげなく指し示すあたり、レギュラスの根幹にあるやさしさは変わっていなかった。
 しかし、そのやさしさがいつだってナマエに利を運ぶわけではない。
 いつかの婚約の話のように、心を抉ることもある。
 無自覚なトゲは、レギュラスとナマエの価値観の違いそのもので、背負うものの違いだった。
 だからレギュラスはナマエに壊すことを促せた。
 レギュラスの中では最早、あの共に遊んだ過去は優先するに値しないものになったのだろう。
 けれど人として今存在しているナマエはまだ価値はあるようで――――自ら切り離すことでナマエに整理をつかせようとする彼なりのやさしさが痛かった。
 すべて過去に埋まってしまったことも、レギュラスにそうまでさせる自分の愚かさも、痛かった。
 二人は自分の道を見つけて進んでいるのに、ナマエは停滞したままだった。
 両方を選ぶことができないから、止まっている。
 あるいは両方捨てるしかないから、進めない。
 指一本で繋がっている手を放すかしっかり繋ぐかするしかないと、わかっている。
 だけれど“もの”は捨てられても、そう簡単に感情までは捨てられない。
 ナマエにとって、二人は魔法界の行く末などよりも懸案すべきものだ。
 それほど大切だと思っているし、している。 だからこそ捨てられるはずがない。
 整理してしまい込むことはできても、捨てる、などと。できない。できるはずがないのだ。
 ナマエはそろそろとレギュラスの左の小指をとった。

「――――春になるまで、気長に待つことにしてるから」

 春になるまで。
 それが、感情整理ができるまでの、ナマエが算出できる、最短の期間だった。
 これ以上は、無理だと掴んだ指に力を込めた。
 きゅ、とレギュラスの指が絡まる。

「そう。なら僕も、春まで待つよ」

 淡々とレギュラスは言う。
 絡まる指は、まだ解けない。

「待てるの?」

 言外に待ってくれるのかとナマエは問うた。そのまま訊くには、はばかられたから。
 あくまで猶予を与えてくれるのはレギュラスで、ナマエが懇願するものではない。
 その不安はちゃんとレギュラスに伝わったらしい。

「待てるさ。春になって、水に戻って、土に還って消えるまで、待つよ」

 レギュラスはゆるりと瞼を閉じた。まるで思考を瞼の奥にしまい込むように。

「――ちゃんと待っててよ」
「ああ」

 再び目を開け、ここにきてはじめてレギュラスが薄らと笑う。久しぶりの表情には笑顔と表するには苦渋が滲み、泣き笑いというのが一番近かった。
 あんなにやわらかく笑っていた幼い頃のレギュラスはもう、写真の中にしか存在しない。ナマエの記憶の中の彼は、もう随分と輪郭がボヤけていてはっきりと思い出せない。
 シリウスも、レギュラスも――――。
 ナマエが大事にしていたものはそうして風化していき、何もしないままではいずれ風に侵され彼方に消えてしまう。
 だからこそ、ナマエは彼らと初めて循環を崩したその年から、ずっと同じことを繰り返してきたのだ。シリウスが欠け、ついに去年にはレギュラスも欠けてナマエひとりになっても今年もそうした。ナマエの中から、なるたけ大事な欠片をこぼさないように、記憶に焼き付けるために。
 けれど、それももう今年で最後になる。
 春になってレギュラスの手を握っていても、シリウスの背中を追いかけたとしても、ふたりに背を向けたとしても、ナマエが望むものはどこにもなくなってしまう。望むものは形を失い、もう三人ではいられない。それは、どうしようもない。
 欲張ってはいけないのだ。
 自身に言い聞かせ、ナマエは過去を掘り起こした。一緒に氷を踏んだこと、勉強したこと、お菓子を取り合ったこと、箒で空を飛んだこと、喧嘩したこと。
 ―――――すべてがすべて、特別になる。
 もうできないから、アルバムにしまって、特別にしてしまうしかないのだ。
 二人に子供と見放され、こいつはダメだと、烙印を捺されてしまう前に。
 それがナマエとって何よりも情けなくて、こわかったから。
 そうならないために、ナマエは今ここで言葉でレギュラスに、思うことでシリウスに誓ったのだ。子どものまじないごとは終わらせると。
 レギュラスは泣き笑いのまま首肯した。
 そんなナマエの“こども心”を宥めすかせるような声音でナマエ、と言を継いだ。

「約束するよ」

 レギュラスの吐息が白い蒸気となって消えていく。
 それには視線をやらず、ナマエは降り始めた雪が風に巻き上げられて飛んでいくのを見送った。

「――――約束ね」 

 一度互いに小指に力を込めて、ナマエとレギュラスは同時に結びを解いた。
 古いものが朽ちて眠る、冬の到来を雪が告げる。季節がひとつ巡ったのだ。
 そしてまたひとつ季節が巡れば、紙や命で誓約することはあっても、小指を結ぶことはきっともうない。

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