「あっという間だったねえ」
雲が空を覆う夜。星の見えない夜空。
蝋燭もなく、くすんだ月の朧気な光だけが室内を照らしていた。
そんな蒼白い光を受けて、窓際に佇むナマエの金の髪も月の様な光沢を湛えている。
オリオンの黒とは正反対の色だ。
「――そうだな」
大した感慨もなく呟けば、ナマエはやや不満そうに目を細める。
「なーに。私と別れること、さびしくないわけ〜? ひどいなあ。私はすっごくさびしいのにさあ」
十八年幼馴染みやってたのに、オリオンのいけず。
そう言う声音は平淡である。表情とは裏腹なそれにオリオンは思わず失笑した。
ナマエは昔から表情はうまく作れるくせに声を操る術は素人並、いやそれ以下だ。
「よくまわる口だ。今更だろう、なにもかも。だいたい元々別れているような……、語弊があるな。別れるなどと」
「そうかな……、んー、そうかもねえ」
「いい加減、直したらどうなんだ。その口調。相手は嫌がっていただろうに」
「やーですよ。口調くらいで苛立つような男ならこっちから願い下げです〜」
「――っはー……信じられないな。お前が嫁ぐなんて。お前を娶るような物好きがいるだなんて」
オリオンは肩を竦めてからかったが、少しもおもしろくもない。
ナマエの間のびした口調は記憶しているかぎり小さい頃からであるし、相応な能天気な性格もそうだ。それらに相まって大雑把で旧家の令嬢とは思えない所作のせいか、ついこの間で嫁になるなんてありえないと思っていたし、思い込んでいた。
そんな確証など、どこにもありはしなかったのに、である。
ナマエの家はマルフォイ家ないしプルウェット家に次ぐ名家だ。嫁ぎ先など山とあった――当たり前なのだ。ナマエが嫁ぐことは。
だというのに、どうしてこうも現実味がないのだろうか。
「相変わらず失礼だねー。ヴァルブルガに教えてあげたいよ。あなたのお気に入りは実はとんだ猫かぶりの性根の腐ったヤツだ〜って」
「彼女がお前の言うことを信用するわけなかろうに」
「それは言わないお約束でしょーが。嫌われてるからねえ、私」
父親同士が友人関係にあるナマエとは、ヴァルブルガと同じくほとんど生まれた時からの付き合いである。また、ヴァルブルガとの婚約は生まれたその瞬間に決まっていた。
そんな間柄なものだから、昔からヴァルブルガはナマエのことを快く思っていなかった。
けれどもヴァルブルガに反しオリオンも元来マイペースで急かされるのが嫌いな質である。
ヴァルブルガよりもナマエとのほうが波長が合ったのか、小さい頃は隣にいるのが当たり前で、手を繋いでどこへ行くにも一緒だった。
婚約者であるヴァルブルガといるよりも、ずっとずっと居心地がよかったからだ。
至極幸せであったと、オリオンは思う。
けれど、ホグワーツに入学して、ヴァルブルガと毎日顔を合わせるようになってからその幸せは続かなかった。
ヴァルブルガは婚約者であり、ブラック家本筋の血を引く者であり、将来服従を誓わねばならない者である。
かたやナマエは一介の幼馴染み。
あからさまではなかったものの、 ナマエは徐々に距離を取りはじめ、七年生、卒業を一週間後に控えた今では、すれ違った際に儀礼的な挨拶を交わす程度までに開いていた。
旧家とはいえブラック家より格下でオリオンには婚約者がいるのだから、周囲からすれば当然といえた。
不思議なことにオリオンの両親はオリオンとナマエの関係に関し言及しなかったが、向こうの両親はそうではなかったのだろう。
そして最後の最後に、この邂逅だ。 ナマエが離れる、ではなく別れと称したのは誇張でもふざけているわけでもなく、事実なのだ。
卒業すればオリオンは所帯を持つし、ナマエはそれに入る。
そうなれば、ヴァルブルガはここぞとばかりにナマエとの繋がりを絶ち切るに違いない。
ナマエとは卒業を境に言葉を交わすことすら叶わなくなる――ひどく胃の辺りが重たくなるのを、オリオンは感じた
「で、なんだ? わざわざくだらない話をするために呼び出したのではないだろう」
「ん。まあねえ。これ、返しておこうと思ってさ」
ナマエは握った右手を突きだしてきた。
オリオンはその下に受け皿にするように左手を差し出す。
チャラリと小さな音をたてながら手のひらに収まったのは、チェーンに通されたシルバーリングだった。
「お守り、今までありがとー。もう必要ないからさ。流石にこれをヴァルブルガにあげるのは引けるから、新しく造ってこれは処分してね」
「――。わかった」
お守り、というのはこの指輪に注がれた呪と刻印のことだ。
呪は邪悪な闇の魔術を払う防衛術。
刻印はブラック家の家紋であり、所有者はブラック家の守護下にいることを示すもの。
父親から譲渡されたもので、理屈なく渡したい相手に渡せと言われた幼かったオリオンは、なんの逡巡もなくナマエに手渡した。
ヴァルブルガはブラックの人間だからあげる必要はないと、同じくらい躊躇なく切り捨てながら。
マイペースで頓馬なナマエが何かに巻き込まれたら大事だと、やけにマジメくさって考えながらチェーンに通したそれを、オリオン自らナマエの首に提げてやったのだ。
今でもよく覚えている。その時のナマエの照れくさそうな顔も、今と同じく表情に釣り合わない声音も、鮮明に憶えている。
『ありがとう、オリオン』
見たことがないくらい、まっさらで透きとおっていて、なによりあたたかい笑顔を、今も、昔も、おそらくこの未来(さき)もずっと、忘れられやしないだろう。
あまりの重みに、本当に胃が下がりそうな気がした(そうなったら、ナマエのせいだ)。
そう思う間にもナマエの手が、離れていく。オリオンは踵を反すことで目を背けた。
この部屋を出たならば、きっと。ナマエの実直すぎる双眸とオリオンの青いくすんだそれが重なることはもうないだろう。
これからオリオンの目が映すのは現実とヴァルブルガ、そしてブラックだけ。
ナマエの夢を、そしてナマエの欲をオリオン自身の夢と欲に同調させていたのはもう過去だ。
今のオリオンに、ナマエをなくしてしまうオリオンに、夢と欲などないし生まれない。
それらはオリオンとナマエの中でゆっくりと朽ちていくだけの存在に成り下がったのだ。
オリオンにとって夢と欲とは、ナマエという共鏡があってはじめて存在できるものなのだから。
オリオンが脚を動かせばコツコツと乾いた音が反響し、鼓膜を揺らす。扉に手をかけようとしたときだ。
カッカッカ。
やけに慌ただしい音がしたと思えば肩甲骨あたりに弱い衝撃が走った。
何事かと振り返ろうとしたが見るなと言われてオリオンは堪えた。ついで肩をゆるい力でおさえられる。
僅かな沈黙ののち、ナマエはぽそりと吐き出した。
「ヴァルブルガはさ。オリオンのこと、本当に気に入ってるから、きっとずっと手中に置いておくだろうね。で、そうやって外界からきみを守るんだよ。ホント、不器用だよねえ」
「……」
「何もかも正反対な私とヴァルブルガの唯一の共通点。護られるより護るのが信条なことって、知ってた?」
「いったい何の話だ」
「オリオンはホグワーツに入学してから今まで、指輪を回収しなかった。しようと思えば機会はいくらでもあったのにねえ。そうやって、きみは守ってくれてた。指輪を渡してくれてから、今まで。で、私は指輪を今返したわけだけど――」
「くどい。手短に話せ」
せっかちだねえ。珍しくさあ。
ナマエが苦笑したのがわかる。
珍しい――確かに、オリオンは普段は人の話を遮ったりしない。
では何故か。
ナマエの声が、それこそ珍しく平淡でなかったからだ。
震えて、いたのだ。
そんなもの、聞いているだけで苦しくなる。
だから、オリオンは遮った。
ぎゅ、と肩にかけられたナマエの手の力が増した。
「癪なんだよねえ。借りたままってのは。それにさ、ヴァルブルガと対抗できる最後のチャンスなワケだから、ここでその借り、返すことにした」
「なにを――」
「覚えてる? オリオンが指輪を渡してくれたあと、私がなんて言ったか」
『――いつか、私もオリオンを護れるようになるから!』
あの言葉は、反故されたものとばかり思っていたというのに。
オリオンは無言をとおした。
――覚えていないわけなど、あるはずがない。
何も言わずともナマエは正確に受け取ったらしい。脳裏にいまだ巣くう言葉を、ナマエはそのとおりに口にした。
そのとき、背中にあたるナマエの身体の感触が一層近づいた。
「ヴァルブルガは家の力と、代々伝わってきたものでオリオンを護る。なら、私はブラック家が代々否定してきたもので、オリオンを護るよ」
「ナマエ?」
「――――よ、オリオン」
「……っ」
驚きに振り返りそうになった。声を上げそうになる。――同じであると、オリオンは柄にもなく泣きたくなった。
しかしそのどれより早く、ナマエはオリオンの背中を抜けてしまった。そうして、パッとこちらを振り向いて、笑った。
やはり、ナマエは表情を作るのだけは上手かった。
「それじゃ、さよなら」
先程の言葉も、声音も嘘のように綺麗に笑っているナマエに、手をのばせない。
その笑顔に、オリオンは出し抜かれたような感覚を抱いた。
「――ああ、さようなら」
普段浮かべない微笑をオリオンは貼り付けた。
出し抜かれたままなど、癪だから。
ナマエはやや瞠目したが、それだけだ。
視線を反らして、なにもなかったようにここを後にしていった。
――これで、すべてが終わったのか。
短く息を吐き出したオリオンははじめ、ナマエが立っていた場所に立つ。
窓の外を見やる。今も変わらず、星は見えないままだ。
しかし、雲に切れ間ができており、その僅かな隙間から月明かりが直にオリオンに降り注ぐ。
真っ黒な己とは正反対の蒼白い金のそれは、沁みるような柔らかい、けれど温度のない光だった。
月自体は全容を確認できない。いずれ、また雲に隠されてしまうのだろう。
遠い方から黒い雲が見えるから、きっとそれらに遮られて見つけられなくなる。
今降り注ぐ光を惜しむように、オリオンは窓ガラスに額と手を押しつけた。
「――……ナマエのクセに」
……ナマエのクセに、出し抜こうなどと。借りを返すなどと。
(バカなのかあいつは)
貸したつもりなどなかった。
あげたはずだった。
捧げたはずだった。
だから返品はできないし、させない。
そんな報復方法はとても単純だ。
ゆるく手を握って、オリオンは以前ホグワーツの図書館にて見つけた文献を頭の内に広げた。
条件、方法は――“欠片の曇りもなく、相手を想い慈しむこと”
――その条件はすでにクリアできている。
オリオンは自分自身にだけ聴こえるように小さく、そしてナマエに届くようにありったけの想いをのせて、目を閉じて諳じた。
「あいしている。ナマエ」
護られるだけなど、お前相手には絶対に納得してやるものか。
そう片笑んで、オリオンは瞼を押し上げた。