ごった煮 | ナノ

そうして知ったのはなんだったのか

 穏やかに閉じられたままの瞼。緩く弧を描いた口。まだ温かい、そのうち冷えていく肌。見た目よりずっと重たく感じる身体。彼女が倒れた際に巻き込まれ、一緒に床に落ちかけた一冊の本と自分の杖が両手にある。ただ、杖からは魔法を発生させた場合に残る魔力の残滓はない。レギュラスはテーブルに置かれたカップを見た。ああ、そうか。ひとりごちて、すぐに納得する。つまり自分は最初から騙されていて、彼女が言ったように、“損をしないように”守られたのだ。これで、任務は果たせたわけだ。なら。もうどうだっていいはずだろう。またひとりごちる。どうだっていいはずなのに、胸に残っている寂寞は誤魔化せるものではなかった。はじめは、態度によってはすぐさま今は失われた命を奪ってやろうとすら考えていた。だが彼女に暴かれた本心を認めた瞬間に、それは相反するものになった。できるはずもないのに。この場にレギュラスが来た時点で、どちらも生き残るという選択肢などありはしないのに。たとえ生き残ったとしてもそれは僅かな間の話であって、すぐにどちらか、あるいは両者に死は必ず訪れる。彼女を愛した父。当初、いらぬものだと思っていた心は、愛した父の心を理解した。もう、どうにもならない。事実も。心も。二人の行く末も。自分の未来さえも。レギュラスは屈みながら腕に抱いていたひとを、そっと横抱きにして、寝室に運んでベッドに横たえた。これからレギュラスがすべきこと。それは――。
「“                  ”だそうです」
 きっと最初で最後の頼みを果たす言葉をなるべく優しく囁き、レギュラスは自分がいた形跡を消すべく、杖をふるう。そうしてなにもなかったことにした。何もかも、彼女が自分でしたように仕向けた。レギュラスの顔にはもう寂寞も罪悪感もなく精巧な人形のように動かない。彼女とレギュラスしか知らない一冊の本を手に家を出て、景色がぐにゃりと歪めば次に見えるのは自宅。その黒い扉を開いて聞こえてきたのは、絹を裂くような女の絶叫。母だろう。母は兄を思い出しては狂う。狂った母はその目に兄以外を映すことはない。ずっとそうだった。だからレギュラスは母のいるであろう部屋に向かわず、自室に戻り、デスクチェアに腰かける。そして手にしていた日記をそっと開き、己の回想とともにその内容に目を落とした。



1




「すみません。他に空きがなかったので、同席させていただいてもよろしいでしょうか?」
 随分と緊張した面持ちで扉をノックする少女。真っ黒いローブに真っ黒いネクタイ。薄茶色の金髪、緑の目、そばかすのある白い肌。容姿平凡で、どこにでもいそうな少女が緊張するその要因は、扉の向こうにいる少年である。少女とは違い、癖のない黒髪に青い目、白磁の肌に覆われた容貌は人形のように形が良い。少女と同じくローブやネクタイに彩りはなく、その少年の髪と同じように黒いので、少女は自分と同い年であると判断できた。こんな事態でなければ、一生関わることがなさそうな人物である。幼いせいか、顔だちは中性的で、声もまだ高いだろう。ズボンでなくスカートを穿いていたら女の子と間違えそうだ。少年はしばし逡巡する素振りを見せたが、一度俯いたと思うとどうぞ、と少女を招き入れてくれた。少女はありがとうございます、と述べて少年の向かい側の席に腰を落ち着けた。真正面から改めて見てやはり美少年であると感嘆してしまう少女をよそに、少年は少女の言葉にお気になさらず、と淡々と返した。
「僕はオリオン・ブラックです。あなたは?」
「……、えっと、ナマエ・ミョウジと申します」
「……ああ。ミョウジ家の方でしたか。おじい様は息災で?」
「は、はい。……すみません。やっぱり他をあたりますね」
「なぜです?」
 オリオン・ブラックは小首を傾げた。一方でナマエは冷や汗をかいていた。ああ、寝坊さえしなければこんなことには、と後悔もしていた。
 一九三七年九月一日の今日、ナマエはホグワーツに入学する記念すべき日に、盛大に寝坊したのである。両親は海外に単身赴任しており、祖父母と暮らしているのだが、この二人はとてもマイペースな人間で例え孫の入学日だとしてもいつもどおりのライフワークを崩さない。祖父母の起床時間は決まって午前九時三十分。十一時発のホグワーツ特急に乗るために準備等含めて必要な時間を逆算してナマエが起きなければいけない時間は午前七時。にもかかわらず、ナマエが起きたのは午前十時。祖父母は起きた時に孫の姿が見えないからと、察して起こしに来てくれていたらしいが、寝汚いナマエはなかなか起きず。結果、九と四分の三番線に着いたのは出発時刻ギリギリの午前十時五十分だった。
 危なかった。間に合って一安心したが、一難去ってまた一難。ギリギリに到着したためにコンパートメントはすでにどこも埋まっており、ほぼグループで固まっていたため、一人でいた彼に声を掛けたのだ。
 ――が、これではひとり廊下に立っていた方がましだった。まさか、ブラックの人間だったなんて。同学年に二人いるのは知っていたが、こうして関わるだなんて予想していなかった。
 ブラック家といえばは純血名家の中の最上位。片やミョウジ家は二世代前に祖父が、純血とはいえマグルに寛容な家の出の祖母と結婚したため、純血を裏切る形になっているのだ。元々ミョウジ家はコッテコテの純血主義であったために周りの反響たるや壮絶なものであったと聞いている。ブラック家はその一端のなかでも多大な影響力をもっていたらしいのだ。本当に、できれば関わりたくない家だった。とくに、現在在学中のヴァルブルガ・ブラックは気性が激しいと聞く。これは、その人でなかっただけでも幸運とすべきところなのか。ナマエは最後のことは言葉にせず、理由を口にする。顔をしかめるかと思われたが、オリオン・ブラックはいたってそのままであった。これには、ナマエが面を喰らってしまう。
「確かにあなたのおじい様がしたことは“純血主義”に恥ずべき行為でしょう。けれど、その理由と、おじい様本人は、僕は嫌いではありませんよ」
「え」
「むしろ好感を抱いているくらいです」
「え。――え?」
「――ミョウジ家の現在の家訓は?」
「……“血”に驕ることなかれ。“血”は象徴であり力たりえぬ」
「ええ。つまり、純血にかまけて努力を怠るな。純血は尊ぶものであるが、それが個人の力ではない……おじい様も純血主義でいらっしゃるが、あの方はその当時のご当主のいき過ぎた純血崇拝には呆れられていたようですから」
「随分、お詳しいんですね」
「似たような思考をもつ人はそういませんからね。その数少ない人物を調べようと思うのは当然のことでしょう?」
「……、意外です。ブラック家の方は、みな曾おじい様のような方ばかりだと」
「実際、ほとんどはそうですよ。僕の周りでこの考えに賛同してくれている人はごく僅かですからね。いくら旧家の出だからといっても、本人にそのすべてが詰まっているわけではないし、純血だからなんでも秀でていると思い込んで努力を怠れば、魔法界を知らないが故に学ぶことに意欲的なマグルに負けてしまうのは道理ですから。――停滞している者が、進歩しようとする者に勝てるわけがない」
 だから純血であればこそ、倍の努力が必要だと思うんです。まあ、だからといってマグルの全てを容認するわけではありませんが。あくまで、常識で考えたまでです。
 最後に毒を吐くオリオン・ブラックは、ミョウジ家を敵視しているようなことはないと言う一方で、マグルは好かないらしい。純血主義とそうでない者の間にいるようだ。難儀なことだと、幼いうちから複雑な思想を追うオリオン・ブラックに、ナマエは感心した。
「ですから、そこまで気を遣わなくても。今の世の中純血の数は減っていますから、どんな思想の家の血を引いていたとしても大変貴重です。それに、それらを補うほどにミョウジ家がもつ歴史とその家督は素晴らしいものでしょう?」
「……、それはどうも」
 歴史云々、家督云々。貴族らしいことを言いもすれば、一風変わった純血主義を唱えもする。だいぶ変わり者らしいオリオン・ブラックに、ナマエは自然と肩の力が抜けるのを感じた。良かった。これが今年入学したらしいもう一人のブラック、噂によればあのヴァルブルガ・ブラックの弟であったなら今頃はじき出されたあげく、姉に報告されていたやもしれない。この様子なら、オリオン・ブラックは下手に言いふらしたりもしないだろう。入学すれば自然に周りに知れるものだが、ナマエとしてはスリザリンに入る予定はないのでなるべくならそっとしておいてほしいのだ。諍いはごめんである。
「所属寮はどこへ?」
「……レイブンクローに」
「そうですか。僕はスリザリンです。ミス・ミョウジ、スリザリンに変えてみません?」
「…………。遠慮しておきます」
「残念」
 まったく残念そうではない平淡な表情でオリオン・ブラックが肩を竦めた。その直後にがたん、がたんと大きく車体が揺れ、汽笛が鳴り響き、窓から見える景色が段々と流れ始めた。
「とりあえず、ホグワーツにつくまでの間、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」




2




 組み分けはやはりナマエとオリオン・ブラックが各々言ったようになった。ナマエはスリザリンにならなくてよかったと安堵した。七年間の学生生活、できることなら楽しみたいものである。その楽しみの一つは父から聞いた、大量の、七年をもってしても読み切れないほどの蔵書があるという図書室であった。だから、空き時間、休日はほとんど図書室に籠りっきりのナマエは同じく本の虫、変人の集まりと呼ばれる同寮の者たちからも変人扱いされた。まさに変人の中の変人といったところか。ナマエはそれを気にすることはせず、今日も今日とて文字を喰らっていた。いつもは一人で没頭してるのだが、今日は違う。ナマエの向かいに行儀よく椅子に腰かけ、優雅にページを捲っている。はじめ、目の前の人物が来たことにも気付かなかったが、窓から差し込む光の加減が大分変っていたことに気付いたときに、一緒に目に入り認識できた。午前からおやつ時になった今の時間帯。彼に気付いてから一時間ほど。それまで会話は一切なかった。気付かなければ気にも留めないが、気付けばやはり意識してしまう。落ち着かない。そして意識を逸らすために読んでいた本もすべて読み切ってしまった。パタン。本を閉じる。もう今日は切り上げよう。ナマエが腰をあげたときだ。
「――もう、お腹いっぱいですか?」
 にこりと口角を上げながら向かいに座った人物が本の虫であるナマエのことを揶揄した。ナマエとしては、たまたまここに座った、というふうに片づけておきたかったのがどうやらそうではないらしい。どう切り返すべきかナマエはやや沈黙した。そののち、再び腰を落ち着ける。ここにやってきて声を掛けてきたのだ。なにかしら用があるのだろう。そう考えて。
「まだ六分目といったところですね。――なにかご用ですか、ミスター・ブラック」
 オリオン・ブラックはとってつけたような笑顔のまま、ナマエの問いかけに“応えた”。
「オリオンでいいですよ。この学校に“ミスター・ブラック”は三人もいますから」
 “答え”になっていない。ナマエは読めないオリオン・ブラックの言動にやっぱりなにも気にせず帰ればよかったと思った。




3




「ナマエ、ここのことなんだけど」
「うん? ――ああ、それは刻むんじゃなくて潰すほうが効率がいいって父様がいってた」
「なるほど」
 三年の秋。ナマエは一年の時には絶対に近寄るまいと思っていたオリオンと、また同じコンパートメントにいた。時刻は出発時刻の一時間前。随分早いが、これは約束してのことだ。宿題の見直しと訂正をするためである。
 一年のあの時、どういう訳かオリオンは友人になろうと言い出した。はじめはブラック家が背後で糸を引いているのかと疑い、幾度も願われたが承諾しなかった。だが、オリオンもまったく折れずに同じことを何度もナマエに語った。結果、特に家からの忠告や他のブラック家の圧力があったわけでもなく、疑うことをやめたナマエが根負けしたのだった。そうしてそれからは堂々と会うことはせずとも、図書室や中庭の隅でなどで「今日の授業であのひとが盛大なミスをやらかした」「ハッフルパフの先輩とスリザリンの先輩が一緒にいた」「クディッチ選手になりたいが、きみはどうか」などなど。名家特有の小難しい嫌味や“世間話”をするでもなく、いたって平凡な、学生生活を謳歌している子供の会話を楽しんだ。今や、自寮の友人と変わらないくらいのコミュニケーションをとっている。あのとき、はじめてオリオンを見てドギマギしていた頃のナマエは想像もしなかったろう。
 宿題の確認と訂正を終わらせると話題は今期のクディッチへと移る。オリオンはシーカー、ナマエはチェイサー。ポジションは違えど、試合にでる選手として話のタネには事欠かない。今年はレイブンクローのチームは最凶と呼ばれていたビーターコンビが卒業し抜けてしまっていて、新人もまだまだ調整には時間がかかる。ナマエは今年は優勝は難しいなあと呻く。逆に優秀なキーパーとチェイサーの卵が入る予定らしいスリザリンチームのオリオンは楽しみだと、随分意地悪い笑顔で言った。
「……。あの頃の“やさしい”笑顔は何処に……」
「誰もがほとんど初対面の人間に本性を見せるわけないさ」
「なにそれ。あの頃から大差ない私はマヌケってこと?」
「貴族らしくはないと思うけど」
「――猫かぶり」
「なんとでも」
 小首を傾げてオリオンが言ったあと、汽車はホグワーツへと向かうためにもう耳に馴染んだ音を上げた。





0




 レギュラスは、気の抜けたように緩慢な動作でぱらぱらと、持ち主がいなくなった古い日記を捲っていた。綴られていたのは持ち主の学生時代の思い出。そこに出てくる登場人物の数人はレギュラスもよく知っている人々だった。母だったり、叔父であったり、その学友や敵対関係にある家の者、レギュラスの友人の両親――そして、父親であるオリオン。彼の名前が一番多く綴られている。
 レギュラスの中の父親の像はいつも無表情で生真面目、過激な思想を掲げる純血主義を謳う母に付き従う従者だ。子には成績や世間体のこと以外では滅多に見向きもしない。――いや、ほとんど人形のように母に従う父の姿しか知らないレギュラスでも例外を見た覚えはあった。クディッチのことには、普段死んだように濁った眼に光を漂わせて、比較の話ではあるが、生き生きと語っていた記憶がある。母が跡取りがゲームなどににうつつを抜かすなと、クディッチをやりたいと言ったレギュラスに猛反発したとき、父はいつもなら同意するセリフしか紡がない口で反対を“語った”のだ。両立できる器量がなくしてブラックを名のれるはずもないだろう、と。あれが、唯一父が絶対君主である母に逆らった瞬間で、母が従者に負けた瞬間だった。あれ以来、レギュラスはどちらも見ていない。レギュラスはあのとき、父はちゃんと“生きている”人間だったのかと思ったことを覚えている。レギュラスは人としての父、オリオン・ブラックをそれまで見たことがなかったからだ。家ではそれぞれ、母は純血の頂点に立つ者として独裁者の、父は母をたてる従者として表向きの当主の、兄は純血に対するラディカリズムを掲げる者としての仮面をし、そしてレギュラス自身も次期当主として“望ましい姿”でいる。誰もが誰も、もはやそれぞれの本当を知らない。人間性をみようとしない(これらも兄が家を出た理由の一つか)。家族という言葉は、ブラック家においてただの単位でしかなかった。
「――あなたは、許していたんですね。ひととしての父を」
 そして、きっとひととしての父をあいし、あいされていた。
 レギュラスはおそらく父の過去に唯一色づき咲いていた花を、その手で摘み取ってしまったのだ。今病に臥せりほぼレギュラスに譲られた父の書斎で見つけた手紙と、彼の人の言葉から察することができていたら――考えて、レギュラスは夢想だと内心で嗤った。
 父に言ったとして、父だってレギュラスと同じ判断を下しただろう。でなければ、今この場にレギュラスがいるはずもない。そもそもレギュラス自体、存在しえなかったろう。父は兄の生まれるずっと前から、とうに選んでいたのだ。ひととしての己を捨て、家にとって従順な従者になることを。そして日記の持ち主も選んだ。父との繋がりをまっさらに戻すことを。――あの、イギリスに住む魔法使いにとっての始まりであり、彼らのはじまりでもあった、九と四分の三番線をその終点として。
 レギュラスは、持ち帰った日記のページをまたぺらりと捲った。




4



 なんなんだ。
 ナマエはやたらうるさく跳ねる心臓に悪態を吐いた。クリスマス休暇も終わる日。学校までの道を辿る列車に乗り込み、例年のごとくオリオンと同じコンパートメントに入ったまではいい。問題はそのあとだ。オリオンは大貴族らしくクリスマス当日以外はパーティずくめだったらしい。もともと人ごみなどや、にぎやかな場所は苦手なオリオンはかなり疲弊した様子だった。加えて、オリオン曰く、あのヴァルブルガ・ブラックの相手も務めていたようでそれが拍車をかけていた。家柄的に、この二人はそのうち婚約するであろうと貴族間では噂されつづけていたが、こういう話を聞けば事実に変わるのも時間の問題だろうことは予測できる。マイペースで大人しいオリオンと、シャッキリとして強引なヴァルブルガ・ブラック。誰から見ても相性は悪そうなのに、これだから貴族は難しいのだ。ナマエは自分もいずれはそうなるのかと嘆息した。そうしていつものごとく宿題を確認していたときだ。四年生になってからは向かい合って座るだけでなく、見やすさの観点から隣に座ったりもしていたので、今回も互いに羊皮紙を確認しやすいようにナマエはオリオンの隣に座っていたのだ。はじめナマエの問いかけにいつもより不機嫌そうな低い声で答えていたオリオンだったが、そのうち返答が返ってこなくなった。なんだなんだ。ナマエが羊皮紙からオリオンに視線を流せば、彼はこくりと船を漕いでいるではないか。そんなにか。ぽつりとでた独り言にも、やはりオリオンは反応しない。よく見ればうっすらと隈ができていたので、起こすことはせずに寝かせてやろうとナマエ黙ってひとり確認を続けようとした。のだ。その次に起きた事に、話は冒頭に至る。
 列車が発車し、その揺れでオリオンの体が揺れたと思ったら、ナマエ肩に彼の頭が落ちてきたのだ。それだけならまだ、まだいい。オリオンの頭が重力に逆らわず、ずるりとナマエの膝に落ちてきた。おいおい。陳腐な恋愛小説じゃあるまいし、なんなんだこの状況は。これは、絶対に起こした方がいいだろう。他の人間、特に純血名家の連中に見られたら、なんの言い訳も許されない状態だ。頭であれこれ考えながら、ナマエはオリオンの肩を叩いて揺する。
「オリオン。ちょっとこれはまずいよ。私退くから、一回起きてよ」
「……、……」
「いやもういい。勝手に退くから」
 オリオンになるべく衝撃を与えないように、首裏と背中に手をまわして彼の上半身を起こし、腰を上げる。途中、オリオンの顔と距離が近くなった。その瞬間、うっすらとブルーグレーの目が開いた。
「……、ねむい」
 ぼそりと吐き出して、オリオンはまた目をつぶる。ええ知っていますとも。返しながら、ナマエは横にそれオリオンの体を再び横たえたあと、向かいの席に座り直す。オリオンはごそりと身じろぎしたかと思えば、ナマエの方を向いて眠気眼でナマエを見上げた。なにかあるの。ナマエが訊けばオリオンは瞬きをひとつする。
「忠告されたんだ。ヴァルブルガに」
「……それで?」
「たぶん。もうだめだ」
「――――そっか」
「うん。うまくいかないものだね」
「今さらでしょう。それが力あるところに生まれた者の辿る道だもの」
「ナマエは、“イヤ”かい?」
「前は仕方ないってわりきってたけどね」
「はは、僕もさ」
「……」
「悲しいね」
 でも、同時に嬉しいよ。ありがとう。
 オリオンは言うだけ言って瞼を下ろした。



0



「――を討ってこい。あれはどちらにもついていないが、故に邪魔だ。不穏分子は摘み取っておくに限る。あれを討つのはお前が最適だ」
 なんて、残酷なのだろう。いや、あの方の理想は素晴らしいものだ。それを実現するためには犠牲は致し方ない。標的は純血であるが純血主義でもなければマグル擁護派でもないらしい。彼女の実家の先代の当主からそうしているらしいが、万が一ダンブルドア側に寝返られては親族を抱え込まれた場合面倒たりえるし、第三の勢力となられてもまた同じ。
 初めての任務だからと、当主である父に報告すれば父は少し考える素振りをしたと思えばベッドから起き上がった。
「少し待ちなさい」
「? はい」
 そう言ってそばに置いてあった杖を取り振ると、タンスの上にあった鍵付の小箱が開いた。すると中から何かが父のもとに飛んでくる。父はそれを取り、手のひらを開く。鍵だった。父はそれをレギュラスに差し出した。
「これを。書斎の鍵だ。お前に譲る。有効に使い、管理を怠らないように。ただまだ整理が終わっていないところがある。お前の判断で片づけて構わない」
「はい。父上」
「いきなさい。任務の件、しくじることのないように」
「はい。失礼いたします」
 ――父が任務の前にこうしてわざわざ鍵を渡すということは、なにかあるのだろう。父は無意味なことはしない。しかも、整理していないときた。几帳面な父が、そんなこと。直感というべきか。心に働いた力に誘われるように、レギュラスは父の書斎に向かった。
 着けば整理していないと言っていたわりには整然としていた書斎にレギュラスは拍子抜けする。だが、なにかあるには違いない。書棚やタンス、デスクの引き出し――。この寒々しい書斎の中で、ひとつ。中身を確認できないところがあった。デスクの引き出しの最上層、鍵付のものの中だ。一応、解錠魔法をかけてみたがやはり、開くことはなかった。レギュラスはポケットに入れていた書斎の鍵を取り出した。大きさからして、引き出しの鍵ではない。ではどこに。父に限って渡し忘れた、などあるはずもないし、となれば。
(この部屋の中か? あるいは家のどこかか)
 明け渡す、と言ったというのに鍵の在り処を伏せるというのは釈然としない。らしくないな。そうこぼすレギュラスが杖を取って呼び寄せ呪文を唱えれば、書棚から一冊の本が落っこちた。と思えば、本は床に落ちた後ひとりでにばらばらと捲られ、仰天したレギュラスに向かって錆びた金の塊を放った。レギュラスにぶつかると思われたそれは、レギュラスの前で急停止する。呆気にとられていたレギュラスだが、その塊の形が鍵であると認識したと同時にそれを手にした。引き出しの鍵穴に差し込んでみる。――あたりだ。回せば軽い開錠の音がする。取っ手を引けば、そこにあったのは一通の手紙と、一枚のメモだった。これらの処分を、レギュラスに任せると言った父、オリオン。見た感じ、どちらも紙は黄ばんでいるため時間が経っていることが窺える。保存魔法は掛かっていない。手紙の方を手に取って見てみたが、封蝋は見たことのない紋様で、触ったところ、中に紙以外のものが入っている様子もなく、そして開封済み。今度は、半分に折られた状態のメモを手に取り開いた。
【いつもの通り、一時間前に集合すること】
 たったそれだけが、記してあった。名前は書いていない。だが、レギュラスはその字に見覚えがあった。――父オリオンが書く、少しだけ丸みがあるものの綺麗な字にそっくりだ。これがあった場所からして、書いたのは父で間違いないだろう。ただ、誰かに宛てて書いたのにもかかわらず、こうして父の手元にあったということは、これはその相手には届いていないのだ。この文面は砕けている上に差出人の名前がないということは、直接渡す予定だったのか、あるいはそうでなくとも相手側がこの文面だけで差出人を推測できる程度に親しい関係だったのだろうか。父の友人関係を洗ってみたが、どれも“必要な”お付き合いで接している人間ばかりだ。母の弟、シグナスとはまた違った関係のようではあったが。だいたい、そう思い当たる人間なら封蝋を見た段階で特定できたはずだ。無駄な推理にレギュラスはひとつ息を吐く。他人の、しかも父親宛ての手紙を読むというのは良識的にしたくはないが、父が好きなようにしろと言ったのだ。ならば見る権利だって当然譲渡されているはずである。短い葛藤ののちに封筒から出した手紙の内容に、レギュラスはやはり読むべきではなかったと手紙を持つ手に力を込めた。一見、ただの謝罪文。だがその端端にある感情の欠片、過去の一片が確かに記してあったのだ。
 そしてその差出人こそ――レギュラスが討たねばならぬ者であった。レギュラスは、母の許に行く予定を破棄した。




5



 ミスター・ブラックへ

 初めはもっと格式ばって書こうと思いましたが、そうすれば文章が長くなるだけで無意味だと思ったのでやめました。すみません。
 このたび、このような手紙を書いたのは今までのあなたに対する感謝と、今までの私の非礼に対する
お詫びのためです。
 あなたはとても心優しい方です。私のような、血を裏切りかけた者の縁者にも他の方と変わらず接してくださいました。その優しさを慈悲として受けとめ、離れればよかったものを、私は甘えて縋ったのです。他の一門からの視線が恐ろしいからと、あなたの優しさを、下賤にも利用したのです。
 私はこの罪に気付いたとき、どうしようもなく途方にくれました。あなたから離れることはもちろんのこと、どのようにして償えばよいのかと。そんなとき、あなたの婚約者であるヴァルブルガ様から、今後一切関わらないことで不問に処すると、寛大なご容赦をいただきました。
 あなたに対する感謝とお詫び、そしてヴァルブルガ様への謝意をもって、その指示に従うことといたします。
 今まで本当に申し訳ありませんでした。

 追伸
 本はあなたに差し上げます。捨ててくださってもかまいません。

 ナマエ・ミョウジ

 ――そこまで書いて、ナマエは手を止めた。見る人が見れば、随分取り扱っている話題のわりにぞんざいな手紙であると思うことだろう。だがそれでいいのだ。あまりに格式ばって書けば、オリオンは差出人がナマエではないと疑う可能性があるし、逆に砕けすぎても警戒心のなさ故にまた別人だと思われかねない。硬くなく、かといって砕けすぎてもいない。抜くところは抜いて、真剣になるべきところはそうするナマエを表した手紙。あとは念を込めて最後の一行。ただしこれはオリオン以外に見られると面倒だ。いつだったかオリオンと遊び半分で作った秘匿魔法を掛けておく。解除呪文はオリオンしか知らないから見られる心配はない。もしこれにオリオンが気付かなくとも、それはそれでかまわない。所詮、すべて終わってしまうことなのだから。ナマエはオリオンに貸す予定でいる本に手紙を挟んで、図書室に向かった。ホグワーツに入って五回目のクリスマス前日、随分奇妙だが、確かに存在していた感情と別れねばならない。ただの友情であったらどうにでもできたというのに。どんな物語や伝記でも愛は魔法を上回るが、現実は越えられないらしい。
 手紙を渡してから、前までならあったメモ書きのようなオリオンからの手紙は一切来なくなった。
 だが、これでいいのだ。これで。




0



 レギュラスは命令従い、薄暗い夜の中、ミョウジ家にやってきた。今現在、女当主である本人を除き、家の人間は住んでいないらしい。彼女の夫は若くして病死、息子は今は仕事の関係でフランスにいるとのことだ。父に謝罪文に見せかけた別れの文を出したひと。手紙が挟んであった本はクディッチについてのもので、父とは趣味が合っていたとみえる。それにミョウジはどうこうと謝罪を述べていたがレギュラスが一番注目したのはそこではない。祖父の代でマグル擁護派の家の者と結婚するという裏切りを働いた家の者と父が友好的な関係を築いていたという事実のほうだ。レギュラスの父の像でいえば、オリオン・ブラックという人は狂信的な純血主義者である母に賛同する程の純血至上主義である。だというのに、手紙をみるに父はそうではなかったらしい。手紙が嘘である可能性もあるが、母の名が出ている時点でそれはかなり低いものだ。もし父が今と変わらずの純血主義であったとすれば、母は遊びかあるいは何らかの詮索であると考えたはずだ。それなら、今後一切関わるなといわず、切り捨てるのが母である。だがそうしなかった。あるいはそうできなかった。誰かが、母の介入を拒んでいたからだろう。ミョウジと父の関係に母が介入したら都合の悪い者が。純血関係者はまずないし、ミョウジの関係者の線も薄い。祖父の代のブラック家というのは幾度目かの盛時を迎えており、今とは比べられないほど力は絶大だったのだ。それに関わろうとは、純血主義でないのなら普通しない。逆らうなどもってのほかだ。ならば。母を牽制しうる者はただ一人。
 だからこそ、主はこの家にレギュラスを寄越したのだろうか。ミョウジに惨めたらしい思いをさせるために。だが、家族仲は良いと評判で、亡き夫は愛妻家であったらしい上に彼女もまた夫を慕っていたという。互いが、似たような中間思想を掲げていたせいもあろうが。彼女は、手紙を出した時点ですべて過去として割り切ったのだろう。そして父も、メモを渡さないことで割り切ってしまったのではないだろうか。でなければ、父はレギュラスたちに愛情を大して与えない以前に、無関心にすらなっていただろう。だが無関心ではなかった。いつだって、どこかでレギュラスたちを見ていた。いつの日か、レギュラスにクディッチという脇道を与えてくれたように。
 レギュラスは杖を取り出し、開錠呪文を唱えた。ガチャリ、と開く音がする。ゆっくりと扉を開ければ明りのない廊下がまるでぽっかり開いた吸魂鬼の口のように闇を内包していた。音をたてないように扉を閉め、杖先に微かな光を灯す。今の時間帯ならば、寝室にいるだろうか。息を殺し、足音を殺し推測する。しかし、それとは裏腹に奥からかちゃかちゃと物音がした。まだ起きているのか。それとも屋敷僕だろうか。であれば始末する必要がある。――いや。おそらくは――。
「あら。本当に来たわね」
「――いつ気付かれたんですか」
「ちょっと前にね。狙われてるって知人に言われて」
「なぜ逃げなかったんです?」
「逃げるにしたって急すぎたのよ。整理がつかなくって」
 闇の向こうから音をたてずに現れたのは、標的だろう人物だった。そしてその人物が言った言葉に聞き覚えがあるような気がして、すぐに思い出した。父も、似たようなことを言っていた。直感が告げる。それは嘘だろう、と。レギュラスは杖を構え威嚇したまま心理を探ろうと、無言呪文で開心術を試みたがやはり相手は成人で、父が友好的だっただけあって優秀だった。閉心術で防がれたのがわかると、レギュラスはすぐさま攻撃呪文に移ろうとした。しかし、その前にミョウジが動きを見せた。――ぽい、と杖をレギュラスの方に投げ捨てたのだ。これにはレギュラスも動きを止めて、驚愕した表情でミョウジを見る。はっと直ぐに気を張り直し、レギュラスは唸るような声でどういうつもりだと問うた。
「私、戦うつもりも抵抗するつもりもないの」
「殺される願望でもおありで?」
「そういうわけではないけれどね。でもそういうことになるのかな」
「……ふざけているのですか」
「まさか。それよりも。ねえ、最期に私とお茶しましょう。殺されてあげるんだから、それくらいかまわないでしょう?」
「そんな見え透いた罠にかかるとでも」
「罠じゃないわ。その印に杖は差し上げる。だって殺されるのだからもう不要だし。お茶だって、最初に私が毒見してからでもいいし、もしくはあなたは飲まなくてもいい。私が最期にお茶するところを見てるだけでいいわ」
「……納得いきません」
「ならこう言えばいい? 旧友の息子は殺せないの」
「旧友ですか。想い人ではなく?」
 白々しい、とレギュラスが睨めつければミョウジは飄々とした様子で肩を竦めた。
 やっぱり調べたのかと。大体は、と返せば少し困ったように笑う。
「それは昔の話。今は今の家族が一番大切だもの。しかも、想い人ってほどでもなかったけどね。ああ、いいなあ、ってその程度よ。それに自覚した瞬間玉砕したも同然だったしね」
「ではなぜ僕に殺されていいと? 言っていることと矛盾しています」
 今の家族が一番大切と言っておきながら、自分の命を差出し、敵の命を救おうとする心はなんなのか。そこまで吐き出して、レギュラスの脳裏には己の主の姿が現れた。
 ――彼女にしてみれば、同じことなのだろう。レギュラスを倒すなり追い払うなりしても、次がある。ミョウジが死ぬまで、あるいは闇の陣営が滅ぼされるまで。力をもっていた先々代の当主が死去してからのミョウジ家はどんどん衰えていった。今では過去の威光は見る影もない。一番の理由は先代も、そしてその最後の直系の血縁であるミョウジも権力や地位にこだわらなかったことだ。そして純血主義にも、反純血主義にも同上の態度を示していたために、純血側は勿論のこと反対勢力にも後ろ盾をもたない。その上、家宝なども先々代が死んだ時点で親戚にほとんど持っていかれたとも聞く。今回ミョウジに知らせた人間はおそらく個人的なつながりを持つ者だろう。故に、何度も逃走できるだけの財力も、そして宛ても持たないミョウジの答えが本人の言葉に出ている。息子はフランスにいるというが、おそらくはミョウジがこれを察して逃したに違いない。となれば、もうフランスにもいないことだろう。こちら側に回ってきた情報の元は噂でしかなかったのだから。
 レギュラスはミョウジの杖を無言呪文で浮かせて取り、警戒はしつつも、己の杖を下ろした。ここに母がいたら、なにを甘いことを、と怒鳴られたかもしれない。しかし母はいない。レギュラス自身も、ミョウジから知りたいことが幾つかあった。だったら自由にするまでである。
「――いいでしょう」
「ありがとう」
 そうして、レギュラスはリビングに招かれた。
 リビングは真っ暗な廊下とは異なり、明かりがついていた。調度品も木製であったり白であったり、温かさが目立つものが多く、ごく家庭的な風貌だ。長方形のテーブルも木製で、椅子は三つ。夫が死んでからもそのままにしているようだった。掛けるように言われ、レギュラスは従う。ブラック家とは違い、キッチンと併設されたリビングであるため、ミョウジが淹れる紅茶の匂いがレギュラスのもとまで香る。アールグレイだ。レギュラスが好み、そして父・オリオンが好むもの。レギュラスが半分なじるようにそれを言えば、ミョウジは驚いたように目を丸くした。
「いや、顔がえらく似ているものだから、冗談半分で淹れたんだけれど」
「……」
「ご、ごめん。まさかそういう趣向まで似てるとは思ってなかった」
 気に入らないなら別のを淹れなおすよ、言うミョウジにレギュラスは結構です、と冷たく返した。ここで時間を延ばす意味などない。訊きたいことだけ訊ければそれでいい。そう、とこぼしてレギュラスの向かいに腰かけるミョウジは何を言うでも、レギュラスを見るでもなく紅茶に口をつけた。毒味、らしい。確かに湯を沸かすところからカップに茶を注ぐところまで何かを混入する様子は見られなかった。が。この世界には魔法という、扱う者からすれば当然の力でも、無い者からすれば不可思議な力が存在するのである。油断はならない。レギュラスは結局紅茶に口をつけなかった。
「なぜこんなことを?」
 ややしばらく。ミョウジが紅茶を飲み終えたあと、レギュラスはその真意を探った。殺されてもいい、というくらいだ。死ぬ覚悟はできているだろうに。まして父との関係を知っている息子相手だというのに、なぜこのようなインターバルを挟んだのか。死ぬ気であればそもそも必要ないのではないか、レギュラスの懐疑心は、疑問の陰で消えてはいない。なにか、裏があるのでは。そんなレギュラスを見透かすように、ミョウジはぽっつりと吐き出した。その表情は先程までの微笑みもなくカップの底をぼうとした様子で見つめていた。
「整理する時間がね、ほしかっただけ。いくらなんでも、命を狙われてると言われてハイそうですか、って流せないもの」
「なにを?」
「色々。家のことも、息子のことも、気持ちの清算も、知り合いの息子がやって来るかもしれないってことも。自分の先のことも。情報を知ったとき、正直どうしようか悩んだの。息子とふたり逃げたっていいし、いっそのこと騎士団に助けを求めるのもあり。でもね、人間はどっちにしろ死ぬんだって思ったら、もういい年したおばさんと他を天秤にかけるまでもないかって、至った」
「……それで、僕に殺されることを選んだと」
「ふふふ。おかしなやつだと思うでしょう」
「ええ。自分の息子と、他人の子とを同じ天秤にかけるなんてどうかしている」
「他人ね。まあそうよね。他人だわ。それでも私はあなたのお父様に一度命を救われているから」
 あの手紙のことか。レギュラスはすぐに答えに至った。やはり、父が母を牽制したらしい。ますます暴かれていく父、オリオンという“人間”の像。それが綴られた本が身内ではなく、つい先日まで知ることのなかった他人によって開かれることは、レギュラスに妙な現実味を与えた。身内の贔屓目でもなんでもなく、仮面の上辺だけの情報でもなく、一人の人間が一心に見続けたオリオン・ブラック。レギュラスは知らない。おそらく、ミョウジと本人以外は、誰も知らない。
 どういうことだとも問わないレギュラスに、ミョウジはすべて知っているのだろうと見当をつけたのか、それに、と言葉を繋げた。
「あなたみたいな優しい子は長生きするべきだと思うから。日の当たる場所で、まっとうに」
「とんだ皮肉ですね」
「そうじゃないよ。――私ね。純血主義も、嫌いではないの。でも帝王のようにマグルを殲滅するなんて思想は無謀だと思うし、実際実現不可能だとも思ってるからね」
「なにを馬鹿な」
「考えればわかるよ。近親交配を続けたらどうなるかなんて、マグルの遺伝学を知らなくたって判ることでしょう。事実、あなたの家系にもその未来像となる者がいたはずでは? しかもわりと最近」
「……」
「息子から聞いてるの。ブラック家の次男坊はとっても優秀で、いいやつだって。周りもそういう評判だったらしいじゃない。ならせっかく集めた好評はいい方に利用しなくちゃ」
 もったいない。とでも言う風に目を細めるミョウジは、席をたった。逃げるつもりか。レギュラスも反射的に立ち上がったが、ミョウジは出窓の前で止まると、その縁に置いてあった本をおもむろに手に取り、開いた手で鍵を解いて小さく窓を開いた。そして、月光に背いた。
「はい。これあげる」
「――」
「怪しいものではないよ。日記だよ。私の学生時代のね」
「学生、時代の」
「そう。あなたが知りたかったのってこれでしょ? 自分の父親が浮気してたかどうかってこと。ミセス・ブラックにでも頼まれたのかな。でなきゃ私に会った瞬間、躊躇いなく殺してたろうしね。違う?
 あ。ちなみに浮気なんて事実無根だからね。さっきも言ったけど、私告白してもいないしされてもないし、そうだったとしてもミセス・ブラックと婚約する前だったし、する前に友人関係も切ったから時効だよ、時効」
「……そうですか」
「少しまってね。実はこれ、ちゃんと完成してないんだよね。結局その後落ち込んでたのもあるし、家のゴタゴタもあって、最後まで書いてないの。だから最後に一行、書かせてね」
「なんと?」
「色々あって充実した人生でした――って。インク壺どこだったかな……確か戸棚のあたりに……」
 戸棚を漁り、ものの十数秒でインク壺、羽ペンを見つけ出したミョウジ。その姿に憂いも翳りもなく、これから殺される人間の様子とはとても思えない。マイペースだが、強引というほどでもなく、これが日常の会話であったならレギュラスにとっても心地よいテンポだろう。テーブルに戻り、さらさらと字を綴る羽ペンの先を見つめながら思う。容姿はどこにでもいそうな凡庸そのもので、多分成績は良かったのだろうが、家の事情もあって父と並ぶにはハンデがいくつもあったはずなのに。それは逆に父にもいえることであったはずなのに。それでも時がその間を裂くまで寄り添っていたのは、その心地よさのせいなのだろうか。視線は変えないまま、綴り終わった文字を見たまま、レギュラスは見たことのない父の姿を思った。
「――あなたから見て、父はどんなひとでしたか」
 ミョウジの顔は見えない。しかし、少し笑ったのはわかった。
「一言でいうなら変わり者、だったかな。ブラック家のくせに妙な思想抱えていたし、見た目のさわやかさに反してぼんやりしててマイペースだった。そのくせ物事は器用にこなすのよね。典型的な二番目っ子ってタイプね。箒に跨ったときは目をきらきらさせてたし、あんまり好きじゃない薬草学のときは眠そうな顔してた。――ここだけの話、一度堂々と船を漕いで先生に怒られていたこともあったよ」
くすくすとミョウジは笑う。あれは傑作だったと懐かしむ。レギュラスは、やはりそんなオリオン・ブラックなど知らない。
「きっと、あなたがシーカーに選ばれたって知ったときには、内心、踊ってたかもねぇ」
 カタ、と軽い音をたててミョウジは羽ペンをテーブルに直に置いた。
 そうして、レギュラスの顔を覗き込んでくる。
「ね。どうしてあなたのお父様のこと、知りたいと思ったの?」
「どうして」
「そう。どうして?」
 至極純粋な疑問を、ミョウジはレギュラスに問うた。答えは単純に、今まで見たことのなかった父の、今や陽炎と化した一部を垣間見たからだ。だから、一を知れば十を知りたくなった。まして、あのようなほとんど人間味の欠片もない父だからこそ。――そこまで言って、レギュラスははたと思う。それを知って、なにを得たかったのだろうかと。父の心は凍ってはいない、その事実を何に変えたかったのだろう。ただの疑問と疑念を解消するだけなら、きっとレギュラスはそのままにしていた。きっと父の知人であろうと、なんの躊躇いもなく任務を遂行していた。だが、疑問だけではないからレギュラスはこうして茶番に自ら付き合っている。人が行動するには欲求が核となるのだから、二つ以外にも欲求が、レギュラスの奥に本人も気づかないままに従った何かがあるのだ。それがなんだと、おそらくミョウジは言っている。レギュラスは黙考した。周囲に言わしめて出来のいい頭は、ややあってそれらしい答えは出すことができたが、口にはできない。――父を真正面から見ていたこの人なら、父がレギュラスをどう思って――。普段、滅多なことでは雑談もしなければ事務的な会話、態度しかとらない父の本音を、もう三十余年以上も会っていない人間に確かめたところで、意味はないというのに。父が病に臥してから以前は気に止めないようにしていたことが、ずっと心の中に沈殿している。
「…………」
 結局、レギュラスは口にするだけの勇気がなかった。ミョウジはやんわりと苦笑した。
「言えないならいいよ。ごめん。――そろそろ潮時かな」
 レギュラスはその言葉に、今まで下げていた杖を再び構えた。その杖先は少し震えている。怖いのか。死を与えることが。恐れているのか。もはや他人ではなく知人になった者を対象とすることを。躊躇っているのか。父の心の欠片を持つ人間を消すことを。――それとも、レギュラスも知らない奥深くで喜んでいる? もしそうだったとしたら。そうだったとしたら、どうだというのか。今もこれからも、命令をこなすためにはきっとそれが一番いい。苦しむより、快楽に変えてしまえば何も考えずに済む。遠い昔、傷だらけの子犬を拾って帰り、母親に汚いとにべもなくその場で処分されたときに感じたような痛みを覚えずに済む。ちっぽけな偽善によって消された命。もしあそこでレギュラスが助けなければ、誰かいい人に拾ってもらえたかもしれない。そうでなくともほんの少し、長生きできたのかもしれない。――何故。
(どうして今、そんなこと)
 あの子犬と、ナマエ・ミョウジとでは状況が違う。敵ではないが、要注意因子なのだ。あの方に仇なす可能性があるのなら芽は小さいうちに摘み取るべきだ。レギュラスは自身の偽善から動くのではない、これは使命。なせねばならぬことなのだ。そう、これの場合は意外な父の過去も知れた上に、都合よく相手が死んでくれるのだから喜んでしかるべきなのだ。そう考えたとき、レギュラスの震えは止まった。
 そのレギュラスの杖先をじっと見ていたらしいミョウジは、苦笑は崩さないままだった。だが。
「――うん。やっぱり、ダメだね」
 言うなりミョウジはスカートのポケットから、何かをするりと取り出した。それを見とめたレギュラスは、肌が泡立つのが分かる。
「――やはり、そういうつもりで――!」
 抜き出したのは、少し短めの黒い杖だった。レギュラスは持ち前の反射神経で例の呪文を口にしようとした。ア、と口を開いたところまでいったときだった。ミョウジは苦笑を笑顔に変え、違うよとほがらかに割り込んできた。
「アバダ・ケダブラ」
 音を紡いだのはレギュラスではなかった。どさり、糸の切れた人形のように崩れていくのも、レギュラスでは、なかった。レギュラスはその一連の様子を、ただ目をむいて見送ることしかできない。ついにすべてが床に伏すかと思われたとき、ミョウジの意思のなくなった腕が彼女の日記と、それから羽ペンとインク壺を巻き込んだ。とっさに、身体が動いて手に取ったのは古びた日記。ミョウジは鈍い音を立てて倒れこむ。テーブルにぶつかることはなかったが、落ちて割れたインク壺から流れる黒が、ミョウジの髪を、肌を、服を侵食していく。――なぜ、なぜ。なぜなのか。
「――いいや」
 レギュラスは乾いた笑いが漏れるのを止められなかった。ほんのり明かりがついた部屋、動かない人。レギュラス以外が静謐を守る中で響く声はどこかえづいているようにも聞こえる。恩返し、とミョウジは言っていた。それはレギュラスの感覚と異なるミョウジの感覚で覚悟したものだったと、ようやっと気付いた。気付いてしまった。知らなければ、きっとレギュラスはこの先何があっても己の昏い感情に忠誠を誓っていられただろうに。ナマエ・ミョウジは、そんなレギュラスの中に絶対的な例外を生む要因となるであろう。先程まで胸を焼き焦がしていた力の塊はすでに体内に溶け切っていた。自覚すると、笑いもだんだんと引いていく。レギュラスはまた新たに体内に塊を作り出す。しかし、焼き焦がすような熱はない。ミョウジを抱き起し、杖を振れば、彼女についた汚れ、床の染み、テーブルに流れる小さな黒い川が消える。もう一度振れば、砕けた硝子が消えた。
 穏やかに閉じられたままの瞼。緩く弧を描いた口。まだ温かい、そのうち冷えていく肌。見た目よりずっと重たく感じる身体。レギュラスはテーブルに置かれたカップを見た。ああ、そうか。ひとりごちて、すぐに納得する。彼女を愛した父。当初、いらぬものだと思っていた心は、愛した父の心を理解した。もう、どうにもならない。事実も。心も。二人の行く末も。自分の未来さえも。レギュラスは屈みながら腕に抱いていたひとを、そっと横抱きにして、寝室に運んでベッドに横たえた。これからレギュラスがすべきこと。それは――。
「“いつもの通り、一時間前に集合すること”だそうです」
それだけを伝えて、レギュラスはナマエから背を背けた。

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