ごった煮 | ナノ

約束を果たす日まで・1

 最近、クロが決まった時間帯によくいなくなる。悪魔と言えど体は猫なのだし、散歩だと思えばあまり違和感はない。雪男もそう言っていたし、最初は俺だってそう思って深くは考えなかったのだ。けれど。
『ああ、きょうもきれいなんだろうなあ』
 でれでれ。まさにそんな言葉が似合うクロが言う台詞であり、毎日耳にするものである。そしてさながら恋する少女のようにとろけた表情を浮かべるクロもまた、毎日目にするものだ(歴としたオスだが)。はじめは変なものでも喰ってきたかと首を傾げるだけだったが、それも二週間続くとなれば疑問的なものから怪訝なものにならざるを得まい。現に雪男も俺と同じような顔をしている。言葉はわからずとも、行動や表情を見れば察しはつくのだろう。互いに目を見合わせると同時に肩を竦める。タイミングはピッタリ。二卵性で外面と性格はあまり一致せずともこういうところはちゃんと双子らしい。そんなことを頭の隅で思っていると、クロが動き出した。空気の通りを良くするために開けたドアへと消えていくではないか。雪男の腕時計を見せてもらえば、もうその時間がやってきたのだとわかる。俺は、あるひとつの決心をした。
「雪男、行ってくるわ」
「そういうと思ったよ」
 まったく。と言う雪男だが、気になるから行ってこいという風だ。それにニッと口角を上げて、クロの後を追うべく部屋を出た。


 クロを追いかけてから数十分。ずっと走り続けたがそこは自分の性質上問題はなかった。がしかし、クロは猫である。屋根を走ってみたり、人が通れない細い建物と建物の隙間を縫ってみたり、時には人様の家のベランダやら庭やらを通過するものだから見失わないようにするのがとても大変であった。お陰でこちらは葉っぱがついていたり泥がついていたりでボロボロである。
(くそっ、クロのやつ覚えてろよ)
 なかばといわず八つ当たりの念を浮かべながらも辿り着いた先を下から上へ見上げてみる。まるで今の自分と同じようなボロボロさ加減の、何やら小さなお店であった。うお、と息をついていればクロはその店の中ではなく、サイドへと足を進めていくではないか。マジでか、と躊躇いを口にする。店の中でならば客として来たと誤魔化せるが、流石に居住スペースとなれば何と言えばよいのか。頭の悪い俺には到底思いつくはずもない。しかし、ここで諦めてはクロの乙女モードの謎が解けないばかりか、ボロボロになった自分が虚しいだけである。無駄足なだけだ。散々いらん体力を使ったのだから、それだけは避けたい。結局は息を吸い込んで腹を括るしかないのだ。ぱん、と軽く自分の頬を軽く叩いて、それから軽く手で泥やら葉っぱやらを払って、クロの後をつける。すると、少し開けた場所にでた。庭だろうか。一本だけぽつりと佇む、丁度俺の胸元ぐらいの高さの木の下に、クロはいた。一匹の、真っ白な猫と一緒に、その小さな木を見上げている。
『まったく、今日も来たのね。飽きないの?』
『あきないよ。ましろはきれいだし、このきのしたはすずしいし』
『……‥あっそう』
 クロの幼い少年のような声に、鈴みたいに透明な少女の声が返す。え、とその声に驚いてまじまじと真っ白な猫を視てみる。尻尾が、二つに割れていた。ケットシー、悪魔だ。クロと話しているあたり、害はないらしい。ほっとしながらも、ズカズカとクロに歩み寄った。りん! 音に気づいたクロと、真っ白な猫がこちらを振り向いた。
「お前、最近やったらでれでれしてると思えば……」
『にしゅうかんまえにさんぽしてたらぐうぜんこのいえについたの。で、ましろにあったんだ! へへっ。きれいでしょ、ましろ』
『あんたが誇らしげにすることじゃないでしょうが』
 バカ、と悪態を吐いて白くしなやかな尻尾をしならせ、クロの背を叩く。軽い行為に見えるがその効果音はバシン、である。にも関わらずクロはいたっ、と小さく漏らすだけででれでれした表情はまったく変わらない。こりゃ重症だ。思わず冷めた目を向けてしまうがいたし方あるまい。腰に手をついて、ついてくるんじゃなかったかと思う。いや、これはこれで雪男に報告しなくてはならないのだろうが。きっと雪男も俺と同じ反応をするに違いない。踵を反して帰ろうとすれば、ガラリとなにやら窓が開けられたような音がして反射的に体がすくんでしまった。
「キミ、今日も来てたんだ……あれ?」
「こ、こんちは。お邪魔してます」
「こ、こんにちは。えっと……」
「奥村燐。そいつ、クロのしゅーーじゃねえや、飼い主だ」
「あ、そうだったんですか。はじめまして。私はナマエといいます。あのボロボロのお店の店主兼このマシロの主人をしてます。大丈夫ですよ、私も悪魔を知ってますから」
 現れたのは、特に目立つところのない、見る限り俺よりは年上の少女であった。ほわんとした雰囲気はしえみの、というよりも朴のそれに近いものだ。てっきり不法侵入者である俺を咎める声が飛んでくると思っていたから、こんにちはと言われたのはかなり予想外である。お互い猫又(ケット・シー)の主人やってるなんて奇遇ですね。そうほんわりとした笑みを浮かべながら駆け寄ってきたマシロを抱き上げるナマエに、ひっそりと安堵のため息をついた。一方でマシロはさっきまでのツンケンとした態度はどこへやら、喜びを全身で表すようにナマエの頬に己の頬を擦り寄せていて、白い二又の尻尾をゆらゆらさせていた。それに応えるようにマシロを撫でるナマエの手。一目見ただけで窺える信頼関係。一瞬自分とクロがそういう風に寄り添うところを想像したが、自分が果てしなく気色悪いかったのでないないと頭から追い出した。
「ところで奥村さんはどうしてここへ?」
 きょとん、と不思議そうにナマエは首を傾げる。質問はごもっともであると思った。今まで現れなかったヤツがいきなり現れたのだから。それには最近のクロの動向がおかしかったのでその様子見だと答えた。するとナマエは納得したのかうっすらと苦笑する。すっかりベタボレみたいですものね。くすくすと声を上げるナマエ。俺もいまだマシロに熱い視線を送るクロを見て息を吐いた。どことなくしえみが雪男に送るそれと被っている。ナマエもそんなクロを見てハートですねえ、なんてのんびりと言うあたり、自分の考えは間違ってはいないようだ。ふ、とナマエに抱かれるマシロに視線を流せば、ふいっとそっぽを向く彼女。幻想だろうか。その頬が赤くなっているような気がする。
「マシロも素直になればいいのにね」
 ちょっと意地悪く微笑んで見せたナマエ。やはり気づいていたらしい。マシロはそんな彼女にうるさいと怒鳴る。一方、クロはまったくそれに気づく様子もなく依然目をハートにしたままだ。うーん。これはなかなか前途多難……まあ、二匹の様子からするに、結果は決して暗いものではないとは思うけれども。俺もマシロにやんわりと苦笑する。それにしても、やっと疑問が晴れてスッキリした。さて。疑問と謎も解けたことだし、長居するのも悪いだろう。そう思って、「じゃあ」と切り出そうした。――のだが。
『なー、あれちょうだい!』
 明るい、何かを期待するようなクロの声に遮られ、言いたいことは喉の奥に引っ込んでしまった。ナマエもそれに、はいはいだなんて返すものだから完全にタイミングを逃してしまった。加えて、せっかくですし奥村さんも上がっていきませんか、なんて言われてしまえば断るワケにもいかず。こちらですと促されるままに再び店の正面へと向かう。辿り着けば、
「まるで廃虚みたいでしょう?」
 自分の店だというのに、まるで他人事のようにナマエが茶目っ気たっぷりに言う。
「いや、なんつーか、……その」
 なんか出そう。少しだけ遠慮を含めた言葉を、同じく少しだけ躊躇いを含めた声音で紡ぐ。すると、なまえはきょとりと目を軽く開いたものだから、ああ、言葉を間違ったな、と思うのに大した時間はかからなかった。けれど予想外になまえはですよねーとへらっと笑っただけだった。よかった。そうしてなまえがガラガラと戸を引けば、そこは別世界であった。いや、別世界は言い過ぎかもしれない。しかし、確かに戸の内と外では流れる空気が、漂う雰囲気が、ふわりと鼻をくすぐるニオイが違うのだ。何年と傷んだような木材の棚、何も敷かれていない、コンクリートが剥き出しの床、時代を感じさせるレジが奥にはあって、そして右端にはアイスストッカーがある。棚には何もないが、アイスストッカーには見たことのないパッケージのゴリゴリ君が少しだけ入っていた。使われた形跡はないものの、手入れや掃除はしているのか古い材質のわりに綺麗ではある。そんな中で後者二つだけが、何もない空間のなかで妙な存在感を放っていて、感嘆なんだかわからない声を上げてしまう。そう、一言で言い表すならば――。
「昭和……っつうか、レトロっつうか」
「あはは。ビックリしました? おばあちゃんが駄菓子屋を営んでいたんですよ。私はその跡継ぎなんです」
「跡継ぎ? 商品アイス以外ねーじゃん」
「アイス以外は賞味期限きれちゃったんです。だから、アイスが売れたら店も閉めようかと」
「? 他の商品は仕入れないのか?」
 単に、思ったことを訊ねたまでだった。それに返ってきたのは少しさびしそうなナマエの笑顔と声音だった。
「……………。このとおり、全然お客が来ないものですから、仕入れるお金もないんです」
「そっか」
 地雷を踏んでしまったか、と焦りが浮かんだが、反してナマエはさびしそうな笑顔からふんわりとした笑顔になる。俺は、そう言う他に言葉が見つからなかった。曖昧な笑顔を浮かべる俺に、ナマエは思い出したような、何か閃いた表情をした。
「………あ、そうだ、ちょっと待っててくださいね」
 そう言うなり、ナマエはいつの間にか地に降りたマシロを伴って暖簾に遮られた店の奥へと消えていく。それからクロと黙ってナマエを待つこと数分。戻ってきたナマエが手にしていたのは、一升瓶と皿二枚。それを見るなり、クロはナマエへと駆けよっていく。そしてちょうだい! と尻尾を慌ただしく揺らした。見ればマシロも尻尾でナマエの足をはたいていた。
「なんだソレ?」
「マタタビ酒ですよ」
「え」
『ナマエ、はやくちょーだい!』
「はいはい。あげますから急かさないでくださいな」
 床から30cmくらいの高さがある、レジの置かれたお客立ち入り禁止スペースに皿を置き、ナマエはトクトクと酒を注いでいく。俺は以前苦い思いをしたことがあるので渋い顔で流れていく液体をただだ見つめるだけだった。そして二枚とも七分目程まで注ぐと瓶に蓋をする。それがオーケーサインだったらしい。クロもマシロもかぶりつくような勢いで皿に顔を突っ込んだ。その様に、少し顔がひきつる。何せ、あの大人な雰囲気のマシロが目を爛々と輝かせて飛び付いたのだ。マタタビ酒恐るべし。あらゆる意味で苦い思い出しかない自分には理解できない。そう二匹を見ていると、右頬に冷たい感触。
「うおっ!? な、なんだ!?」
 俺は文字通り飛び上がって情けない声を上げた。誰だよ、と思って右を向けばゴリゴリ君を片手にくすくす笑うナマエの姿。冷たい感触の正体はゴリゴリ君のようだ。なにすんだ、と怒鳴りたくなったが相手は女の子である。出かかった言葉を飲み込んだ。それに、ふにゃりとした笑顔で「ごめんなさい」だ。
「まさかここまでビックリされるだなんて思わなくて」
「いや、いいけどよ……」
「本当にごめんなさいね。これ、どうぞ」
「え、俺今財布ないんだけど」
 慌ててクロを追ってきたから財布は当然部屋に置いたままである。首を傾げればナマエは差し上げます、と俺の手を取って、ゴリゴリ君を握らせる。まさかの申し出に、俺はさっきまでとは一変、口許が上がるのを感じた。体力に自信があるとはいえ、ずっと走り続ければ喉は渇くし身体も火照るのは普通のことだ。良いと言っているのだから断るのもアレだし、サンキュ! とだけ述べて袋を開ける。そこでせっかくだから、と促されたので、お客立ち入り禁止スペースに腰をおろし、涼しげな色のそれを口に入れた。常人より鋭い犬歯(いや、牙か)で砕けば、脳に独特の感覚が走る。
「く〜〜…………っ!」
「おいしいですか?」
「おう! まじであんがとな!」
「どういたしまして」
 出会い頭のようにナマエはやわらかく微笑んだ。それに俺も笑顔を返す。そんな俺にナマエはいっそう笑みを深めると、俺の隣に腰かけた。しゃくり。二口目を含む。やはり数あるアイスの中でもゴリゴリ君は最高だ。ダッツより最高だ。そうはしゃげば、ナマエも同意してくれた。ですよね、なんて目を輝かせてくれたのである。その時、ふ、と頭にある言葉が浮んだ。
 たのしい、またここに来たい。
 それを言うには何だかくすぐったく、照れくさく、恥ずかしく。どうして初対面の相手にこんな言葉が出てくるのだろうか。初対面だからこそ、出てくるものなのかもしれないが、それにしてもこんな風に思うのは初めてだ。やわらいあの笑顔に安堵したのか、悪魔という共通認識があるからなのか、要因は解らない。しゃくり、しゃくり。三口目、四口目を口にふくんで、ごくり。それを嚥下する。
「なあ、あの、さ」
「はい?」
「また、その……ここに来ても、いいか?」
 きょとり。本日二度目のナマエの不思議そうな顔を見た。ああ、やっぱり失敗だったか。顔を俯ける。そうすると、ややあったあとにぽすりと頭に何かが乗った。そして撫でられる。何かがナマエの手であることは、直ぐに予想がついた。顔を上げれば目に入る、ナマエの顔。それに、胸が穏やかに、けれど確かに深く脈を打つ。
「もちろん。いつでも好きな時にいらしてくださいね」
「……お、おう!」
 しえみに感じるものとは違う何か。それに心が満たされていく感じがした。しえみは胸が激しく脈を打って熱くなるみたいなのに対し、ナマエはどこまでも対照的なのだ。なんと言えばいいのか、ほんわり、じわじわ――とにかく、染み込むような感覚に近い。しえみに対するのは、所謂れんあいかんじょうなるものだと解るし、自覚済みなだけにナマエに抱いているものが曖昧にしか形をつくれなかった。
 けれど。俺は知っている。
「ここで、アイスを用意してお待ちしていますから」
 そう言って、もう一度俺の頭に乗せた手を動かしたナマエのその手のあたたかさを、俺は知っている。まだまだ小さくて、本当にガキで、本当にバカで何も知らなかった頃。誰かに傷つけられて、誰かを傷つけていた俺を慰めるように撫でてくれた神父さんのてのひらのあたたかさと、酷似していたから。
「マジでか! やりィ!」
 頭にちらつく神父さんの影。ナマエの言葉に現金ながら笑む。それにナマエも更に笑みを深くしてくれるものだから、何だか気恥ずかしくやってゴリゴリ君を食べることに集中した。結果、ゴリゴリ君はすぐになくなってしまったけれど、ナマエが見計らったように話を振ってきて、それに答えては俺からも話を振ったりした。そんなこんなで盛り上がり、気づけば日は傾いていたから二人で驚いて。マズイ、雪男に怒られちまう。というのをその時に思いついたところでもうタイムオーバーだ。俺たちとは別に盛り上がっていたクロ(クロが一方的に)を抱き上げて、出口まで歩く。クロが不満そうに鳴いた。
『りん、まだいたい』
「バカ言え。雪男に説教されるのは俺なんだ。これ以上はムリだ。――んじゃ、お邪魔しました」
「はい。ここ、街灯があまりないので結構早めに暗くなりますから、気をつけてくださいね」
「ああ、わかった。じゃあ、またな」
「また、ね。奥村さん」
 片手を上げればナマエは手を振り替えしてくれる。そんな風に見送られながら店を出た。そして二歩三歩歩いたところで、ふ、と頭をよぎったことがあって、俺は踵を反して店に戻る。店にはまさか戻ってくるとは思わなかったのか「奥村さん?」と首を傾げるナマエがいた。よかった。まだ奥には行っていない。それに若干の安堵を覚えながら、俺はよぎったことを口にした。
「あのさ、俺あんまりさん付けされんの好きじゃねーんだ。あと同年代のやつに敬語使われんのも好きじゃねえ」
 最後辺りは少し尻すぼみになりながらも言えば、首を傾げたままに「何とお呼び……じゃあないよね。なんて呼べばいいの?」とさっそく敬語を崩してくれた。だから、俺は遠慮なく続きを述べる。
「名前でいい。燐って呼んでくれよな!」
 思えばこれが他人で名前呼びしてくれる人が三人になったなあ。とかぼんやり考えながら、ナマエの返答を待つこと数秒後。ナマエははじめきょとりとしていたが、頭を元々の位置に戻すと、破顔した。
「うん……うん。わかったよ、燐!」
「おう! ありがとな!」
 よかったよかった。と俺も破顔すれば、何やらクロに尻尾でビシビシ腕を叩かれた。なんだ、とクロに視線を落とせばクロは短く“ゆきお”とだけ呟いたので、それにサァーッと顔の血がひいていく。
「や、やっべ! そんじゃ今度こそ行くわ。じゃな! ナマエ!」
「うん。またね、燐!」
『またね、ましろ!』
『ふん』
『がーん』
 クロのフラれ様に憐れみを覚えつつ、店から駆け出す。ナマエは外には出てこなかったけれど、それでもさっきのナマエの笑顔が浮かび上がってきて、自然と寮に向かう足が速まった。途中クロに道案内をさせつつ寮に戻れば雪男が部屋の中で仁王立ちしていたから、やっぱりかと口許がひきつった。雪男に言われるままに正座する。お前は母親かと思いつつ遅くなった経緯とクロのことについて報告すれば、呆れられたのは言うまでもない。

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