ごった煮 | ナノ

9と4分の3番線

 何かに促されるように目を開いたとき、オリオンは随分と懐かしい心地がした。
 見えるのは真っ白いプラットホームだが、その姿形はよく知っているものと似ていたからだろう。知らないはずなのに、似ているが故に懐旧の情にかられてしまうこの不思議な場所。
 何気なく自身の姿を見下ろしてみる。
 まずは手。病で随分と皺がれていたはずのものは健康的な白さで、触ってみればハリがあり、一回りほど小さくなっている。
 それから脚。体力を失いピンと立つことが出来なくなっていたというのに、真っ直ぐ地面を踏みしめ、そして磨かれた革靴を履いている。スラックスもここ数十年で誰かが履いている姿でしか目にしていないものだ。
 やはり、足も手と同様一回りほど小さくなっている。
 そして胸元。緑と銀に彩られたネクタイに、狡猾の象徴である蛇の紋章。真っ黒なローブ。
 ああ、懐かしい。
 オリオンはそろりとその紋章に触れ、この真っ白なプラットホームがどのような場所かとつと理解した。
 “オリオン・ブラック”にとっての始まりと終わりがあの赤い列車とそのホームならば、すべての終着点もまたそうなのだと。








 
 遡りホグワーツ入学の年。出発前の急行にて。
 オリオンは一人コンパートメントで行儀悪くも窓枠に頬杖をついて外を眺めていた。
 ここに来る前自身の婚約者に共にいるよう命が下されていたのだがオリオンはこうして放棄していた。
 オリオンの婚約者は四つも年上で、なおかつかなりの神経質でありそしてお節介。対してオリオンはマイペースで他人に自分の領域に侵入されることを嫌う。そりが合わないと言っていいだろう。
 とはいっても別段婚約者のことを嫌っているわけではない。“純血の家の者としては”彼女が婚約者であることは幸運だとも思っている。
 誰よりも厳しい教育を受け、政略結婚で学生時代に父母となった両親の経緯による周囲の大人の愚視を気丈に撥ね除けながらも、純血の誇りを背負う姿は尊敬すべきものでオリオンは敬愛してもいるのだ。
 だがしかし、この婚約は彼女の両親や自身の両親と同じく感情は一切伴わないものだ。彼女の負の面をも敬愛と同士であるというだけでごまかせるほど、オリオンは大人ではなかった。まだ十一歳なのだ。当然である。
 彼女と一緒にいれば純血純血純血穢れた血、純血純血純血……そのテの話題ばかり。同じく純血主義であるオリオンでも呆れるくらい、婚約者の頭はそれで埋まっていた。
 オリオンといても自身のことを話さないし、オリオンのことを聞こうともしない。
 関心がないのかと会ったばかりの頃は純血主義に嫉妬すらしていたが、今はもう、こうして避けるようになっていた。
 本当は姉の所に逃げ込めればよかったのだが姉は監督生であり、同席できない。姉弟として誇るべきことなのに、このときばかりは恨めしく思う。
 姉も婚約者とあまり仲が良いとは言えないのだ。姉は明るくはあるがオリオンと同様マイペースな人間である。
 そんな姉のもとに行くと言えば丁度よい言い訳になったのだが。結局それもできず、他の人間と大分前から約束しているからと苦しいことを言って逃れてきたのだ。
 絶対に、学校に着き寮に入った後に尋問されるだろう。憂鬱だ。自業自得なのは自覚がある。
 そうしてオリオンが深く溜息したときだった。
 コンコン、と軽い音がしたのは。
「すみません。他に空きがないので、同席してもよろしいでしょうか?」
 オリオンは次いで聞こえた声に思考を遮断して、その方を見た。
「色々探し回ったのですが、どこも満席というか……ダメでしたらかまいません」
 薄茶色の金髪、緑の目、そばかすのある白い肌をした、容貌平凡な少女が少し扉を開けてオリオンを見ていたのだ。纏うローブやネクタイはオリオンと同じく黒一色で、新入生であることが窺える。
 さて。どうするべきか。オリオンはすぐには返事を返さなかった。
 ここに婚約者がいたならまず名のらせ、純血であるか確認しそうであれば招き入れ、でなければ言葉巧みに追い払うだろう。
 その姿を思い浮かべた。動作や声までもを鮮明に想像できてしまったのは、そういう面しか見たことがないからだ。
 オリオンは少し逡巡したのち、どうぞと少女を招くことにした。たとえマグルであろうと相手は女性である、と。
 よくやたらに表だってマグルを批判する者がいるが、あまりオリオンは好まない。批判するより、圧倒的な力の差を見せつけたほうがより効果的というものだ。大した力も持たず純血の名に寄生し努力を怠る愚か者は、悲しいことに多くいるから腹がたつ。
 現実数が少なくなってしまった純血者の多くがこれでは、純血はさらに廃れるだけである。
 オリオンが小難しいことを考える一方で、少女はありがとうございます、と安堵したように表情から緊張の色をひかせた。そうしてそろそろと入ってくる。
少女が席に着くのと同時に、列車はガタン! と大きく揺れた。








 出会いから月日が流れ、オリオンはその少女、ナマエ・ミョウジとは友人になった。
 熱心な純血崇拝者でもなければかといってマグル贔屓というわけでもないし、名家でもないが純血であって“オリオンの思想”に賛同してくれたのがきっかけだろう。
 性格もサッパリしていて穏やか、少々おちょくってくることもあるが、まあ愛嬌と呼べるレベルで、成績もそこそこ優秀、クディッチはチェイサーとして出場、オリオンにとってはかつてないほど相性の良い友人だった。
 ただ残念なのが同じ寮ではなく、ナマエがレイブンクローであったこと。
 だがスリザリンとグリフィンドールというわけじゃあるまいし、と言わんばかりのナマエの態度に、オリオンも次第に気にしなくなっていった。
 テストがくればともに勉強してみたり、ヴァルブルガとうまくいかないと相談してみたり、休日には必要の部屋でチェスに興じてナマエを惨敗させまくったり、たまに夜に一緒に寮を抜け出して箒で競争してみたりと、色々やった。
 オリオンにしてみれば大貴族、ナマエからしてみれば女らしからぬことも多々やった。いくつか例外はあれどナマエと過ごす時間は楽しいものだったのだ。
 それらはオリオンにとって、砂漠を進むのに疲れて立ち寄るオアシスのような存在だったのである。
 周りに何か言わせまいと気を張っていたナマエのおかげで、長いことそのオアシスは枯れることなく存在し続けていた。
 オリオンもその当時らしくもなく続くであろうと思い込もうとしていたし、むしろナマエには悟らせない裏で渇望してすらいた。
 だが、ナマエがブラック家と同じものを謳っていない以上、路が分かたれることは明明白白だった。天災地変によって徐々に枯れていく水脈に水が再び戻る未来を期待するのは、あまりに無謀で可能性のない話。永劫に不変など、ありえない。ナマエと関係を結んだときから分かっていたこと。だからこそオリオンは渇望もしたし夢も見た。
 そうして刻々と変わっていく周囲と変わらなければならなかった己自身に、憩の場所はどんどん姿を縮めて、気付いた頃には乾いた白い砂が広がるばかりだった。
 限界を感じた六年生を迎えるその年、オリオンはナマエと出逢った九と四分の三番線で、その跡を捨て去る決意をして夢の残滓を持ったナマエを手放したのだ。
「ごきげんよう。ミス・ミョウジ」
「――ごきげんよう。ミスター・ブラック」
 ナマエは何もなかったというように、オリオンが見たことがないくらい“綺麗に”笑っていた。
 







「……ああ、本当に」
 回視に耽っていたオリオンの耳に感心したようで、悲傷したようでもある声が背後からかかる。
 その声はここに来る少し前から聞いていないもので、振り返って見えた顔も同じくらい見ていないものだった。
 そこでオリオンは自分の理解は正しかったと確信した。同時に己に良く似つつも、身長はより高く表情も冷淡ではない、口元に笑みを刷き佇む青年の姿に失望もした。
 ここにいるということは、彼もまたオリオンと同じ存在であるということなのだから。
 ここに来る前、知らされた事実にオリオンは外面で冷静にしてはいたが、その内は決して穏やかと言えるものではなかった。面に出さなかったのはひとえに妻のおかげである。
 あの子がそんな馬鹿なこと、誤報だろう、ああ、ああ、あの子は今いったいどこで何をしている!
 オリオンが思っていたことすべてを妻が金切り声で叫んだおかげで、オリオンは言わずにすんだ。己以上に取り乱した人間がいるとかえって冷静になれるものかと実感した。
 そのとき妻はまったく心当たりがないと言っていたが、オリオンには思い当たる節が一つあった。根は優しいが責任感は人一倍ある青年が世間では愚行とされる行為を行ったことに。また、おそらくその事実はどこかで捻じ曲げられたものであろうと推測もしていた。
 青年はおずおずと窺うような顔をする。
「クリーチャーは、その――」
「……。今頃ヴァルブルガの相手と世話で忙しくしているだろう」
「――そう、ですか」
「ああ」
 ほっとしたように息を吐く青年にオリオンはやはりと思うも口にはしなかった。
 青年はこちらに来る前に何も言わなかった。何も訴えなかった。
 それが答えで、すべてなのだ。
 だからこの場所に来てしまったオリオンにそれを問う権利はなく、逆に青年に明かさなければならないという義務もない。
 オリオンは辺りを軽く見回して見つけたベンチに移動し、腰かけ、足を組む。そして青年に隣に座るように促す。
 青年は目に見えて戸惑った様子をみせた。
 それもそうだろうなと、オリオンは青年の様子に納得する。
 オリオンがこの青年の前にいたり背後にいたことはあれども、隣にいたことはない。この青年の隣にいたのは長いことあの年老いた屋敷しもべだけであろう。
 しかしそれでもオリオンが座れと言えば青年はその指示に従うのだ。
 オリオンにとっても青年が生まれた時以来の距離の近さである。居心地が悪いのはお互いに、だ。
「何故判った? いくらお前と私が似ていてもこの姿では誰とでもとれるだろう」
 オリオンはここまでの話を切ることにして、青年に再会したときから抱いていた疑問を口にした。
 そう、オリオンはここに来る前の姿ではない。学生時代の、少年が知るはずもない時代の容姿なのだから。
 オリオンは己の過去の写真など青年に見せた記憶はないし、妻がそうしたとも考えにくい。
 妻はオリオンを愛してはいたが、それは愛であるのと同時に家への敬意と血への誇り、妻自身へのプレッシャーを含んだ、一般的な夫婦愛とは程遠いもの。それはオリオンにも言えることだが、つまり、学生時代の写真をアルバムに保管して懐かしんだり、それを青年に語るようなことはしえないのだ。
 ――とするならば。
 オリオンは可能性の一つに覚えがあった。レギュラスは“あれ”を見つけたのやもしれない。
 ずっと捨てられずにいた“あれ”。結局ここに来るまでに処分できず妻には見つけられない場所に置いたままの物。
 “あれ”には学生時代のオリオンの姿が映っている。そして――。
 オリオンは疑念を口にはしなかったが青年は疑問の意味するところをすぐに察したようで、オリオンを見はせずにある人から教えてもらったと言った。
「ここでは自分が最も幸福だと思っていた頃の姿になれるんだそうです。そしてそれを教えてくれた方は、僕にそっくりな人を知っている、とも。僕を見て、すごく驚かれていました」
 くすくすと青年が笑う。
 しかし声だけで顔はあまり『楽』を示しているようには見えなかった。
 幼少から表情の乏しかったオリオンとは違い、感情の起伏が激しい妻の血も引く青年はかつては表情豊かであった。
 青年の不完全な笑顔を見ながら記憶を探る。
 いったい、その豊かであったはずの表情はいつから失われていったのだったか。オリオンは、覚えていない。
 関心がまったく無かったわけではない。だが、人並みにはなかった。見えるものだけ受け入れて、それ以上を見ようとしなかったのだ。血や家、仕事にかまけて。
 青年は声は出さなくなっていたがまだ口元は弧を描いている。
 その様相には既視感があった。いつぞや、誰かの瞳越しに見た己にそっくりだ。
 ――ああ。まったく。
 オリオンは心中でそう自分自身に吐き捨てた。
 勉学その他の教養支配、血と家、そのプライド。それらすべてを背負わせるのは当然だった。何故ならその代償に見合ったものを得られるのだから。
 しかし結局、ここに到るまでに青年の体には幾つもの糸が巻かれるだけ巻かれただけだった。地位も富も名声も、巻かれた糸の代償として得られるものを何一つ得ず、傷だけをその心に刻んで。
 とうとう、ここに来ることでしか、青年にその糸を解く術は与えられなかった。
「――……もし、一番初めにあの列車に乗る前、私やヴァルブルガがああ言わなければ、お前はどうしていた」
 すべては血のため家のため。わかっているか。
 当時十一歳だった青年にはめた首輪と足枷と巻きつけた糸。もう一人は見事躱して投げ捨てたもの。
 オリオンの問いに青年は少しの間目を丸くする。
 青年が答えようと口を開いたそのとき、突如汽笛が響いた。
 がたんごとんとスピードを落としながら、それはやってくる。
 そうしてゆっくりと止まり、オリオンと青年の前に二人を迎い入れるように“扉”を開いた。
 青年は立ち上がり、優雅な足取りでその“扉”の前で足を止めた。
「何も変わらなかったと思います。父上。……僕が僕であるかぎりは、きっと」
 青年は真っ白な列車に乗り込んだ。
 もう一度汽笛が鳴り響き、“扉”が閉まる。
 その瞬間に見えたのは、随分昔に箒で空を飛べたと笑って報告してきた幼い少年の姿だった。
 オリオンは一度も振り返らず消えた背中を見つめて、ここに来てはじめて表情を変化させた。哀傷と、それに加えておそらくは後悔だった。
 ぼんやりと視線を前に向けたままのオリオンの視界の端に、黒い布が過る。
 その残り香もまた、記憶の奥にあった懐かしいものだった。
 清潔な石鹸の香りと、本人の体臭が少し混じった――。
 ふん、と鼻を鳴らし、姿勢よく座っていた体勢を崩してずるずると浅く座る。
 隣にやって来た者は、それに「あらま、不良」などとおどけた。
 オリオンは足を組みかえる。
 同時に列車が少年を――息子を乗せて、ホームを去っていく。
「……レギュラスは、いったい誰に似たんだろうな」
「そりゃあ、あなたであったり、彼女であったり、彼のお兄さんだろうね。みんなが捨てていったものを、あの子は拾っていっただけだよ。みんなだった一部をね」
「そうか」
「そうだよ。ほんと、しょうのないひとだね。あんなに思ってくれて。何にも言わない子がいて。何にも言わないなんて、どれだけ優しいのか。何も言わないあなたは、どれだけいじっぱりなのか」
「言葉もないな。――それで?」
「なに」
「何故ここにいる。君がここに来たのは随分と前ではないのか。まさかレギュラスの顔と私の顔とを見比べるためにいるわけではないだろう」
 オリオンが左を向けば先程までレギュラスが座っていた所に別の人間が座っていた。
 薄茶色の金髪、緑の目、そばかすのある白い肌。どこにでもいる容貌。ローブの裏地は青色。
 最後に見たときよりも幾らか幼い姿の懐かしい少女が。遠い昔に捨て去ったはずの羨望が、そこにあった。
 オリオンはこの少女の最期がどんなであったか人伝にも知らない。ただ周りの噂で、とある日、いなくなったことだけを知らされた。
 自分よりは長生きしそうだと思っていた。今こうして直に会ってみれば自分も息絶えた者となったことでそのとき感じた感情――喪失感ははっきりと像を結ぶ。
 問いかけに、少女はいたずらっ子のように笑った。
「そうだって言ったら?」
「――ミョウジ」
「ふふふっ。冗談だって。――さてね。単に最後に元・親友の顔を拝みたかっただけかも?」
「質問に疑問で返すな」
「えぇっ」
「えぇっ、じゃない」
 真面目に答えろ。オリオンが詰めると、ミョウジは無言になった。それから指先を遊ばせている。これは何か考えているときのミョウジの癖だ。
 何度目かの瞬きののち、ぽつりとミョウジは口を開いた。
「本当にね、なんでここに“戻ってこれた”のかはわからないの。私は確かにレギュラス君が乗った列車に同じように乗り込んで“向こう”に行ったはずだった。でも、たぶん、レギュラス君がこっちに来るときに戻ってきたの。ほんとう、なんでだろうね」
「……」
「ちょっとね、レギュラス君ともお話ししたんだ。いやぁほんと、仕草とか顔とか言葉の端々は両親に似てるなと思ったんだけど、素直さはいったい誰に似たんだろうね? どっちも素直とは真逆なのに。お兄さん? 名前名乗ったら、父のクディッチ仲間ですかって直球で訊かれたんだけど。なに。あの作戦やら何やらで走り書きばっかりの本、まだとってたの? すっごくびっくりしたよ」
「捨て忘れて存在すら忘れていただけだ」
「――へえ。よく言うねえ。こっちはちょっと嬉しくなったのに……まあいいや。でね最後にレギュラス君、何て言ったと思う?」
「クディッチバカか?」
「ひっどい。なにそれひっどい。人のこと言えないでしょうに」
「はっ」
「うわ。レギュラス君はよく育ったもんだわね。…………よかったら父が来るまで待っていてもらえますかって言われたの。ほんといい子だよね」
 しみじみと言う様はまるでミョウジがレギュラスの親であるかのようだった。
 こういう父親であったなら、レギュラスは幸せであっただろうか。シリウスは家に留まっていただろうか。考えても栓無きことだ。
 ここに来る前ならオリオンは自分含め妻がしてきたことはすべて正しいと言えたはずなのに、ミョウジを目の前にしてはどうも歯切れが悪い。おそらく、ミョウジとともに過ごしていたあの頃は、少なからずレギュラスやシリウスに共通した感情を持ち合わせていたからだろう。それらもオリオンはミョウジと決別するときに不要だとして置き去りにした。
 ミョウジはそれを拾い上げてとっておいてくれたのだろうか。だから先にいってしまったはずなのにこうして足を止めて、振り返ってくれているのだろうか。
 そしてやはりレギュラスは“あれ”を見つけていたらしい。
 明け渡した書斎の中で“処分し忘れた”あの本と、その本に挟んであった写真を見て何を感じただろう。
 あれだけは捨てよう思ってもいつも後回しにしてしまっていた。
 感情はすっぱり切り捨てたはずなのに、箒片手に汗まみれで笑っている在りし日の自分とミョウジを見ていたらどうしても。
 レギュラスはそれを悟ったのだろうか。
 ミョウジとの決別を決めた当時のオリオンはミョウジに悟られる前に感情を伏せ、あるいは消した。
 だが、諦めると決めたなかで一つだけ許したものがある。
 “不可侵で絶対安寧の領域” ――その存在だった。
 クディッチ談義で盛り上がって、ミョウジに勝ち目のないチェスをやらせて、愚痴りあって、たまに空で競争した、とても子供じみた記憶。誰にも侵せない、オリオンの内にしまえるもの。
 それだけ残して、あとは無に帰した。それだけが、他を捨てても欲しいものだった。
 そんな思い出を共有し、オリオンの自性を知るミョウジは言うなれば“オリオン・ブラック”を証明できる唯一の存在。
 あの写真はその証明の一部であり、だからこそ捨てられなかったのかもしれない。“あちら”ではもうどこにもいない存在であったからこそ。
 だんまりを続けていたオリオンの反応に何も言わないと察したのか、ミョウジは沈黙を破るように前屈みになって自分の膝に頬杖をついた。
「……色々、あったね。お互い」
「そうだな」
「ふふふ。その背格好でその口調、似合わない」
「仕方ないだろう。五十を超えているのに今さら十代の頃の口調なぞできるか」
「あら、なんだかアブラクサス・マルフォイのようだわ」
「……あいつほど威張り散らしてなんかいない」
「威光は容赦なく浴びせてたらしいね。夫婦揃って」
「……、……」
 何を言ってもおちょくって返してくるミョウジにこめかみの辺りがぴくりと動いたのが分かる。
 だがそれすらも幾久しい感覚だった。
 元々ミョウジと決別してからは鉄仮面だのと形容され、それが崩れたのはシリウスがグリフィンドールに選ばれて帰ってきたときと、レギュラスの死亡を知ったときくらいだろう。
 だというのにミョウジの前ではいとも簡単に表れる。
 見える景色を遮断し記憶にある色を瞼の裏に撒けば、それだけで過去の日々を再現できそうだった。
 にやりと笑っているだろうミョウジを見るのが癪でオリオンは息を吐いて目を閉じる。
 ミョウジもそんなオリオンの姿を見たのか深く息を吐く音が聞こえる。
 いつかの日も、こうして何もせず木陰で目を閉じていた。あのときは確か珍しく晴天、日差しが程よい暖かさの日でついうとうとしていたような気がする。
 ここにはそんな日差しはないが、眩しすぎない、どこか懐古させる光に満ちているから丁度良い。
 しかし寝ていて列車が来るものだろうか。はたと思う。
 色のあったかの九と四分の三番線なら時間が来るのを待てばいいだけだが、ここは“境目の場所”だ。都合が違うだろう。オリオンは思案して口火を切った。
「列車はいつ来る」
「……明確な答えは知らない。でもこういうのって本人が納得したりだとか、覚悟できたときっていうのが定石だよね」
「ならもうそろそろか」
「たぶんね……。ああ、噂をすれば影。来るよ」
 突然の汽笛が空を裂いた。――列車が、来たのだ。
 つられるようにオリオンが目を開けると、本当に懐かしい色合いが辺りを埋め尽くしていた。
 年季のはいったレンガで作られたホームは先程までの真っ白い大理石のような光沢はない。が、やはりこれが一番目にも心にも馴染む。
 どういう仕掛けだとか魔法だとか気にはなるものの、だんだんと近づいてくる音にこれでいいのだという充足感に満ちていく。
 見回してみるが周りに人はいないようだった。
 オリオンは人でごった返した風景しか知らないため、閑散としたこの空気には寂寥が積もる。
 だが、ほっとしてもいる。大貴族の長男として常に人の視線に晒されてきたのだ。最後くらい、人の視線など気にせず気を抜きたい。
 オリオンは席をたって進む。
 その後、列車が蒸気を吹上げ、オリオン達の前に“扉”を置くように止まった。
 ミョウジはまだ動かずにいる。このままオリオンを見送るつもりなのだろうか。であるならミョウジはレギュラスの言ったこと(オリオンの勝手な解釈だが)をきちんと理解していない。
 “オリオン・ブラック”は振り返って、ミョウジを見やった。
「……行くぞ。ナマエ」
「! ――……はいはい」
 “扉”が開かれる。
 手にはこの姿の時のような荷物はなく、オリオンは身の軽さを感じながらステップに足をかけ中に入る。そして一番近いコンパートメントの戸を開け、窓側に寄って座席に座った。
 ナマエもその後に続き、向かい合うように腰を下ろした。
 オリオンはいつかのように、窓枠に頬杖をつく。
「さて。色合いも再現してくれるならチェスセットも出てこないものか。そうしたら久しぶりにこてんぱんにしてくれるのに」
 オリオンが嘲ったのと同時に、再び汽笛が鳴り響いた。
 ナマエはしばしポカンとした表情で言われた意味を理解していないようだったが、ややするととても奇妙な顔を作った。嬉しそうな、笑いたそうな、泣きたそうな、どれからしたかったのかオリオンにはわからないが、結局ナマエはそれらすべてを破棄した。堪えるように一度俯いたあとに出てきたナマエの表情は、それはもう完全にふてくされていた。
 元々凡庸な顔が歪んで、とってもかわいくない。
 ――けれど、嫌いではない。
 オリオンは堪えることもなくくつくつと喉を鳴らした。
 ガタン、と車体が大きく揺れて動き始めても、その笑いは止まらない。
 ナマエはそれが気に障ったのだろう、顔を赤くした。
「……う、うるさいよ! オリオン!」
 ガタンゴトンと、駅の果ての光に向かって列車は進み始めた。
 終わりからその“終わり”に二人を乗せて。




2014.7.15 Magical World様に提出

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