残暑の照りつける縁側に〈女〉が一匹。今日も今日とて化粧をする手に余念がない。いつも以上に時間をかけて、昼の明けから鏡台とにらみあい。それもそもはず――今日は一年に一度の祭りの日だ。祭り装束に見劣りせぬよう、念入りに。 おしろいをたっぷり手に取り首筋に載せる。鎖骨のあたりまで塗り込み、その手をもったいぶった運びで背中へと持っていく。まとめ上げた髪の際まで肌を白く染めると、次にその手は頬へと回った。丁寧に、むらのないよう、隅々まで。 下地の具合には満足したらしい。化粧箱から要領よく、次の道具に持ち変える。細かい箇所を丁寧に道具で塗り直し、小鼻には特に注意して白粉をはたく。目には薄墨。元が薄い眉に濃く線を引く。頬には薄紅。〈女〉はとうに娘と呼べるような年頃は過ぎていた。だから林檎のように赤い頬ではなく、ぼんやりとほのかにかおる薄紅が良いのだ。そのかわり、口紅の赤は白い肌に映えるようにと濃いものを選ぶ。この鮮やかさは娘ほどの年頃ではかえって、てらてらとして下品になってしまうことだろう。年相応に落ち着いていなければこの紅は似合わない。 細い指を器用に動かす、ここで失敗することは許されない。最後に筆先で整える。 〈女〉は「ほう」と一息ついた。 縁側に吹き込む風は早くも夕闇のにおいを運んでいる。ざわざわと、祭りの夜の気配をただよわせる。 ――祭りが始まるらしい。 〈女〉は道具を丁寧に畳むと肌着の身体を持ち上げた。 ほっそりとした首筋をなまめかしく傾けて、肌着のうつし身を丹念に見回す。汚れのないことを確認すると、〈女〉は掛けてあった品の良い小袖に腕を通す。薄桃色の、品の良い織物だ。柄も帯も草履も、この日のために特別用意したものに違いない。普段から慣れているのか手際良く着付けの手を進める。誰もおらぬことは知っていれども、観る者の視線を想定した艶な手つきで、手際よく進める。その少し後には着物に身を包んで立っている〈女〉の姿があった。 女は再び化粧鏡に向き合う。乱れのないことを確かめ、さきほどの化粧箱とは別の箱からなにやら一枚のお面を取り出した。そしてそれをゆっくりと顔に当てる。面は小面。若く美しい女の面だ。 月祭り――この祭りはただ「月祭り」と呼ばれていた――には面で顔を隠さなくてはならない。昔からそのようになっていた。いわば風習というものだ。男も女も、人も鬼も、その顔を面で隠して祭りの夜に参加する。――さらばこの〈女〉も宵の口から祭り歩きをそぞろ楽しむという趣きか。 〈女〉はしなのある手つきで膝元を払うと、日除けのための笠を求めた。 かような周到な準備を経て、この〈女〉は月上ゲ町の祭りを遊歩した。 笠と面で顔は隠れていてもその後ろ姿の艶やかなこと、なまめかしいこと。道を行く者はみな〈女〉の歩き姿に目をくれた。それほどに人目を引く姿には違いなかった。 さて、ここに一人の若者がいた。若者はこの祭りの機会にふさわしいお相手をさがし歩いていたのだ。若者は〈女〉の通り過ぎていく姿にすっかり心奪われ、声をかけた。 〈女〉は若者の誘いに快く応じた。 「冷たいものでも飲みませんか?」 〈女〉は頷いた。若者は続けて言った。 「それじゃあそのお面の下の顔を見せてください。そんなものをつけていたら水も飲めないでしょう」 〈女〉は少しためらってそれを拒んだ。しかし相手もここで引くような輩ではなかったらしい。何度目かの押し問答の後、〈女〉が折れる形で若者の要求を飲んだ。 「なにがあっても驚いてはいけませんよ」 かろうじて聞き取れるような声で〈女〉が言う。若者は「もちろん」と期待のこもったまなざしで、〈女〉の指が面にかかるのをまんじりともせず見つめた。 小面の、白い面がそろそろと持ち上がる。 その下の顔が祭りの灯りに照らされた。 「ギャ――!!!」 ・ ・ ・ 「いややわあ、そんなに声上げて」 ナンパ相手の若者は地面に腰をつけ、ぶざまに後ずさりしている。どうやら腰が抜けたらしい。悲鳴の後に言葉が続かずぱくぱくと口を動かし何事か言おうとしている。 「いくらなんでも失礼とちゃうん?」 軽蔑たっぷりに非難する声は、どうしようもなくしゃがれ、かすれている。声を抑えていたのはこのためだったのだ。その上、顔は面に閉じ込められた汗のせいで、見るかげもなく崩れていた。さらにまたその上、だ。なによりも重要なことがある。この小面の面の下にあった顔というのが―― 「冷たいもんでも飲みたいわあ。兄さん、驚かせてもうたお詫びにおごったげよか?」 と、〈女〉は――いや、〈女のふりをした老人〉はしなを作ってきゃらきゃら笑った。 |