「夏風邪ですね」 先生はその一言であっさりと診察を終わらせた。 「はあ。夏風邪ですか」 「完全に夏風邪です」完全に、とペンライトを指して強調する。「喉の痛みと熱ね。暑いからってお腹出して寝たり、冷たいもの食べ過ぎたりしませんでしたか?」 「それはなかったと思うんですけど」 「アイスとかジュースとか、取りすぎは駄目よ?」 小さな子供に言い聞かせるような物言いにぼくは少しムッとする。 「オレもうそんな子供じゃないですし」 「ボクにとっちゃ子供みたいなもんだよ。十何年も診てるんだから」 先生はぼくを適当にあしらいながら、カルテになにか書きんでいく。先生には子供の時からお世話になってるけど、いまだにこちらを小さい子のように扱ってくるのには閉口だ。 「……寺坂次郎くん、夏風邪っと」 先生がペンを置いた。その動作につられてカルテが目に入る。……ミミズが暴れ回ったような字だ。書いてある内容はわからない。……小さいころは外国語で書いているから読めないんだと思っていた。でもぼくはもう無条件に大人に憧れていられるほど子供じゃない。先生のはただ単に字が汚すぎて読めないってだけだ。 「まあね、よくあるんだよ」ぼくの冷めた目には気づかず先生は続ける。「この時期暑さで体力が落ちるから。君んとこもほら、大変でしょ? 夏は人がばったばった死ぬから」 ……冗談とも本気ともつかない口調だ。ぼくは激しくせき込んで聞かなかったことにする。そんな『今日庭にセミが死んでて』と同じようなトーンで怖いことを言わないでほしい……まさか『本当に困りますよね』と話を合わせるわけにもいかないし。 「まあまあ、君も若いし、一日二日寝てればすぐ治るよ」包帯をぐるぐるに巻いた手で、カルテに再び書き込む。 「お薬出しておくから。毎食三食、食後に飲んでね」 包帯の隙間からはにこやかな笑顔がのぞいている。見ている人を安心させるような、医者としての自信に裏打ちされた微笑だ。母さんがどうしても診てもらえっていうから久々に病院に来たけど……久々に来たらやっぱり良い先生だな。 ぼくの口からは自然にお礼の言葉が出ていた。 「ありがとうございます」 「じゃ、注射しましょうね」 「え」 「え?」なぜか先生まできょとんとする。「どしたの次郎くん」 「注射?」 「うんそう注射。注射しますよ」先生がさっと立ち上がる。 「ちょっと、待ってください!」 そわそわと浮き足立つ先生にストップをかける。来たか、とぼくは思った。やっぱり来たよ。そう来るんじゃないかと思ったよ。そう来なきゃいいなと思ってたのに。「オレ、ただの夏風邪ですよね? 薬もらえればそれでいいんですけど」 「次郎くん……君ねえ」君はなにもわかっていない、と先生が首を振る。その首にもぐるぐると包帯が巻かれている。「あのね、たかが夏風邪、されど夏風邪なんだよね。夏風邪を笑う者は夏風邪に泣く! まあいるかいらないかで言えばいらないけど、それはそれで注射しとこうよ」 はいこんにちは。はい口開けて。心音聞きます。風邪ですね。じゃあ注射しましょうね。――流れるような一連の診察。長らく受けていなかったけれど忘れたわけじゃない。ナイムラ先生の注射好きは有名だ。なにせあんまり好きすぎるものだから、ついたあだ名が『月上ゲ町の注射男』――小学生から背中に十字を切られる存在だ。小学校のときの予防接種って、場も相まって先生が悪魔みたいに見えるからな……。他には「本当は医師免許を持っていないんじゃないか」とか「改造手術をされる」とか散々言われている。でもこの先生の場合は、本当に見た目が悪のマッドサイエンティストみたいなのも原因だとぼくは思っている。 「……そういや先生ってなんでそんな全身包帯ぐるぐる巻きなんすか」 「ええ? なんだいいきなり藪から棒にい」、と笑う口元はかろうじて包帯の外にある。 「ぼかあ昔っからぶきっちょでねえ。わかる?『ぶきっちょ』ね。医療器具扱うだけでこのざま。メスとか持ってても患者の腹切る前に自分切っちゃうのよ」 ああ、なるほど。……いや待ておかしい。「先生内科じゃん」 「ハハハ」 「いやハハハじゃなくて」 「先生の包帯は今どうでもいいでしょ? それより次の診察もあるからほら、どうするの注射」 「じゃあ遠慮して」 おきます、と言いかけて先生に押しとどめられる。 「遠慮なんかいいからいいから。さ、ほら腕出した出した!」 「それって先生が注射打ちたいだけなんじゃ……」 「いやあ、打ちたいか打ちたくないかで言えば打ちたいだけなんだけど」言いながら、先生が注射器の袋を破り捨てたのをぼくは見逃さない。「みんな夏場は打ちに来ないし。来る患者みんな熱中症ね。あと夏バテ。夏はほんと、注射打ちに来ないからねー。夏はやだよ。やんなっちゃいますよ」 先生の持ち物が消毒用アルコールと脱脂綿に変わっている。 「これサービスだから。打とうよ注射。痛くないって。夏風邪も早く治るよ」 「い、一日寝てれば治るってさっき」 「いいからいいから。一日っていうのは注射を打った場合の話ね。いやほんとこれ一本で全然違うから」 包帯の手がぼくの左腕を押さえる。怪人に捕まったときの心境ってたぶん、こんな感じだ。 だからここ来たくなかったんだよ……。 ぼくの脳裏に浮かぶのは、小学校、注射待ちの列の記憶、それと同時に『これははんこだからね〜。ぽんっと押すだけだからね〜』と、包帯の奥で目を輝かせるナイムラ先生の顔だ。 ぼくはあきらめて先生に身体をゆだねる。先生は当然のような動作でぼくの半袖の腕をめくる。そこには他ならぬナイムラ先生に打たれた『はんこ注射』の痕がくっきりと残っている。このあたりの子供はだいたいがこの先生のお世話になる。ぼくももちろんその一人だ。 なにをするのかと思っていると、先生はおもむろにぼくの注射の痕を、指でなぞりだした。小動物の背でもなでるかのように、何度も。正直気味が悪いことこの上ない。ぼくは目を背ける。「あぁ……」というため息、それからじゅるりと奇妙な水の音、その後で先生が白衣の袖で口元をぬぐった理由を、ぼくは見たくもないし知りたくもない。 「はい、じゃあ力抜いてください」 とそこで妙な沈黙があって先生が動かなくなった。ぼくが何事かと思っていると先生は小声でぽつりと「毒薬じゃないから安心してね?」 「当たり前ですよ!」 「ハハハハ、冗談冗談」 左腕の内側に、アルコールの綿があてられる冷たい感触。来るのはわかっていても背筋がびくっと反応してしまう。アルコールが塗られた部分だけ、皮膚がはがれてしまったようにすっと冷たく感じる。 包帯の手がアルコールを塗り終える。 その手際の良さをみているとつくづく思うことがある。 「ナイムラ先生」 「なんだい?」 「先生って注射、好きなんですよね」 「……もちろん」自信満々に肯定する。その間も作業の手は止まらない。いよいよ注射器が先生の手にのぼる。先生が慣れた手つきでぼくの左腕をまっすぐ伸ばさせる。先生の手にぐっと力が入る。それにつられてぼくも身体がこわばる。「注射器そのものも好きだ。無駄のない形をしている。それにもちろん、針を刺す瞬間も――」 自分の腕に針が刺さるのを見たくない、その一心でぼくはほとんど反射的に目をそらしていた。「――中身を注入する瞬間も、大好きだ」 腕に視線を戻すころにはもう針は引き抜かれてしまっていた。 「ついでに子供が注射を嫌がって泣き騒いだり、終わった後にきょとんとした顔をしているところも大好きなんだよ」……嬉しそうに話す先生の表情はなんだか始める前よりつやつやしている。そうしている間にも、注射の痕にガーゼとシールが貼られる。 「はい終わり。一、二分軽く押さえといてね」と先生はぼくの顔をのぞき込むようにして言う。「ぜんぜん痛くなかったろ?」 「そりゃ痛くはなかったけど……」 そうだ。いくら『無免許医の注射怪人』なんて噂されていても腕は確かなんだ。 でも、注射は一生好きになれそうにない。というか、先生めちゃくちゃ趣味悪いですね、とは、さすがに面と向かって言うことはできない。 それでも『月上ゲ町の注射男』はぼくの口振りからなにかを察したのか、包帯の奥でハハハと快活に笑った。 「なんなら点滴も打ってく? 夏バテ吹っ飛ぶよ」 ……もちろんそれは丁重にお断りした。 |