娘脚無しは雪に溺れる



「カンカンカン」
 鳴るのは遮断機の音だ。
 音と同時に黄色と黒を織り交ぜた警戒色たっぷりの棒が下りてくる。それはゆっくりと、世界を区切る。遮断される世界の中で、<彼女>は区切られた内側にいた。枕木に腹を押しつけたうつ伏せの身体はうまく動かない。頭だけで空を仰ぐ。世界が遮断される瞬間を、<彼女>はぼんやりと眺めている。
 遮断機の外側の世界は静かだ。白く、ほのかに輝いている。そこには<彼女>が贔屓にしている喫茶店があった。よくあそこでは紅茶を頼む。あそこのパン屋では一度だけパンを買って帰ったことがある。隣の服屋は年齢層が高めだからまだ入ったことはない。あの角を曲がれば母がよく利用する総菜屋だ。店長の奥さんは<彼女>の顔を覚えていて、行けばたまにおまけをしてくれた。
 <彼女>は遮断機の向こう側に渡りたかった。
 遮断された内側の世界はひたすらに冷たい。そこには雪と、くらやみと、線路だけが延々と続いている。赤いランプが「カンカンカン」、こだまする。点滅する。生者は立ち入ることを禁止されている。
 もう何度、同じことを繰り返せばいいのだろう。

「カンカンカン」
 鳴るのは遮断機の音だ。
 その音とは別に、ごうんごうんと近づいてくるうなり声を全身で感じていた。<彼女>の身体は遮断された内側の世界に横たわっている。枕木に腹を押し当てるように、うつ伏せの身体は動かない。

「線路の内側から離れてご通行ください」
「白線の内側へお下がりください」

 それがどういう意味を持つのか、わからない<彼女>ではない。

 嫌だ。嫌だ。
 流した涙は瞬時に凍り、頬を伝う頃には氷に変わっている。流した血も、同様だ。
 助けて、と言おうとした。必死に助けを求めようとした。誰か助けて! 生への執着が<彼女>にそうさせた。腕を振って、誰か、誰かと。けれど駄目だ。声は出ない。喉の辺りからひゅうひゅう熱い霧に変わる。かすかな音はすべて遮断機の音にかき消される。髪に積もった雪が音もなく落ちた。誰の耳にも届かない、誰も見ない、わかっていて、<彼女>は白い血煙を吐いた。

 くらやみの向こうから、光が近づいてくる。二つの大きなまなこはらんらんとした輝きを増している。身体の下で線路がごうんごうんとうなりを上げる。
「カンカンカン」
 鳴るのは遮断機の音だ。嫌だ。そんなのは嫌。
 向こう側に渡りたいだけだ。家では母親が待っている。父親は待ちくたびれて寝ている頃かもしれない。塾で友達と別れたばかりだ。明日の宿題が終わっていない。このままではあの人に電話する時間に遅れてしまう。借りたCDをまだ聴いていない。向こう側に渡りたいだけ。

 ――どうして私だけがこんな目に遭うの?
 <彼女>は何度もそう問いかけた。
 ――私は向こう側に渡りたいだけなのに。

 脚がないからだ。<彼女>は思った。脚がないから渡れないんだ。脚がないのがいけないんだ。私の脚はどこ? 私を歩かせる脚がほしい。私を向こう側まで渡らせてくれる脚がほしい。脚がほしい。私の脚はどこにあるの? 見つからないならば誰の脚でもいい。脚がほしい。
 <彼女>はそう願った。
 誰か私に、脚を!



 <彼女>はあるときこう尋ねた。
「脚いるか?」
 あるいはこんなふうにも言った。
「脚をよこせ」

 <彼女>は机の下のくらやみにいた。夢の中にいた。電車の中にいた。遮断機の、内側にいた。雪の中に浮かんでいた。

 ある者は<彼女>をこう呼んだ。
「てけてけ」
 こうも呼ばれた。
「カシマさん」「カシマレイコ」「サッちゃん」

 <彼女>には両脚がなかった。両腕がないこともあった。あるいはそのどちらもが欠けていることすらあった。

「脚いるか?」

 本当に脚がほしくてそんな質問をしているのか、<彼女>自身にもわからなくなるときがあった。そもそも、そう質問する<彼女>自身が何者なのかすら、たまに思い出せないことがある。<彼女>は時に「手をよこせ」とも言った。どうしてそんなことを言わなくてはならないのか、<彼女>にもわからなかった。どうしてそんな質問を繰り返すのか。<彼女>が問うことはあっても、問われることはなかった。でもそう質問しなければならなかった。
 だって、誰の脚もまだ<彼女>を向こう側に渡らせてくれないのだから。

「カンカンカン」
 鳴るのは遮断機の音だ。
 <彼女>の内側は、今もそこに置き去りにされたまま。


「娘脚無しは雪に溺れる」
(あるいは「カンカンカン」)了



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