愚か者にきわめつきの凄惨



 <俺>は馬鹿だ。割れた視界、目に映る全てがものすごい速さで吹き飛んでいく。風景はちぐはぐに組み合わされて、まるで走馬灯だ、と他人事のように思った。視界の端に青信号が点滅する。<俺>は馬鹿だ。それは所詮、遣り所のない弁明だ。だが、間違っていない。<俺>はなにも、間違っていなかった。

 悪夢だ。
 炎の中、激しく火を上げているのは<俺>のバイクだ。<俺>はそれを離れた地点からぼんやりと眺めている。ただでさえ街灯のないこの道だ、赤々とはじける炎はいともたやすく夜を焼いた。場違いに明るい光、もうもうと上がる灰煙、灰と煤――燃えているのは<俺>の愛車だ。愛車だった、ものだった。油が焼ける嫌な臭いがヘルメットの中にまで侵入してくる。
 これは悪夢に違いない。
 トンネルを抜けたと思ったら全部終わっていた。全部終わっていて、地に足がつかず、全てが嘘のような感覚。ローン、払い終わったばかりなのになあ、と思考する<俺>自身もどこか空めいているように感じられた。事実、そう思考する<俺>には地につける足などどこにもない。
 腕を力の限り前へと伸ばす。いくら足を動かせども、どうにも立ち上がることができない。事故の衝撃でどこかがいかれてしまったらしい。地面をつかむ。アスファルトの硬い地面をつかんで、少しでも炎から遠ざかる。奇妙な情景だ、と思った。思いながら、手足はずるずると前に進ませる。
 ――そうだ、<俺>はアスファルトに這いつくばっている。そして同時に、這って近づいてくる<俺>を見ている。幽霊のように全体を俯瞰して眺めているわけではない。這いつくばる身体/俺もそれを見ている頭/俺も、同時に<俺>なのだ。同時に、というのが重要だ。
 <俺>は頭で、身体だ。
 頭がなくなれば人間は生きられない。トカゲだって首を切られりゃ死んでしまうはずだ。だが、頭はここにある。身体はここにある。<俺>はここにいる。そうだ、ここにいて、<俺>を見ている。だから<俺>は死んでいない。生きている。<俺>は生きている。

 頭がない状況というのはひどくバランスが悪い。重心が欠けたような感じが常に付きまとう。みっともなく、虫のように這い進むしかない。<俺>はそんな<俺>を見つめている。息も絶え絶えに地に伏した<俺>と違って、頭はもう、言葉をかけることすらできない状態だ。
 かわいそうに、と思う。
 <俺>はなんてかわいそうなんだ。頭と身体。それがどちらからどちらへ向けた言葉なのか、判断がつかない。<俺>へ伸ばす、その鮮やかな切断面、火に照らされた一瞬だけ見える、白く突き出た骨。<俺>は泣き出したい衝動に駆られる。

 ――あと何度、と言葉が浮かんだ。身に覚えのない言葉だったが、違和感はなかった。あと何度、繰り返せばいいんだ。
 走るのが好きだった。
 ただ、好きだったんだ。夜を抜けて、バイクでどこまでも走っているのが好きだった。それだけだ。<俺>はなにも間違っていない。
 テグス? ワイヤー? まさかギロチンでも仕掛けてあったのか? 道路標識、ガードレール、なににせよ一瞬のことだった。そういえばピアノ線で人の首を切断する、そういう話がありはしなかったか。

 むかし、と思った。昔、そういう実験があった。頭と身体を切り離して人はどのくらい生きられるのか、と。たしかそのときは……どうなった? 切られた頭のほうは数分間、意識があったはずだ。話そうと、したはずだ。
 <俺>は口を開こうとした。だが腹筋も肺もない。ヘルメットの向こう、切断面から血が、ごぼごぼとこぼれる。半分に切れた喉を押さえる。それを見ているとなんとなく、苦しいような気がした。そうだ、身体は苦しい。苦しくて、死にそうだ。
 これも、そういう実験かもしれない。頭と身体を切り離して、人がどれだけ生きていられるか、感覚はあるのか。道に仕掛けをして、バイクで突っ込んでくる馬鹿な標的を狙うのだ。――あるいは、警告。そう、こう言いたかったのかもしれない。運転中よそ見をしていたら危ないぞ、バイクでスピードを出すと危ないぞ、こんなことになるぞ、と。

 ふざけるな、死にさらせ。

 そんな馬鹿な話があってたまるか。<俺>が殺してやる。斬首刑だ。こんなふざけた話を思いついたやつは、<俺>をこんな目に遭わせたやつは首を切られて当然だ。
 <俺>はなにも間違っていなかった。信号だって青く光っていた。今も、点滅しているじゃないか。<俺>は悪くない。夜の車道を、バイクで走っていた。それだけだ。それで頭と身体を切り飛ばされるなんて、なんの恨みがあってそんな報いを受けなくてはならないのか。スピードを出しすぎていた? 他に車も、ましてや人影もないような車道だぞ? それに<俺>はちゃんと信号を
 ――信号を?
 信号なんて、あっただろうか。
 トンネルを抜けた、と思った。トンネルを抜けたら、全部、終わっていた。果たしてそれは、本当にトンネルだったか? 峠、高速道路、<俺>はどこを走っていた? そもそも<俺>はなにをしていた? どんな、人間だった?
 もうすぐだ。もうすぐ手が届く。<俺>の腕、<俺>の頭。だが少しも安心できなかった。<俺>は不安だ。ひどく不安だった。ぎしぎしと鳴るライダージャケットの軋み、思うように動かない手足のだるさ、身体の下で金属が擦れる感覚までわかる。だが痛みはない。痛みの感覚だけはない。それがひどく恐ろしかった。
 ――首を切られて、頭と身体を切り離されてしまったというのに、どうしてこんなにも、穏やかなのか。
 <俺>はどうなってしまったのだろう。死んでいる? まさかそんな。頭はあって、身体はある。だから<俺>は生きている。生きている、はずだ。じゃなけりゃここでこうして考えている<俺>は誰なんだ?
 こんなことを考えている<俺>は果たして「頭」なのか「身体」なのか。それすらもわからない。

 青い光が白くつぶされる。風と、轟音。そこで気づいた。
 バイクから投げ出されて落ちた地点。吹き飛ばされて、<俺>が今転がるこの車線。気がついた。
 だが恐ろしいのは対向車線から迫り来るトラックではない。恐ろしいのは予感だ。頭を失い、欠けたままそれでもまた夜を走っているであろう自分自身。あり得べくもない未来を予感して、どうしようもなく恐ろしくなった。叫びたくなった。喉も途中で消え失せてしまったというのに。炎が闇を焼く。光は止まらない。ヘルメットの頭を掻き抱く。おれは、なにも

 悪くなかった、と。


「愚か者にきわめつきの凄惨」
(あるいは「ハイウェイ・エレジー」)了



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