――さて、『さとるくん』の都市伝説は本来、煩雑な儀式を必要とする。 儀式ではまず、公衆電話から電源を切った自分の携帯電話に電話をかけ、そこからさらに最大で二十四時間待たなければならない。そのうち携帯電話が鳴る。さとるくんは少しずつ近づいてきて、背後に立つ。そこで初めて、質問して答えを得る――儀式が成立するのだ。 だが今回は略式だ。最後の部分、『質問して答えを得る』というところだけを取り出して行おうというのだ。(彼自身は納得していない部分が大きかったが、文句を言って聞き入れてもらえる相手でもない) 女には自分の予備の携帯を持たせた。正規の儀式を踏まないとはいえ、やはりこれがないと締まらない。そして彼は女を元の椅子に座らせた。ただしベッドとは反対のほうを向かせてだ。 「じゃあ一応やってみっけどさあ、絶対後ろ振り向かないでよ。それと聞かれたらすぐ質問で返して。あんたと事を構えるなんてぜーったいゴメンだかんね」 それだけは執拗に念を押した。そうね、と女は静かに頷いた。彼も準備に取りかかる。 まず彼は、かけていた黒縁眼鏡を外した。置き場所に迷って結局、ベッドではなく離れたテーブルに置くことにする。眼鏡は伊達だ。怪異である彼にとって、物を見るのに道具を使う必要などない。 次に乱雑にベッドの端に追い払われていたシーツを、頭からかぶる。 そして深く息を吸う。人間ではない、怪異である彼にとってそんなものにはなんの意味もない。儀式だ。これは儀式だ。儀式に意味などない。深呼吸をするというその行為自体が儀式として必要なのだ。 赤みを帯びたルームライトが壁に大きく影を作る。女の背はすぐ手の届くところにある。シーツをたぐり寄せ、身を屈める。壁の影が極端に、伸びる、あるいは縮む、不規則に揺れる。 誰にも見せたことのない姿――違うな。彼は否定する。見た者はすでにこの世にいない、というべきだ。儀式の禁則を破って後ろを振り向いた者は、背後に立つ『さとるくん』の姿を目にすることになる。「見るなの禁」を破った者、彼らの行く先は地獄とも異次元とも――なににせよ、この世ならざるあちら側だ。 ぼくはさとるくん、と口の中で呟く。それが彼の儀式だ。それが『さとるくん』に必要な呪文だった。女の耳元、当てた携帯電話が同じように話す。 「『いまきみの後ろにいるよ』」 「私が捜すあのひとは今どこにいる?」 女の質問に応えるかのように、無限のイメージが目の前にあふれ出す。 名前の由来、『悟る』力は直感だ。過去現在からあらゆる情報を集積して、起こりうる未来の中で実現する可能性がごく高いものを直感で選び出す。儀式を行ってから召還までの最大二十四時間、その構造が単純であるほど導き出される時間も短縮される。 イメージは霧、濃霧だ。死人? 赤 これは口裂け女か? 生者の腕 刃 男だ 霧だ 生きている? 花が無残に散り荒らされている 霧だ 見えない ここから先は見ることができない 赤 赤だ 目が覚めるような赤 ノイズ 黄昏? これは誰だ? ――と、イメージがまとまる前に女が続ける。 「あのひとはいつ現れる?」 「え」 「私はちゃんとあのひとに会えるのかしら」 「ちょっと」 「知らない所でくたばってるんじゃないでしょうね」 「やめ、ちょ、ストップ!」 糸が、息が、切れた。 「無理! やっぱ、儀式なしで力使うと、死ぬ!」 『さとるくん』は――彼は、そう吐き捨ててベッドになだれ込む。 「もう振り返っても良いかしら?」女が返事も待たずに振り向く。彼はシーツを深くたぐり寄せる。シーツにくるまった芋虫だ。女は芋虫となった彼に尋ねた。「どう? なにかわかった?」 「わかったもなにも、っつーか、質問は一人一個だし! 欲ばり! あんた俺の、『さとるくん』の都市伝説、全っ然、知らないでしょ!」 「貴方が黙り込むから質問を続けるものだとてっきり。……それであのひとの居場所についてなにかわかったことは?」 悪気もなにもあったものじゃない。一切悪びれるところのない女に、彼は怒りすら感じていた。いくら伝説の都市伝説だからって……とは口に出せない。呼吸を整え、口を開く。 「ちゃんとした儀式じゃないからはっきりしたことはわかんないって。大体さ、あんたの捜してる人ってほんとに生きてんの? 影みたいなので覆われて全然視えないんですけど」 横向きに倒れ込んだまま、感じ取ったことを正直に話す。口裂け女は黙って聞いている。シーツの中から彼は続ける。 「――っつっても、死んでるわけじゃないな。イメージにはあんたの姿もあった。像は鮮明、具体的なことはさっぱり。赤はあんたの赤か?」 消化不良の儀式が、出口を捜して頭の中ではち切れそうだ。情報が、あらゆるものを解釈させたがる。予感と予兆が暴走する。気分が悪い。 「まあ、会えるには会えるってことなんだろうけど」 「……そう」 女の反応は素っ気なかった。 沈黙が部屋に走る。彼はシーツの間から、女がマスクの紐を耳にかけるのを見た。――今度はSFXじみた特殊メイクではなく、耳まで覆う白い簡素なサージカルマスク、口裂け女としての正しい姿だ。 その所作を見て、立ち去るつもりなのだと彼は直感した。 「あんたが捜してる人って結局誰だったわけ?」 向けられたワンピースの背中に、彼は何気ないふりで問いを投げかけた。ハイヒールが止まる。見返りを期待していたわけではない。だが半ば脅しで協力させておいてなに言わずに立ち去るなどと、相手がいかに若輩の都市伝説だからとはいえ甘く見過ぎじゃないか。そういう不満も込めて彼は言う。 「貴方のため、なんて言うけどさー、それってずるくない?」 マスクの女はすぐには答えなかった。髪を掻き上げる仕草にも感情の揺れが感じられる。言うべきかどうか、迷っていたのは本当だったようだ。だがそんなもの知ったことか。彼なおも追撃する。 「協力してあげたんだから、そのくらい教えてくれてもいいんじゃないの?」 「赤マント――『怪人赤マント』よ」 女は振り向きざま、完璧な動きで髪を払った。 「私が捜しているのは都市伝説の『怪人赤マント』なの。これでいい? 坊や」 「赤マント……」芋虫のような体勢で素早く、ベッドの上を女のほうまで滑るように移動する。「それって!あの伝説の? あの、赤マント?」 その妙に弾んだ声に、女が首を振って肯定する。「そうよ。その赤マント。それにしても貴方、さっきまでと見違えるほど元気ね」 「うっそ、マジで?」彼が興奮するのも無理はなかった。『怪人赤マント』その名もまた、口裂け女と同じく『伝説の都市伝説』として語られる存在だ。「ん? 赤マントってあれじゃんね……あー、ってことはあれは――」 ぶつぶつ呟きながら思考を巡らし始める彼に、女は見切りをつけて背を向けようとする。彼はいち早くそれに気づき「えー、行っちゃうの?」そう呼び止める口調には、先ほどまで根に持っていた不満や恨みは一切消し飛ばされていた。 「もっと話聞かせてよー。たとえばさ、あれほんとなの? 赤マントと口裂け女が大戦争して町一つ消し飛んだっていう例の……」 「口の減らない子ねえ。代金は先に払っておいたから、貴方は朝までゆっくりして行けばいいわ。ほんのお礼よ」 「『ほんの』過ぎるよ。お礼ってんならさ、お姉さんもここでゆっくりしてけばいいじゃん?」 「年下は好みじゃないのよ坊や」 「……そっちがババアなだけじゃね?」 ぼそっと呟いた一言。その一言にたちまち『赤いワンピースにマスクの女』が『口裂け女』へと豹変し、こちらへ身を翻すのを見て、彼は平身低頭に謝った。 「わー! ごめんなさいごめんなさい! 調子乗りました! 今のなしです! お姉様はいつまでも素敵で若くて美しくていらっしゃいますー!」 身を縮ませ、シーツをかぶる手に力を込める。だがそれ以上に女の力は強靱だった。問答無用でシーツを剥ぐと、無言で彼の頬をつかんで親指で口を押し開く。彼は固く目を閉じる。唇に押しつけられる――暖かい感触――少なくとも、今度は。押し入れられ舌に触る、硬質で甘い感触に目を見開く。 ……べっこう飴だ。 「協力してくれたお礼よ。お釣りはいらないわ」 彼の胸ぐらを片手で掴み上げたまま、女が口元をぬぐう。困惑する彼を前に、女はその白い手でシーツ越しに彼の頭を触る。我が子に触れるような優しい手つきだ。彼は口をもごもごさせ、やっとのことで口を開く。 「子供扱いしないでくれる?」 「私は」女が構わず言う。その手は彼に触れたままで「私はこっくりさんやメリーと違って、都市伝説か人間かなんてどうでもいいと思ってるの。私たちと彼らの間には差こそあれ、切っても切り離せない関係だもの。そう思うのも私が『元人間』だからかしら? 噂の中では、の話だけれど。あのひとたちとは昔から合わないの」 「……それ、なんの話?」 「貴方が余りに卑屈だから、人間に立ち交じって生きる貴方を否定するつもりはない、と言ってあげているのよ。誰にどう言われたところで貴方の勝手じゃない。メリーは過保護だから尚更。あのひとたちになんて言われているか知らないけれど」 女が口の、三日月の底のような口元に指を滑らせる。「よりによってこの私に突っかかってこようなんて、身の程知らずもいいところよ」 彼はシーツに隠れた目で女が余裕たっぷりに語る口を見た。赤い口、裂けた口、歯茎までむき出しになったおぞましい口――『口裂け女』の象徴だ。一方の彼にはそういったものがなにもなかった。人は彼の姿を見てはならない。そのため噂の中の『男の子』という以外には一目でそれとわかるような特徴がないのだ。そう考えると、この女の余裕がただ勘に障った。だから彼は 「じゃあ、これはどう?――」 彼は胸ぐらを捕まれたまま、女の耳に口を寄せ、囁いた。 ほんの一言。その一言で、女はわずかに顔色を変えた。彼は口裂け女の顔に浮かんだ、そのわずかな驚きの色を見て、満足げに笑った。 「――俺だって都市伝説なんだって、わかってくれた?」 口裂け女もまた、小さく笑う。それから彼を掴んでいた手を離し、「そうね」とさりげない仕草でマスクをかけなおす。もはや彼もほうにも女を止めるつもりはなかった。女は去り際、手に持ったなにかをちらつかせて別れの手を振った。 「あ! 俺のケータイ……!」 儀式の時、女に渡した予備の携帯電話だ。 女は首を傾け妖艶に微笑んだ。 「また会いましょう、『さとるくん』」 閉まるドアをひとり見送る。 「口裂け女と赤マント……」 彼は静寂に耐えかね、自然とそう口に出していた。口の中の甘ったるい味わいは消えない。現実だ。紛れもなく、現実だった。 『口裂け女』と『怪人赤マント』、どちらも都市伝説としては伝説級だ。そして片方は今、彼の前にその姿を現し片方は――。 『赤マント』の名を告げられたとき、彼の脳にはある一つのイメージが浮かんだ。都市伝説『さとるくん』としての鋭気な直感が見せた一つのイメージだ。――大切な預かり物、彼女が名前にこだわる理由、台詞の端々に見える感情、不在の怪人、見聞きした予備知識――彼は知っていることしか知らない。手に入れた情報から直感で答えを導き出す。直感が全てだ。だから彼は自身の勘というものを信じていた。彼は女に、ただ一言を囁いた。 ――赤マントなんでしょ。 女はそれで全てを理解したようだった。肯定も否定もしなかった。それは答えを認めたも同じことだ。彼は『さとるくん』として確信していた。口裂け女の『預かり物』の正体を。 ――そこで突如、軽快な音楽が静寂を遮った。忘れてた、と彼はズボンのポケットに入れたままにしていた携帯電話を引っ張り出す。画面には通知が数件、それからスケジュールの表示が一件だ。 「……あー、明日始業式じゃん。だる……」 着信も見もせず、携帯電話をそのままベッドに放り投げる。 シーツにくるまったまま、うとうとと目を閉じる。人間ではない彼に睡眠は必要ない、などということはない。どんな生き物にも眠りは必要だ。だが果たして『都市伝説』は生き物か?――噂で構成される身体だ。睡眠も食事も本来は必要としていない。けれどただ、今は。それがたとえ真似事でしかなかったとしても、生きているふりを続けるには眠らなければならない。 「……だって、眠いし」 と大きなあくびを一つ、それから寝返り。 伸ばした手の腕時計だけがただ、日付の変わり目を指していた。 |