レッド・レッド・スカーレット


-1-


 午後六時十四分、行き交う人々の中、『彼』は不意に足を止めた。
 彼の視線の先にあるのは喫茶店だ。道路を挟んだ向こう側、大通りへ向けて大きくガラス張りになっている。去年の暮れにできたばかりの、大手チェーンが出した若者向けの喫茶店だった。彼の視線はその店内へ向けられていた。
 女がいた。黒い髪を胸元まで垂らした女だ。美人、いや、美女という呼び方のほうが似合うだろう。その成熟しきった佇まいは単に『美しい人』ではなく、『美しい女』と呼ぶべきだ。若者や仕事帰りのサラリーマンで賑わう店内には似つかわしくない。
 ――それは赤いワンピースのせいだ。
 真っ赤なワンピースが何より彼の目を引いた。
 彼は道の反対側から、見定めるかのような視線を送る。女が座るのはカウンター席。机に置かれたのはコーヒーカップ。それから水の入ったグラスがあるばかり。
 女は何をするでもなく店の外を眺めている。自身に目を留める彼の存在には気づいていないようだ。女の後ろをコーヒーポッドを抱えた店員が、忙しなくおかわりを注いで回っている。
 そうしているのも束の間のこと。次に彼は辺りを見回し、カーブミラーで自分の姿を確認する。
 ――甘い顔立ち、キャラメルブロンドに軽くワックスをあしらった髪。まさに『王子様』然とした顔付きだ。彼は満足げに頷いて、ミラーに向かって笑顔を作る。眼鏡が少々不釣り合いでも、これはこれでお忍びで町を歩くモデルの変装に見えなくもない。母性と庇護欲とを煽る、まさに年上の女性にはうってつけといえる容姿だ。――それを確認すると、彼は悠々と喫茶店へと足を向けた。

「隣、いいっすか?」

 にっこりと女へ微笑みかける。女は突然現れたこの若い男に一瞥をくれたが動じる様子はない。こうして声をかけられることへの慣れすら感じられる。
 はっきり拒まれたわけではない。そう判断し、彼は女の左隣の席に座る。
「待ち合わせの人、来ないみたいですね。ちょっとお話しません? 相手の人が来るまででいいからさ」
 反応がなくとも一方的に話しかける。
「俺さ、勘が良いんだ。で、外からお姉さんの様子見てピーンと来ちゃったんだよね。あ、この人誰かと待ち合わせしてるんだなって。それも店員さんが早く帰したがるほど長く。――あ、すみません」
 おかわりお願いします、と店員を呼び止め、女のカップにコーヒーを注がせた。女は何も言わずカップを受け取った。彼は店員が行くのを見届けると、
「この店、おかわり自由って広告してるわりに、二、三杯おかわりもらったら後は空きの確認にすら来なくなんだよね。言えばそりゃ入れてくれるけど、ほら、そういうのって客の方でもわかるじゃん。早く帰ってほしいんだろうなってのが」
 彼は自分が注文したカフェラテをストローで大きく吸う。
「店の外から、お姉さんの後ろ素通りしてく店員さん見てさ、この人も長いんだろうなって」
「貴方――」無視を決め込んでいた女が口を開いた。その目は訝るように彼に向けられている。「ずっと見ていたわけじゃないのよね」
「まさか! 通りがかりだよ」彼は笑って答える。「だから言ったでしょ。俺は勘がいいって。大体、そんな赤いワンピース、これから誰かとお食事とか、約束がある時くらいしか着ないでしょ」
 女は整った片眉を軽く上げる。こうして近くで見ると『美女』という第一印象が間違いでなかったことがわかる。目鼻立ちのはっきりした顔立ちはそのまま広告にでも使えそうだ。
「……ね、正解?」
 隣に現れた男が何者なのかを見極めようとするような目つき。――ああ、ちょろいな。彼はそう内心でほくそ笑んだ。相手の懐に入ってしまえば後はこっちの物だ。

「半分正解というところね」女は些か不機嫌そうに「私が誰かを待っているというのは正解。でもたしかな約束ではないわ」
「相手の男は来ないね」彼はそれを男と決めつけていた。女を煽るように『男は』と強調する。「賭けてもいいよ」
「賭け?」
「そう、賭け」彼は左手の腕時計を見る。「今がちょうど六時半。そうだね、今から三十分待っても来なければ俺の勝ち、来たらお姉さんの勝ちっていうのはどう?」
「どちらにしろ、貴方にとって都合の良い条件だこと」
 ここで初めて女は顔をほころばせた。「でも七時を待たずに待ち合わせ相手が来てしまったらどうするのかしら。貴方、そんなに強いようには見えないけど」
「その時はその時」と彼も甘い笑みで応える。「けど絶対に来ないよ。俺は自分の直感を信じてるんだ。そうでなきゃお姉さんに声かけたりしないよ」
 あくまで『主導権は私の方にある』と思わせておくのが大切だ。この年頃の女性を相手にする時は特に、と彼は算段する。年下の男の子を翻弄できる余裕と優越感、それらを適度に与えておくのがコツだ。その裏で、本当の主導権はどちらにあるのか悟られぬよう手を尽くす。そういった心理的な駆け引きは彼にとって手慣れたものだった。

「少し騒がしいわね」
 と女が独り言のように呟いた。
「ねえ、場所を変えない?」
 女がそのように切り出したのが午後六時四十分。彼はにっこりと笑った。その十五分後には、ホテルのロビーを抜ける男女一組の姿があった。


「まだ貴方の名前を聞いていないわ」
 エレベータの中、女が尋ねた。
 彼は壁に寄りかかって問い返す。「どうして?」
「お互い知っておいたほうが良いんじゃなくって?」
 女のほうでもそう言いながら、自分から名乗るつもりはないようだった。
「なんだっていいよそんなの」彼は手の中でルームキーを弄ぶ。面倒臭そうに「どうせ忘れちゃうんだから、名前なんてあってもなくても同じ。そうでしょ?」 
 呼びにくいなら好きに呼んでよ、フィリップでもエリックでも、好きにさ。そう言って、彼は人を食った態度で女を煙に巻く。女は特に気にする様子でもなく、ただ一言「ずいぶん軽率なのね」と彼を見もせず呟いた。そのタイミングでエレベータが到着階を告げた。

 全体的に暖色をあしらった壁紙に、淫靡に揺れるルームランプ。外のほうがまだ明るい暗がり。一足先に夜へ入り込んでしまったかのような錯覚に彼は心躍らせる。最低限、必要な調度だけのそろった室内に、いまは彼と女との二人だけだ。
 彼はダブルベッドに腰を下ろして女に聞いた。
「ルームサービスでも注文する? それとも先にシャワー浴びたい?」
 女の返答はそのどちらに答えるものでもなかった。
「ねえ、私のことどう思う?」
 ――思わせぶりにそう尋ねるのだ。
 彼はふてぶてしく組んだ片脚に、肘をつき髪を触る。
「綺麗、すごく綺麗だと思うよ」
 ありがとう。そう応じる女の声は素っ気ない。そんな言葉は言われ慣れているとでも言いたげだ。ならばなぜこんな問いかけの必要があるのか?
 そこからの展開は彼にとって、予想したものとは少々違っていた。

 女の長い黒髪が幕のように、彼の視界を遮断する。――女に押し倒されたのだ。彼の視界を占める女は、上気した様子もなく、至って冷静だ、少なくとも彼の目にはそう見える。女の膝が股の間に差し入れられる。彼は一瞬の狼狽をおさめ、あえて挑発的に話しかける。「このままでいいんだ?」
「構わないわ」そう答えながら、ワンピースの裾に回る女の手が、視界の端に見えた。「すぐに済むもの」
「心外だなあ」
 彼はにやにやと下卑た笑みを浮かべる。
「貴方が素直ならね」
 女の顔がしなだれかかる。吐息がかかる距離。流れに任せ、薄く唇を開く、その口に差し入れられた冷たい感触――冷たい、感触?――閉じかけていた目を見開く。
 それが刃物だと気づくまでには、たっぷり秒針が一回転するだけの時間が必要だった。
「ひゃひ?」
 鎌だ。
 女の手に鈍く光るそれは鎌だ。
「動かない方がいいわ。手が滑ったら大変だもの。口がこんなふうになったら困るでしょうから――
 首に添えられた女の左手、人差し指が彼の頸動脈を優しくなでる。さしもの彼もなにが起こっているのか理解が追いつかない。ベッドに押し倒された。それはいい。しかしいくら美女相手でも、口に凶器を突っ込まれた状況ではちっとも喜べない。凶器、冷たい凶器、口の内側に当たる切っ先、本物だ。本物の鎌、そしてまぎれもなく現実の感覚だ。
――そうでしょう?『さとるくん』」
「んんう!?」
 とっさに押し退けようとした腕を掴まれる。
「せっかちね。いま動かないでと言ったところじゃない。貴方は『さとるくん』でしょう? 都市伝説の『さとるくん』よね」
 細い腕からは想像もつかない力で押さえられる。すごい力だ。それにこの感じも。この女が何者かはわからない。わからないが――この女はヤバイ。彼の直感が激しく警鐘を鳴らしていた。
 ズボンのポケットに、携帯電話が入っていたはずだ。
「答えなさい」
 女の手に力が入る。彼は不承不承で頷いた。
「そう、良かった」言葉と裏腹に女の張りつめた表情は少しも緩むところがない。「万が一間違えたなんてことがあったら大変だもの。そうやって素直に答えてちょうだいね。聞き分けの良さは長生きの秘訣よ」
 彼の腕を縫い止めていた女の腕がほどかれる。だが口に押し込まれた凶器はそのままだ。この状況で動く気にはなれなかった。女は馬乗りの体勢で彼に話しかける。
「貴方、私の顔を綺麗だと言ってくれたでしょう?」
 女は自分の頬に手を当てた。

「ねえ、これでも私は綺麗? 『ワタシ、キレイ? これでも?』」

 その言葉に、嫌な予感はあった。しかし彼は女から目が離せなくなっていた。女は顔の皮をべりべりとはがす。鼻から下、頬を一周するように薄く貼り付けてあったのだ。――それはさながら、見えないマスクのように。
 トレードマークの赤い服、赤いハイヒール、『ワタシ、キレイ?』という文句。マスクがないからといって油断していた。もっと早くに気づくべきだった――と考え、思い直す。こんな断片的なピースで気付けという方が無理だ。赤いコートじゃなく赤いワンピースだし、マスクなしの口元はどう見たって……

 三日月のように裂けた口が微笑した。
「最近はメイクが進化していて助かるわ」

 ――メイクっていうか、特殊メイクだろ。っていうか、マスクはマスクでもSFXかよ!
 そう思ったが、当てられた鎌の冷たさに口には出せない。

「『さとるくん』、貴方に頼みがあるの。聞いてくれる?」
 半ば放心した状態で女の顔を眺めていると、鎌が押しつけられた。
「んんんっ!」
「頼みごとがあるの。聞いてくれるわよね」
 有無を言わさぬ口調。そこには年上の余裕どころか、支配者の威光すら感じられた。
 鎌の先端が頬の内側を刺している。彼は顔を背けて逃れようとするが女がそれを許さない。彼の喉に手首を置き、あごを掴むようにして、ベッドに頭を押しつける。痺れるような痛み。唾を飲み込むこともままならない。息が詰まる。そのうち、唾液に嫌な味が混ざり出す。
 このままだとどうなるか?
 ――考えるまでもない。女がこのまま腕を横に倒すだけで簡単に「口裂け男」の誕生だ。
「わひゃっひゃ! わひゃっひゃはら!」
 不自由な口で懸命に訴える。それでも女の手は緩まない。
「貴方、口は堅い方? 誰にも話さないって約束できるかしら」
「いははひ!いひはへん!」
「本当かしら。貴方、こうやって女に声をかけるの初めてじゃないんでしょ? 女で遊ぶ男なんてみんな同じよ、口ばっかりうまくて中身がないの。そんな男の言葉なんてどこまで信用できるのかしら。そう思わない?」
「んんう!」
 女の手で鎌がより深く押し込まれ、彼は声を上げた。丸く曲がった鎌の背の部分が彼の舌を圧迫し、えづきそうになる。
「当分女遊びは控えますって誓える?」
 その言葉に一も二もなく頷く。
――そう。良かった」
 すっと鎌の腕が引く。
 彼は急いで解放された口元をなでる。血は出ているが傷は浅い。口の端と頬の壁を少し切った程度のようだ。一応手加減はされていたらしい。唾を飲み込む。息を整える。
 それから彼は――『さとるくん』は目の前の女に視線を送った。依然として自らの上に馬乗りになっている女に。

「その気がないならどいてくんない?
それとも、話の続きはベッドの中でする?……『口裂け女』のお姉さん」

 その精一杯の挑発的な物言いに『口裂け女』は冷ややかに微笑んだ――耳まで裂けた口を歪ませて。




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