昔から人と記憶が合わない。ぼくが覚えていることと人の言うこととの間に、微妙に食い違いを感じることがときどきあった。 誘盆 たとえば、そうだな……犬。休みの日にクラスメイトが犬を散歩している姿を見かけたから、学校で何気なくそいつに犬の話題を振ったことがある。「そういやシノハラ、いつの間に犬飼い始めたんだよ」って。するとそいつは「犬なんか飼ってねえよ。誰と間違えてるんだ。」そう言って笑うんだ。変だな、とは思った。普段からそいつとはわりと話す方だったから、人違いってことはないと思う。でも、本人が飼ってないって言うんだから本当なんだろう。 犬以外にも似たようなことはよくあった。買った覚えのないお守りとか、奇妙なノートの落書きとか――知らないクラスメイト、とか。(と、ここでぼくの頭の中でちゃらちゃらした格好の男子生徒が自己主張を始める。ぼくはそれを急いで追い出す) そのたびにおかしいな、とは思う。思うんだけど、そういうのは大体どうでもいいようなことが多いから、なんとなくやりすごしてしまうのだ。「絶対間違いない。犬と歩いてたのはお前だよ」なんて変に突っかかっていっても気味悪がられるだけ。それなら「見間違いだったかも。悪い」って、軽く流しておいた方がいい。 でも―――― 「でもそれって母さんの思い違いじゃない?」 食べ物の記憶ってそうそう忘れないと思うんだけど、とぼくが言うと、母さんは口をへの字に曲げた。「なに言ってんの、駅前の『ラ・モントル』でしょ。小さいころよく連れてってあげたじゃない」 「そうだっけ?」まったく記憶にない。駅前は通学路から微妙に外れているから、普段あまり通らないし。「……っていうか駅前に喫茶店なんかあった?」 「あったわよお」そう言う母さんは責めるような口調だ。 「ジローはいっつもクリームソーダ飲みたがって! 商店街に行くたんびにクリームソーダ飲んで帰るーって聞かないから、しまいには店員さんに『クリームソーダの子』って呼ばれるようになるし。お母さん恥ずかしかったんだから」 そんなこと、あったかなあ 思っても言うと倍になって返ってきそうだから口には出さない。 「ちなみに駅前の、どこ? そんな昔からあったっけ?」 「駅前のすぐ、商店街出たところ。何年になるかは知らないけど……お母さんがこっちに来たころにはもうあったんじゃないかしら」 そう言ってひとり合点したように頷く。口振りから察するに店自体はかなり昔からあるらしい。母さんは見た目こそ若く見えるけど、これでウン十歳だ。最近おでこの皺を気にしだした父さんと並ぶとその差は歴然。そりゃ高校生のぼくの上にまだ二人も上がいるんだから、年齢を逆算すると…… 「あんたいま余計なこと考えたでしょ」 「いやっ……別に?」平静を装う。危ない、心を見透かされたのかと思った。「クリームソーダの子って、それサンタと間違ってるってことないよね」 「それはない」 即答だ。 それだけきっぱり否定されると反論する余地がない。「それだけはない。天地天命、お父さんへの愛に誓ってそれはあり得ない。三太じゃなくてあんたの方よ」 「なにもそんな力強く否定なくても……」 「あんなにクリームソーダって言ってたのに、ほんとに覚えてないの?」 逆に問いただされる。ほんとに、を強調して言う口調には半ば呆れが混じっていた。 「小さいころのことだしさ」 と笑って追及の目を逃れる。誤魔化してコップに手を伸ばす。あいにく空っぽだった。ぼくはそれを口実に、お茶入れてくる、と台所へ移動した。 普段から目に入らないから意識してないだけだ。 ぼくはひとりになってから言い訳する。だいいち、商店街の店を全部覚えている人の方が少ないだろう。母さんだっていちいち数え上げるなんてできないはずだ。だったらこれはただの記憶違いだ。そうに決まってる。 でも駅前ってずっと、空き地だったと思うんだけどなあ……。 そう思いつつ、注いだばかりの麦茶をあおる。 昔から人と記憶が合わない。ぼくが覚えていることと人の言うことの間に、微妙に食い違いを感じる。――その原因にはたぶん、ぼくの体質も少し関係していると思う。 体質というのはもちろん、幽霊とか、そういうよくわからないものが『視える』、ぼくのこの体質のことだ。どうしてそんな力があるのかはわからない。「ジローは小さいころからなんにもないとこ指さして泣くから、気味悪かったわね」という母さんの証言もある。生まれつきこうだったみたいだ。だから正直、『霊が視えるなんてうらやましい』なんて言われても、いまいちピンと来ない。ずっとこうだし、目に見えてる景色なんて人と比べられないし。大体、こんなのなんの役にも立たないし。 ――そう、これだけは力説しておきたい。 『霊が視える力』なんて、本当になんの役に立たないんだ! たまに幽霊を見てみたい、なんて言われるけど、ぼくからすれば視えたところでなにも得することはない。それどころか損ばっかりだ。気味悪がられるし、あげく『寺生まれのTくん』なんてあだ名をつけられたりする。本当に『視るだけ』だから、除霊もできないし。どうせならもっと、役に立つ力ならよかったのにな……。「破ぁー!」で手から除霊パワーを発射する、とか。 ……ええと、なんの話だったっけ。 そうそう、記憶がどうって話だった。 ぼくには他の人に見えないものが視えている(らしい)――見なくていいものを視てしまう。だから当然、人との間に記憶の差が出てくる。みえているものが違うから感じ方も違う、と。つまりそういうことなんだろうと思う。 さすがに喫茶店のあるなしでこんな話を持ち出すのは大げさだけど……。 と、気づけば麦茶を飲み干してしまっていた。お茶を入れてくると言って居間を出た手前、無手で戻るのも変だ。再び冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の一番上に押し込まれた木箱ががたがたと震えた。ぼくはそれに構わず麦茶の入ったボトルを取る。 冷蔵庫の木箱――たぶんこれも、視なくてもいいものなんだろう。 現に他の家族は特に気にかけていやしない。「冷蔵庫に入ってる長細い箱の中で何かが動く音がする」、と言っても弟や妹はピンと来ないに違いない。たぶん母さんも。少なくとも父さんはこれがなにかを知っているはずだ。冷蔵庫に箱を入れたのは父さんなんだから。 父さんはぼくに「開けるなよ」とは言った。でも中身についてはなにも言わなかった。いつもそうだ。肝心なことはなにもぼくに教えてはくれない。箱の中になにが入っているのか。中身はたぶん見なくてもいいもの……というより、見ない方がいいものなんだろうな。 冷蔵庫を閉める。 見なくてもいい、父さんもそうも言っていた。お前が心配することじゃない、とも言った。あの晩だ。 ぼくは――あの日、あの晩、月祭りの夜に起きた――正確には「起きたのかどうかもわからない」晩のことを思い返す。 ぼくはあの後、熱を出して寝込んだ。二日ほどうなされて、起きたら全部終わっていた。祭りは撤収、ぼんぼりも屋台も引っこんですっかり元通り。まるであの夜のことなんてどこにもなかったかのようだ。父さんが一度だけ事情を聞きに部屋へ来た。覚えている限りは話したけれど、どこまで信用されたのかはわからない。 肝心の鬼の面――あの三ツ目の鬼を模した面は、忽然と姿をくらませ行方不明らしい。あとはたしか……神社の保管庫が荒らされたが心当たりはないかとか、言ってたな。他には特に、なにも。 あの夜なにが起きたのか。あの面は結局なんだったのか。どうして面の下の顔がぼくと同じ顔だったのか。ぼくがあの祭りで、なにをしたのか。 そういうことを、父さんはぼくにひとつも語らなかった。 だからぼくはいつまでも、なにひとつ知らないままだ。 熱が下がって、学校にいって、元通り。特になんの変哲もない毎日。 この両手首に残った、引っかかれたような傷だけが、祭りの夜にあったできごとを暗示している。自分も少なからず関わっていたはずなのに、自分が怪我をした理由すらまったくわからない。 同じだ。いるはずのクラスメイト、冷蔵庫の木箱。ぼくにしか視えない誰か。 ……昔から、父さんの顔が、一ツ目の化け物に視えるのも。 父さんの目はどうしてそんなに大きいの? ――おまえをようく見るためだよ 父さんの目はどうしてひとつしかないの? ――どうしたんだじろう、そんなことを言って。それじゃおまえにはとうさんがおばけにみえているのかい。 ……いつもじゃない。いつもそう、視えるわけじゃない。 たまにだ。たまに、父さんが一ツ目の坊主に視える。小さいころのぼくは、ぎょろぎょろとした一ツ目が怖くてたまらなかった。ぼく以外の人は誰も気づかないんだ。それが怖くて、父がそうなっている日はなかなか家に入れなかった。境内で座って、日暮れまで途方に暮れていた。 いまじゃもう『視』慣れてしまった。父は父だ。怖くなくなったのは……そうだ、一回り大きな手が、ぼくの両手をしっかり握った。そして「心配するな。あれは悪いものじゃない。お前の目にはばけものにみえるかもしれないが、あれも親父だ」 だから安心しろ、と。震える手をしっかり握ってくれた。力強い手だった。 その言葉の通りだった。ぼくの目には父が一ツ目の化け物に視える。でもそれだけだ。一ツ目でも父さんは父さんで、朝夕の修行をこなして食事もするし、葬儀で経も上げている。駆け込みの除霊だっていつも通りこなす。バイクにだって乗る。それらは全部父さん本人と少しも変わらなかった。だから小さいころのぼくも、これは父さんなんだという言葉を信じて安心できた。それも全部、あのとき手を握ってくれたイチ兄のおかげだ。 ――そうだ、イチ兄だ。 あのときはイチ兄がいた。 イチ兄がもしあの晩、あの月祭りの場にいたならば、全部解決したのだろうか。それともぼくがあの人くらい力を持っていたなら、 「こんなケガ、しなくてすんだのかもな」 声に出して嘆いてみたところで、むなしさばかりが膨らんでくる。 ……イチ兄に会って話がしたいな。 そんな気持ちがにわかに立ち上った。会って、話がしたい。そうすればこのもやもやした気分も少しはましになるかもしれない。 そうと決まれば、だ。ぼくは注ぎかけた麦茶を冷蔵庫に戻し、コップを流しに置いた。 「母さん」 居間に戻ると、母さんは机に頬杖ついて雑誌をめくっているところだった。頭を上げてぼくを見る。 「まだいたの? もう出かけちゃったのかと思った」 「今年の正月は兄ちゃんたち帰ってくるかな」 「……いきなりなによ」 「盆も結局帰って来なかったし。ツキ姉なんてもう何年会ってないか」 「月子はしょうがないさね。忙しいんだから。陽子にメールしてもらっても『刑事に盆も正月もない』っていっつもフラレるし」 この間も怒られたとこ、と母さんはからから笑った。ぼくは内心胸をなで下ろす思いで次の台詞を続ける。 「イチ兄も連絡くらいくれりゃいいのに」 「次郎」 ――母さんがぼくの名前を『次郎』と改まって呼ぶのは、たいがい説教するときか叱りつけるときだ。ぼくはそっと母さんの顔を見た。聞き分けのない子供をなだめる母親。母さんはまさにそういう顔をしていた。 「わかってると思うけど」 それが説教モードの母さんの口癖だ。そのたびにぼくは心の中でこう反論する。『わかってるって。』 「その話はしないって父さんとも約束したでしょ」 「したけど、でも」 でも納得したわけじゃない。わからないことだらけだ。どうしてぼくばっかり変なものが視えるのか。父さんがときどきおばけになるのか。なぜ犬を飼ってないはずのシノハラくんが犬と歩く姿を昨日も見るのか。なにがどうなってぼくが特に思い入れがないクリームソーダを好きということになっているのか。冷蔵庫の箱の中でがさがさ動くの、知ってるの? あの子たちが教室の隅でひそひそ話しているのはどうして? 全部全部、わからないことばっかりだ。 「イチ兄はどうして――」 ぱしゃ、とまばたきに似た音がした。 音の方したを見る。ヨウコだ。玄関の方から靴のまま回って来たらしい。縁側の外にポラロイドカメラを持って立っている。じいいいい、と焼き付ける音。どれもこれも耳慣れた音だ。 不機嫌な声で言った。「ジロ兄以外みんなもう用意できてんだけど」 今日は休みだっていうのに、あいつはどうして制服なんか着てるんだろう。 「今日どこの法事だったっけ」 「ふざけてんの?」ポラロイドに向けていた目をつり上げる。ヨウコは、現像されて出てきた写真に目を向けた。それからぼくを一瞥する。 「今日はママの命日でしょ」 墓参り、そう言った。写真にふう、とため息を吹きかける。 ――ああ、そりゃそうだ。 とっさにそう思った。母さんがあんなにもきっぱりと否定した理由。クリームソーダの思い出は絶対サンタのものじゃないと言い切れた理由が、時間差でいまはっきりと理解できた。それはそうだ。母さんが死んだのはサンタが生まれてすぐのことだったんだから、そんな思い出を作れるはずもない。 「悪い。ちょっとうっかりしてた。すぐ支度するから先行ってて」 「当たり前でしょ。これ以上待つわけないじゃない」 ヨウコは縁側に現像したばかりの写真を置いた。「五秒で来なさい」 ぼくが立ち上がって縁側からのぞき込むころにはもう、見送る背もなかった。置き去りにされた写真を拾う。 まだほんの少し暖かい。堅い台紙。居間の中を撮った写真だった。 写真にはぼくの隣に、白い影のようなものが写っている。日にさらされて消えかけたそれはよく見れば人の形をしていた。 居間を振り返る。いってらっしゃい、と片手を挙げて母さんはほほえむ。その顔がほんの少し悲しそうに見えて、ぼくは、 「いってきます」 そう言って、かろうじてほほえみ返すことしかできない。 視えるだけ。それがぼくの力だ。本当にそれだけだ。それ以外はなにも、なんの力もない。姿が視えたところで死者にできることなんて、ぼくにはなにひとつないのだから。 いってきます、ともう一度、ぼくは噛みしめるように繰り返した。 |