娘生成り、雨を引きずる



 それでは語って聞かせよう。
 現世の恨みに囚われた、哀れ化け物の因果譚だ。


 むかし、美しい娘がいた。両親はこの娘が生まれたとき、そのあまりの愛らしさに本当の我が子かどうかを疑ったという。娘は「ひきこ」と名付けて可愛がられた。
 ひきこのひは妃、気高い誇りを持つように。
 ひきこのきは姫、いつまでも若く愛らしい美しさ。
 ひきこのこは子、私たちの大切な娘、誰からも愛されるようにと。
 ――「森妃姫子」、それが娘の名前だった。

 なるほど娘はその名の通りに成長した。つややかな黒髪を腰まで垂らし、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。笑えば百花が一斉にほころぶような、花のかんばせの娘であった。
 ――この可憐な娘があのような恐ろしい末路を辿るとは、何びとが予想し得たであろう?

 学校という社会における彼女は、勉強もできれば闊達で人付き合いも良い。背が高く、学校中の誰もが一目置く存在。妃姫子という娘はその名の通り、気高く美しい、誰にでも愛される娘になる、そのはずだった。実際、名に込められた三つの願いのうち、二つ目までは叶ったのだ。三つ目の願いも途中までは順調だった。きっかけはほんの小さな綻びだ。
 あるとき「えこひいきだ」と誰かが言った。
 誰にでも微笑まれる容姿も、偉ぶった名前も、娘の何もかもが面白くない誰かが言った。
「えこひいきのひきこ。ひいきのひきこ」
 嫉妬という緑の眼は都合よく物事を解釈したがる。娘が教師を慕う様が、あたかも教師にすり寄っているように映ったのだ。娘はひどく純粋だった。その恵まれた容姿や能力が時に周囲の嫉妬を引きつけることになるなど、想像もしなかったのだ。
 娘にとって悲劇であったのは、この意見に同調する者が少なからずいたことだろう。憧れは妬みの鏡写し、それまで娘へ向けられていたあまたの羨望は激しい嫉妬へとたやすく転換した。

 それは酷い「いじめ」だった。
 ああ、酷い「いじめ」だったとも!
 ゴミ箱、カッターナイフ、鞄、プール、教科書、ライター、虫、髪の毛、コンビニ、死骸、ロッカー、ホッチキス――諸君らが「いじめ」と聞いて思いつくものは全てだ!

 教師は娘を助けなかった。友達だった子たちは見て見ぬ振りをした。日に日に傷を増やす娘をいないもののように扱った。それどころか笑いながらそれを観賞したのだ。森妃姫子というのは気高い娘だった。それゆえ誰にも助けを求めることができなかった。そして事実、誰も彼女を助けようとしなかった。

 このような時期に両親の不和が重なったのは、彼女にとってまったく不幸に他ならなかった。
 両親は毎日毎晩言い争った。
 娘は美しかった。彼女の顔立ちから両親に似ている部分を捜すには、何分もかけて辛抱強く見比べなければならないだろう。母親に頬をぶたれたのは初めてだった。酒に酔った父親があんなに恐ろしい顔をするなんて見たことがない。そのうち父親が家に帰らなくなった。母親はますます彼女に手を挙げた。たまに帰る父親はじろじろと娘をねめつけ、言うことを聞かないと酷く身体を蹴りつけるのだ。
 娘の逃げ道はもはや自分の部屋だけだった。一人きりの空間でだけ息をすることができた。


 ある日のことだ。手を縛られ、学校中を引きずりまわされた。
 いくら泣き叫んでもそれを聞き入れてくれる者はいなかった。顔に、手足に、あちこちに傷ができた。一番酷かったのは顔の傷だ。引きずられ、曲がり角で右目の上を強く打ちつけた。白百合のようなかんばせは今や見る影もなく、赤く、青紫に爛れていた。
 娘は鬱血した傷を雑巾で押さえてクラスに戻った。手首には縛られた縄の痕がくっきりと残っている。何があったのかなど誰の目にも瞭然であった。しかし――ああ、なんということか! それでも誰も彼女を助けようとしなかった。娘はその次の日から学校に来なくなった。


 それから娘がどうなったのか?
 泣き寝入りのうちに非業の死を遂げてしまったのか?
 なるほど娘は最初のうちこそ布団を被り全てのものに怯えて泣き暮らしていた。しかし娘は生き抜いた。娘は――森妃姫子という娘は、美しく気高い娘なのだ。いかなる絶望の淵にあっても自分の命をなげうつことはしなかった。
 生き長らえればこそ、生きてこそ――生への執着が呪いのように絡みついた。
 だからこそあのような恐ろしい末路を辿ることになったのだ。
 ここからだ。これは、ただ哀れなだけの悲劇ではない。ちっぽけでかわいそうな女の子がいかに苦しみ抜いたかを語る場ではない。
 これはれっきとした化け物の講談なのだ。


(大雨の中に女がしゃがみ込んでいた。生きた蛙を食べていた。
 橋のところに白い着物の人影を見た。すごく背が高い。
 曲がり角に何かが引きずられていくのを見た。
  引きずっているものはぼろぼろの人形だった。
   でもあれは人間のようにも見えた。
 隣の学校のAくんがいなくなったらしい。
 雨上がりに窓から女の人がこっちを見ていた。すごい目だった。
  怖かった。
   あれはおばけだ。
 ずるずるひきずるからひきこさんと呼ばれている。
 ひきこさんの家には引きずられた小学生がコレクションされている。
 走るのが速いから逃げてもすぐ追いつかれてしまう。
)


 森妃姫子は死ななかった。この気高い娘はどれだけつらい目にあっても、自分で自分の命を放り出すようなことはしなかった。森妃姫子は忘れなかった。恨みのままに生き抜いた。部屋の中、募らせたのは年月だけではない。カーテンの隙間から世界を覗く。それが娘に与えられた唯一の世界だった。ランドセルを背負った子供たち。幸せそうに歩く人々。
 (ああ妬ましや、恨めしや!)

 娘は嘆いた。
 ――こんな醜い顔を誰にも見せたくない。
 部屋の中、嘆く口元には刃物が鈍く光っている。半月形に引き上げる。ぎちぎちと押し込む。それでまた嘆く。言動の不一致を糾弾する者は誰もいない。癒えては傷つけ、割れた鏡に血を注ぐ。傷は痛いままでいい。そうすればいつまでもいつまでも忘れない。痛みも、恨みも、全部生きたままでいられる。

 娘は顔を覆ってわめいた。
 ――こんな醜い顔を誰にも見られたくない。
 だから娘は雨を行く。視界のきかない雨の中、傘も差さずに白い服。裸足の足は泥まみれ。だらりと伸びた腕にはお気に入りの子を連れて。
 ずるずる、ずるずる、と。

 娘は割れ鐘のような声で質問する。
 ――私の顔は醜いか? 私の顔は醜いか?
 裂けた口を引きつり哄笑する。花が咲くように嗤う。何と答えても無駄だ。美しきも醜きも同じ。娘の口は化け物らしく耳まで裂けた。両の眼は血走り、眦には血が凝り固まっている。


 かようにおぞましい姿を見て、誰があの花のような娘を想像できよう。
 雨の中笑うのは可憐な少女ではない。血にまみれ薄汚れた女の姿の化け物だ。
 いったい誰がこの娘を哀れんでくれよう?――そうだ、哀れまれよ! 怨嗟の塊となり果てた、娘を誰もが畏れた。諸君等にはわかるまい。生きながらに鬼と化した化生の身の上を。
 そう、娘は生きながらにして鬼になった。
 生きながらにして鬼になった!

 なまなりの鬼だ!

 半身は人だ。人は喰らわぬ。
 半身は鬼だ。人を殺す。
 人を喰らわぬ鬼は本当の鬼にはなれぬ。しかれどその身は浮き世を離れて戻らない。角は生えねどその顔は般若にも劣らず、半分は人の身でありながら人の子を引きずって殺す。人鬼の狭間をさまよう、鬼よりもあさましい、かような化け物になり果てたのだ!
 しからば諸君、存分に畏れ恐怖せよ!
 その恐怖こそが娘の生きる唯一の糧なのだ。

 ひきこのひきはひいきのひき、ひきがえるのひき、ひきこもりのひき、ずるずるひきずる。

 現世でその名を呼ばれる限り、娘は永遠に報われない。噂ある限り生き続ける。そういう形の化け物だ。娘は雨に閉じこめられた。今日も一人で裸足の道を行く。諸君らの中に年端も行かぬ少年少女があるならば、なまなりの鬼が雨音に混じって囁くだろう。


 『わたしのかおはみにくいか?』



 ――無論、その顔は鬼よりも鬼らしい化け物の形相だ。




「娘生成り、雨を引きずる」
(あるいは「森妃姫子の話」)了




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