忘霊は紅月に哭く





 最初はちょっとした悪戯心だった。そもそも〈彼〉は常日頃から思っていたのだ。昨今の世の中には浪漫が足りていないと。デジタルの世界は無味乾燥で、何より無臭だ。〈彼〉は失われた時代を、あの鼻につくほどの郷愁を心の底から愛していた。
 思い出す。遠い昔、〈彼〉がまだ幼い頃、近所の仲間たちと毎日のように遊びまわった日のことを。〈彼〉が最も熱を上げていたのはごっこ遊びだ。当時流行していたヒーローや紙芝居の筋をなぞり、役になりきって遊ぶのだ。〈彼〉もよく家の引き出しから抹香臭い風呂敷を引っ張り出しては、マント代わりに首の下で結わえたものだ。
 そう、〈彼〉はいつでも怪盗の――いや、怪人というべきだろうか――あの偉大なる盗賊の役をやりたがった。何百もの変装で人々を翻弄し、宿敵の探偵と、闇夜に追跡劇を演じてみせる。追い詰められ、どんな危険に陥ろうが、月を背後に高笑いで大衆に応えてやる。神出鬼没、そして大胆不敵のあの悪党に惹かれてやまなかった。
 もちろん彼らとは住む世界が違う。子供ながらにそのことは重々承知していた。しかし頭でそう思っていても、この世界のどこかには彼らが暗躍する世界があるのではないか、いやきっとあるはずだと〈彼〉は子供心に信じていた。夢を見ていたのだ。

 そんな〈彼〉も大人になり、時は流れ、それでも〈彼〉は幼い頃に信じていた世界を捨て切れなかった。〈彼〉は小説家になった。今の現実で彼らに出会うことはできなくとも、せめて紙面に彼らの存在を見出そうと考えたのだ。〈彼〉が書くのはもちろん前時代的ともいえる冒険活劇の物語だった。
 しかし、世間は〈彼〉の作品を一笑の下にあしらった。

「こんな古臭いもの、今どき流行らない」
 それが人々の下した評価だった。

 〈彼〉は悲しんだ。自身の作品が世に受け入れられなかったことに対してではない。昔はあんなにも熱狂し、少年たちがこぞって愛したものが、今や人々の心から失われてしまった。その事実が何よりも〈彼〉を悲しませた。
 〈彼〉はひとり、孤独のうちに考える。

 ――語られなくなった物語はどこへ行くのだろうか。

 物語の彼らは存在してこそいない。作品と一体化した彼らは物語そのものといえるだろう。それがどうだ。忘れられ、失われてしまった彼らが語られることはない。そうした語られなくなった物語というのは、死んでいるのと同じなのではないか。彼らは語られず、忘れられ、そうして少しずつ殺されていくのだ。これが死でなくて何だろう?
 ならば彼らを殺すのは誰だ――それは世間だ。
 世の人々は流行をかさに着て物語を消費し続ける。それが世の常だ。それを悪いこととは言わない。しかし誰かが彼らを、あの大胆不敵の怪人を甦らせなければ。彼らは時代の波に押し流され、本当に死んでしまうかもしれない。そう、誰かがやらなくては。

 その時に〈彼〉は気づいた。
 その誰かというのが他ならぬ〈彼〉自身なのではないか?

 頭ではそんな馬鹿なことをという理性が働く。しかし一旦灯った火が〈彼〉を掻き立てて止まなかった。それは人を驚かせるためには手間を惜しまぬ、彼ら怪人の後継者としての血がそうさせるのだろうか。
 誰よりも彼らのことを敬愛し、彼らに憧れた〈彼〉はいつしかその考えに取り憑かれていた。デジタルに生きる現代児とて〈彼〉と同じ子供だ。現代の子供たちにはあの素晴らしい彼らを知る機会がないだけだ。ほんのきっかけを作ればいい。彼らを知る機会さえあれば、勝手に惹きつけられてしまうだろう。かつて〈彼〉がそうだったように。知る機会、たとえば、現実世界で噂になったなら――
 ほんの悪戯心と多大な憧れ、使命感が彼の背を押した。


 ……知ってる? ××町の交差点。あそこ、夕方になったら出るらしいよ。全身黒ずくめの怪しい人。覆面と帽子で顔を隠してるんだって。長いマントみたいなのを着てるから男の人なのか女の人なのかすら、わからないの。
 家に帰る途中に見たって子がいる。交差点の所に変な人がいるなって思ったんだけど……あ、その子の家、交差点を渡った先にあるらしいんだよね。だから気味悪いって思ったんだけど仕方なくて。それで遠巻きに通ろうとしたらさ、黒ずくめがすっごい速さで前に回りこんでくるの! さっきまで遠くにいたのに!
 その子、びっくりして声も出なくて、でも黒ずくめはその子に触ったりとかはしてこないのよ。ただ、ゆうっくり、見せつけるように帽子と覆面をとるの。するとなんとその下からは、自分そっくりの顔が!
 で、言うのよ、低い声で「おれを忘れるな……」って。
 ほんとだよ。隣のクラスの子が見たっていうんだから……



 マントなど数十年ぶりに身にまとった。流石に幼い頃のような風呂敷ではなかったが、形だけはまるで当時に戻ったようだ。黒ずくめの衣装に身を包み、〈彼〉は不思議な高揚を感じていた。ごっこ遊びの延長線に、こんなことをするとは、幼い自分は想像しなかっただろう。――いや、真剣にあの人の影を追い求めたあの頃ならば、こうなる自分をも夢見ていたかもしれないな……。


 ……そいつは頭がおかしくなった小説家なんだ。俺の兄貴の知り合いが出版社で働いてるから聞いた話なんだけどさ。その小説家は、自分の本があまりに売れないもんだから、自分が書いた登場人物になりきって人を襲ってるんだ。そうすれば、自分の本が話題になるって考えたのかもな。狂ってるんだ。……


 〈彼〉は人を傷つけないという点においては特に気を遣った。物語の彼らはいついかなるときでも相手に危害を加えないのだ。そう、特に〈彼〉が最も憧れたあの人は、人の血を嫌い、ピストルは見せかけだけの玩具を使う。暴力で解決するような無様はしないのだ。だから〈彼〉は必要最低限の物しか持ち歩かなかった。マントを身にまとい、わざと人目に付くように歩いて回った。目撃されればすぐに退散する。場所を替え、いくつか転々としては、日が沈む頃に根城へ帰るのだ。


 ……〈影男〉はもともと小説家でさ、それが怪盗……怪人だっけ? その怪人なんちゃらのこと、子供のときから超好きだったんだって。だから彼になろうとしたんだけど、駄目だったの。この間ニュースで六十五歳の主婦が、△△トンネルの路上で鉄パイプで殴られ重傷ってやってたでしょ、見てない?
 あれ実は〈影男〉に道でばったり会った主婦があんまり大声で叫ぶもんだから、黙らせようとした〈影男〉にやられたらしいよ。その主婦っていうのが、近所のおばさんの知り合いが働いてる病院に入院してるらしくって。でもその憧れてる怪人っていうの? その怪人って人を傷つけないので有名なんでしょ? じゃあなんでそんなこと……



 ごっこ遊びの余韻に酔った〈彼〉の頭にも、何か不測の事態が起こっているということが感じ取れた。このところ町でおかしな噂が囁かれている。それは〈彼〉の耳にも伝わった。
 〈彼〉はたしかに黒ずくめで、夕方から夜にかけて町をうろつく程度のことはした。気が大きくなって何人かに声をかけたのも事実だ。客観的に見て十分に不審ではあるが、犯罪と呼ばれるほどのことではない。
 だがこの噂は何だ?
 △△トンネル? 暴行事件?
 〈影男〉とは〈彼〉のことか?


 ……そうだよ。そいつは憧れになり損ねたんだ。噂なんてわからんものだ。本当かどうかなんて確認が取れないんだから、みんな好き勝手に言っている。それでいつの間にか関係ない――そもそも起こったのかすらわからない事件と組み合わされちまった。〈影男〉は憧れを汚されて怒っているのさ。だから間違った噂を流した人物を捜している。そんでそいつを見つけたら、顔を剥ぎ取ってしまうのさ……


 どういうことだ? 身に覚えのない話が人々の間に伝播している。
 連続殺人鬼、顔を剥ぎ取る、〈影男〉?
 〈彼〉にそんな心当たりはあるはずもない。犯罪事件として報道されるようなことにまで手を染めた覚えはないのだから。なぜこうなった? なにが起こっている?
 〈彼〉は混乱する頭で考えた。
 ――これはあくまで噂話なのだ。夜道を彷徨う不審な姿に、世間が勝手な解釈を施した。そうしたただの噂話が、現実の〈彼〉を置き去りに、一人歩きしているのだ。
 〈彼〉は恐怖と焦りを感じた。このままでは〈彼〉の尊敬する先人達の名を汚しかねない。それだけは、それだけは断じて避けなければ……。


 ……〈影男〉は何百もの顔を持っていて、普段は変装しているから誰も素顔を知らないんだ。自分の話をしている人を見つけると、こっそり近寄って聞き耳を立てているらしい。それで正体を隠して訊くんだよ
「誰からその話を聞いたんですか?」ってね。
 誰々から聞いたんですよーって答えれば、〈影男〉は満足して立ち去る。今度は話を教えたやつのところに行くんだろうね。〈影男〉はさ、噂を流した人間を捜しているんだよ。自分を〈影男〉と名づけた人間を見つけ出すためにね。だからもし、〈影男〉の質問に答えなければその時は……



 誰だ? 刃を振るうのは誰の悪意だ?
 〈彼〉はいつしか、横行する噂を払拭しようと躍起になっていた。相手の顔を剥ぎ取って殺す怪人だと、そんなものは〈彼〉の望むものとは真逆のものだ。〈彼〉が心底憧れた怪人たちは、血を流さず相手をやり込める、ある種の美学を持つ大人物だ。たとえ自身が怪人の名を着ることになろうとも、その点だけは譲るわけにはいかない。
 そうしたことばかりに目が行くあまり、〈彼〉は自身の身を振り返ることができなかった。


 ……〈影男〉はこの話を聞いた人間の所に三日以内に来ます。〈影男〉は「誰から話を聞いた」と質問してきます。もし答えなければ噂を流した張本人と見なされ〈影男〉に殺されます。助かるためにはこの話を三日以内に五人の人間に話しましょう。そうすれば〈影男〉に質問をされても助かることができます……


 語る側に嘘をつこうという意識はない。人々はただお話を面白く脚色してやろうと少しだけ色をつけて話すのだ。しかしその小さな脚色は、人づてに伝言される内に隠しようもなく膨らんでいく。様々な虚飾を伴って。繰り返すが、語る側に嘘をついている自覚はない。そうだ、大衆の語る意識されない悪意、その「無意識の悪意」こそが、〈彼〉を殺したのだ。
 〈彼〉はもはや〈彼〉という一人の人間ではなくなっていた。人々の口を介して語られる都市伝説、怪人〈影男〉。噂話が流布する過程で現実の身は失われ、〈彼〉は都市伝説として恐れられる対象に成り果てていたのだ……


*****


▽……そんな噂があるんだって。友達の友達から聞いたんだ。
▽何それ聞いたことなあい。変な話。
▽でもこれ本当にあったらしいよ。その話の中の〈彼〉って呼ばれてる人は、最後には都市伝説の〈影男〉そのものになっちゃってね……
▽そんな話もうやめようよ。
 ……それよりさあ、後ろの人知り合い?
 さっきからずっといるけど。
▽え?

 振り返る。背後には夜よりも暗い闇色が夕日を受けてはためいている。仮面の下、凶悪な笑みが鈍く光る。誰でもない怪人が笑う。〈影男〉が次に何と言うのか、君たちはすでに知っている。




[ぼうれいはあかつきになく(裏)→]



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