どこかで見たことのある天井だ、と思った。和室の薄暗い天井。なんとなく見覚えがある。家の座敷の天井がこんなだった。とてもよく似ている。けど、うちじゃない。ぼくは眠っていたんだろうか? どうやら布団に寝かされているらしい。どこだろう。外はなんだか、がやがやとやって騒がしいし……あ、 「キッタさん」 思わずそう声をかけていた。すぐ隣、障子の前に立っていたのはキッタさんだった。部屋の明かりは点いていなくても、障子の向こうは赤くて明るいから人影は際立って見える。 「え。キッタさん、だよね?」 ほとんど確認もせず声をかけてしまったことを後悔した。上半身を起こす。目を凝らしてもたしかな証拠が見つからない。相手は障子に片手をかけている。これから出るところか、入ってきたところなんだろう。返事がなく不安になってきたころ「やあ」と返答があった。 「どうしたのこんな所で。っていうか、ここどこ……痛っ!」 頭が痛い。なにこれ。がんがんする。頭蓋骨の内側で釣り鐘を鳴らされてるみたいだ。キッタさんが「大丈夫かい?」と心配そうに言ってしゃがんだ。痛いのを堪えて「なんとか」と返す。 「……キッタさんも大丈夫だった?」 「僕が? どうして僕なんだい?」 「え、だってあの後大変だったんじゃない? 祭りの儀式でほら、なんか……色々あったじゃん。オレ途中でよくわかんないことになっちゃってさ。あんまり覚えてないんだけど」 自分で言っていてよくわからない。お面がどうにかして、キッタさんに会って、それから 「……ごめん、いま何時でここどこだっけ?」 「君、本当に大丈夫か?」 薄暗い中でも、声で相手が顔をしかめる姿が想像できた。 「ここは月ノ宮神社の奥の間だ。今は午後八時を回った頃。君は敷かれた布団で眠っていた。そして別段僕に変わったことは起きていない」 そういえば、このキッタさんはあの、死んだ人みたいな白い着物を着ていない。黒っぽい長袖のTシャツに、下は長ズボンだ。九月ってわりとまだ暑いと思うんだけど……キッタさんは暑さを感じない体質なんだろうか。制服も一足早い冬服だし。 「でもなんでこんなとこに……」 「自分で気づいていないのか? ――君さっきからひどく酒臭いぞ。どこかで飲んだか飲まされでもしたんじゃないか?」 「え?」慌てて息を吐いて臭いを確認する。「うわ、ほんとだ……でもそんな、お酒? どこで飲んだんだろ? 覚えてないな」 「そういえば」『キッタさんはどうしてこんなとこに?』そう言おうとして頭をかく。「いたっ」 手首にも痛いが走った。頭は痛いわ、なんでこんなぼろぼろなんだ。 暗い中、角度を変えてよく見てみる。深く、ひっかいたような傷だ。右手にも、左手にもある。両手の甲と、手首にかけて。 どうやったらこんな傷が付くんだろう? 虫さされで引っかいたにしては、自分でこんなかきむしり方はしない。たとえば――たとえば、首を絞められた人間が、必死に手を外そうと抵抗した、とか。 「うそだ」 それじゃまるでぼくが、首を絞めた側、加害者、ということになるじゃないか。そんなことあるわけない。あれはキッタさんが、じゃなくて、あのお面がやったんだ。あのお面が、でもあのお面の下は、たしか、たしかにぼくだったから 「おい、Tくん?」 「なんでもないよ。ちょっと怪我してたみたい。大丈夫。さっきのも寝てる間に変な夢見てただけだと思うから。起きたばっかでちょと混乱してて。気にしないで。――なんでもないよ」 なんでもない、と繰り返す。そうだ、なんでもない。想像するにぼくは、どこかで間違ってお酒を飲んで、その足でお月見神社まで来て、倒れた。それだけの話だ。たぶん。 「……僕には別段問題はないが、君には随分問題が多いようだ。なにもないって顔じゃないぜ。それに僕の名前は昨日も言ったように、できればさん付け以外の名前で呼んでほしいな」 キッタさん――じゃなくて、キッタくんと呼ぶことにしたんだった――は仕方ないなと首を振った。肩の荷物(その存在に今気づいた)をかけなおす。 「僕は先に失礼するよ。実は無断なんだ。見つかると言い訳立てるのが面倒なんでね。せいぜい誰かに鉢会わないことを祈るよ。ぜひ今度ゆっくり聞かせてほしいね。その夢の話とやらを」 そう言って立ち上がろうとする彼女に、なにか言わなければいけないことがあった、気がする。……そう思ったときには、ほとんど反射的に、相手の手首を掴んでいた。手首を掴んで引き止める形だ。よかった。冷たくない。 「なんだいTくんいきなり」 「ごめん」慌てて手を離す。いきなり女子の手を掴むとか、怒られても仕方ない。「ちょっと、なんかあれで」 どう言い訳しようか迷う。正直自分でもなんでこんなことをしたのかわからない。逃げ道を探す。すると――キッタくんの鞄に変なものがついているのが目に付いた。なにあれ。紐? にしては動いてるし。虫? ミミズ? 害はなさそうだけど、気づいてそのままにするっていうのもなんだ。「ちょっとごめん」腕を伸ばして引き抜きにかかる。持った感じはわりと砂っぽい。引く。じゅるるるるると抜ける。予想外に長い。うえ、と声が出そうだった。 ミミズというより例の“しみ”の仲間みたいだ。それにしてはよくもまあ……お育ちで。できるだけ遠くに放り投げる。 キッタくんは一連のぼくの動作を不思議そうに見て 「なんだ。ごみでもついてたのか。髪の毛かな」 と首をかしげた。髪の毛なんてもんじゃなかったぞ、とは言えない。虫だと気づいていないなら、知らない方がいいこともある。 「みえすぎるのも困りものだな」 キッタさんがぽつりと呟いた。 「え?」 「こんな暗いところでよく見えるなと思っただけさ」 それじゃあ、と障子を開けてさっさと彼女は出て行ってしまった。『みえすぎるのこまりものだ。』最近言われた台詞だ。その言葉にぼくはなにも返せなかった。暗い部屋でぼくは尚もぐるぐるする頭を抱えた。 その後、少ししてから迎えが来た――父さんだった。(袈裟にフルフェイスヘルメットという格好の人間を、ぼくは片手で数えられるくらいしか知らない) 「御子南(みこみなみ)さんから連絡をもらってな」と父さんは言った。どこまでなにを聞いたのか。父さんはぼくに詳しいことはなにも訊かなかった。そういう人なのだ。ただ一つだけ、質問らしい質問をされた。 「ここに誰か来ていたのか?」と。 ぼくは答えた。「誰も来ないよ。」もちろん嘘だ。 でも、キッタさんはここにいることを誰にも知られたくなかったんじゃないかだろうか。無断だとか言っていたし。暗闇に佇んでいた彼女を思い出すと、なんとなくそんな気がした。それどころか本当にキッタくんがここに来ていたかどうか怪しいような気さえした。 帰りはバイクの後ろに乗せて家へ向かった。 ちなみにここでは、後に留めておくようなやりとりはなにもない。帰りには本当に何事もなかった。父さんと一緒だと、ぼくはあまり変なものを見ない。当たり障りのない話題。もしかしたら気を遣ってくれているのだろうか。それとも本当になにも知らないのか。叱りの言葉といえば「酒はやめとけよ」くらいのものだった。それですら、信号待ちの短い時間で、うちで開催中の酒盛りの話のついでのようなものだ。ぼくは頭痛の残る頭で強くうなずいた。 家の下まで十分もかからなかった。さすが改造バイク。名前は知らないが、やたらに大型だ。これで公道を走っていていいのか、ぼくは常日頃疑問に思っている。無茶苦茶速いし。田舎の道だから許される、ということにしている。 バイクの後ろから降りて父さんにヘルメットを渡す。父さんはそれを受け取って、自分もごついヘルメットを取った。わかっていてもついまじまじと見てしまう。 父さんは「どうかしたのか」と訊いた。「俺の顔になにかついているか」 ついてないよと答えそうになった。目が一つ、ついてないよ。 父さんは――『一ツ目の坊主』は――不思議そうに目を瞬かせる。 顔の真ん中の大きな目をがぎょろぎょろ動いてぼくをみる。 ぼくは答えた。いつものように。 「なんでもないよ、父さん」 ――所詮、浮世は 「ばけものづくし」 了 back |