引っ張られる。それほど強い力でつかまれているわけでもないのに振りほどくことができない。冷たい手。ぼくは彼女の顔を見ることができない。(正確には、見てはいけない、と思っている。)引かれるまま足を進める。足は階段の方へ向かっている。 階段に足をかける。なにかイベントでも始まるのか、ぼくらと同じ方向に行く人は多いようだ。三ツ目の面がキッタさんの声で言った。 「あの古書店の女はさ、人間じゃないんだ」 足元が暗い。もっと灯りをともしてくれないと、闇に溶けて曖昧な石段に足を取られそうだ。キッタさんは素足に草履のようなものを履いているらしい。あんなもので歩きにくくはないのだろうか 「あんななりで何百年も生きている。それはそれは年期の入った化け物だ」 足元が暗い。灯りに照らされないところではこぶだらけの肌、ぶよぶよとはんぺんのような肌、全身から緑の汁、着物から生えた脚のようなものがかさこそと蠢く。 「キミは気がつかなかったようだがね」 キッタさんは三ツ目の面に取り憑かれている。 「まったく嫌になるよ。『寺生まれのTさん』を期待していたのにとんだ番狂わせだ。こんな化け物に呑まれちまいそうなやつだなんてさ。これもなにかの因果かねえ。皮肉だな」 足下をなにかが通り過ぎた。 「まあ、それならそれで楽しませてもらうがね」 お囃子が鳴っている。階段の上からも、すぐ後ろからも鳴っている。どんどんぴいひゃららと。後ろには踊り子たちが渦巻いている。立ち止まれば波に飲まれてしまう。だから手を引かれるまま進むしかない。どこか遠くで笑っているのは誰だろう。 「化け物がみな恐ろしい姿をしていると思っていないか? ならば人間の面をつけた化け物はどうだ? あそこの彼はどうだ、ちゃんと人間か? ボクはキミの目にちゃんと視えているか? ――人間と、人間の振りをした化け物の区別がついているか?」 なぶるようにキッタさんが言う。ぼくはうつむいたまま、顔を上げることができない。その顔を見るのが怖い。つかまれた手は相変わらず、死人のようにつめたいままだ。 「なあ『寺生まれのTくん』答えてくれよ。視界に入るもの全てが曖昧で、境界線で線引きできないなら、キミにとっての現実はどこにあるんだ?」 その台詞はどうしようもなく恐ろしい。 お囃子が鳴っている。すぐ耳元で。 「――不安かい。わかるよ。キミの気持ちはようく、視える」 自分の台詞に陶酔しきった様子でキッタさんが言う。ぼくは石段を登っている。お月見神社まであと十三段だ、となぜか思った。死刑台へ向かう階段と同じ段数分だけ続いているはずだ、と。 「つまらない。視えすぎるのもつまらないな。まあ、最初からわかっていたことだがね。安心しなよ。ボクに全部任せればいい。もっと面白可笑しく演出してあげる。平穏無事にやんごとなくなんてつまらないだろう?」 不意に後ろからTシャツの裾を引っ張られた。 キッタさんに手をつかまれていなければ、バランスを崩して階段を転げ落ちていたかもしれない。振り返ると、そこには狐の面をかぶった浴衣姿の子供がいた。 「なりませんよ」 狐の面が言った。声からするとどうやら少年のようだ。 「やっと追いつきました。店を出るあなたの様子がどうも変だったものだから、小堺を運んでから様子を見に来たのです」 コサカイを運んでから、という言葉になにかを思い出しそうになった。 「あなた、なりません。そんなものを顔に構えていったいどうしようというのです」 ぼくに言っているのだろうか。それともキッタさんに? だとしたら、この狐の面をかぶる少年は、なにかしら事情を知っているらしい。何者なのだろう。 「なにをしようとされているのか存じませんが、ひとまずその仮面を置くべきです。それはやはり良くないものです。箱から出してはならぬものでした。さあ、まずはその仮面を、こちらへ――」 ぼくはキッタさんの方を仰ぎ見た。そのときだった。 階段の上から腕が伸び、少年の胸を押した。 一瞬のことだった。不意を突かれた少年の薄い身体は簡単に後ろへのけぞった。 よりどころを求めて伸ばされた少年の腕が、身体が、一瞬にして階段の闇に吸い込まれる。 とっさに右手で彼の腕をつかもうとした。しかし、反対の手が強く引かれた。そこには祭りの灯で赤く色づいた、木彫りの面がたたずんでいた。三ツ目の鬼が冷ややかに下を眺めてる。――動揺が喉に詰まって言葉が出てこない。 「平気さ。あれも人間じゃないからね。先を急ごうよ。お神楽が始まる」 そう言って事も無げに手を引かれる。後ろを振り返る。そこにはただ、ぼんぼりに煮詰められた深い闇があるばかりだった。少年の姿はどこにもない。 少年の声を思い出す。 日本では三ツ目信仰は珍しいです。あれはあなた、印度だとか土耳古だとか、大陸由来のものですよ。第三の目は元来……元来、なんだった? 三ツ目の面は、 「なにか由来があったはずだ……なに、気にするなよ。わからなくたってちっとも問題ない。世の中にはわからないもののほうが多いじゃないか――そんなことを言っている間にほら着くぞ、お祭りだ。もうつくぞ」 視界がひらけた。 階段を上りきった先は、露天の賑やかさと異なり、いくらか厳かな空気が漂っていた。つづらと笛と鳴り物の音がこうこうと響いている。もう祭祀は始まっているようだ。本殿の前に設けられた四角形の舞台では、着物姿の神官が舞いを演じている。四隅に置かれた灯り台に照らされて、まるでこの世の光景と思われない。 そこには巨大な満月が浮かんでいた。 つづらと笛と鳴り物の音。まばらな観衆。三人の演者。中心で舞うのは『目隠しの面』だ。――この演目の筋はなんだった? おにはらい。そうだ、『鬼祓え』だ。鬼を祓うためのお祭りだ。満月の夜には『人ではないもの』がこの町に集う。だから、その中に悪いものが混じらないように、悪い鬼を追い払う。そういう筋だったはずだ。 これは悪い鬼を祓う、儀式なのだ。 ではどうしてこんな儀式の只中に―― 「踊るが鬼なら見るは蟒蛇。人の子ならば手を叩いては拍子を打ち遣れ。所詮、浮世は化け物ばかり。ならばなにをか恐れよう?」 ――鬼が、出歩いているのだろう。 三ツ目の鬼はまっすぐに舞台へ上がった。誰もそれを止めなかった。そもそもその存在に気づいていないようだった。鬼だから、誰にも見えていないのかもしれない。世界が動きを残したまま、止まってしまったかのようだ。 三ツ目の鬼は、両手を組んで祈りの体勢を取る『目隠しの面』に近寄ると、その正面に立った。蹲ったまま動かない『目隠しの面』は、この期に及んで目の前の鬼に気づく様子はない。 「見えないのは不便だね。――ああ、そうだとも。視えすぎるのも困りものだ」 そう言って、三ツ目の鬼は蹲る『目隠しの面』の首に両手をかけた。親指にぐっと力が入る。初めて『目隠しの面』の小柄な身体が反応を示した。掴んだ喉から息がこぼれる感触があった。手足が痙攣したように騒ぎ出す。両手を外そうと試みているのがわかる。しかし首を絞める力は一向に弱まらない。 三ツ目の鬼が首を絞めている。 舞台の上で、三ツ目の面が、もう一方の面の首を絞めている。 やめさせようとしても凍りついたように身体は動かない。声を絞り出す。「だめだ」と一言だけかろうじて発せられた。 「黙って見てろよ。ここが一番面白いところなんだから」 その言葉のとおり、ただ見ていることしかできなかった。 『目隠しの面』は己を絞殺しようとする相手の両手を掴んだまま動かなくなっていた。まるで人形だ。それなのに、温度はまるで人間だ。次第に手のひらにじっとりと汗がにじむ。このままでは三ツ目の面が殺してしまう。 もうだめだ。もうだめだ、と思って目を閉じた。 だから、決定的な瞬間を見落としてしまった。 遠く乾いた音が鳴るのと同時に、三ツ目の面が落下していた。 ――面の下の顔は、男だ。 キッタさんではない。歳は若い。同い年くらいじゃないだろうか。短髪の黒い髪をしている。どこかで見た顔だ。どこかで、と考えてすぐに思い当たった。 ――面の下の顔は、ぼくだ。 ああ、なんだぼくか。どうりで。キッタさんがこんなことするはずないと思った。 ぼくは素早く大衆を見渡した。人の頭の中に突き出て、銃が身が伸びている。ここはお祭りだからきっと射的で使う銃だ。そしてあれはキッタさんに階段から突き落とされた狐の面の少年だ。確証はないがなぜだかそう直感した。 両手を離す。『目隠しの面』がどさりと音を立てて舞台に横たわった。喉を庇うようにむせて咳き込んでいる。一線は越えなかったらしい。自分の息まで荒くなっているのがわかる。両手を伝うのは汗ではなく、血だ。 ぼくは巨大な月を背景に『三ツ目の面』と『目隠しの面』を見下ろしている。 一方でぼくは背後から伸びた無数の手に押さえつけられている。地面に頭をこすり、両腕を後ろで絡められている。どこからか真っ黒い幕が舞った。それは舞台全体をすっぽり覆い隠せるほどの大きさで、実際にぼくらごと観衆の目から覆い隠してしまった。 暗幕で世界が覆われる。 ぼくは笑った。頭から幕を被って。ぼくはそれを倒れ伏した体勢から仰いだ。ぼくが笑っていた。にたにたとして、それはそれはいやらしい笑い方だった。ぼくなのにまるで他人のようだ。 そいつはぼくを見て「残念。これにて幕だ」と両手を広げて見せた。まだもう一言二言話していたような気がするが聞き取れない。代わりに、化け物だ、化け物だ、と耳元で打ちやる声がした。遠くでお囃子の音が鳴っている。ああ、お祭りだ、とぼくは思った。 back |