キッタさんは一人でどんどん先を行く。ここがどこで、いつの間に、そしてどういう状況なのか。事情が飲み込めないぼくはひとまず彼女の背を追いかけた。 最初の疑問「ここがどこ」の答えは、案外すぐに見つかった。ぼくの目的――お月見神社へ向かう道だ。ただし正道からではなく、裏から回るルートを通っているらしい。らしいというのはぼくが普段この道を利用することがないせいだ。ここは居住区とは裏手の方向で、道を逸れると林だか森だかわからない所へ入り込んでしまう。人家がちらほらあるだけのなにもないところだ。 ――それでも人影があるのは、今日がお祭りだからだろうな。 「虫ってなんのことだったんだい?」 唐突に彼女はそんなことを言った。一瞬ぼくはそれが自分に向けられた質問だと気づかなかった。前を行くキッタさんが、もう一度同じ質問を繰り返した。 「古書店の床に妙な虫がいると言っただろう。話してくれよ」 「別に……ただの虫だよ」 答えながら、記憶を整理する。どこまで正気だったのか知らないが、ぼくはそんなことを口走っていたらしい。 「じいちゃん面倒臭がりだから、本棚の間とかにたまに虫がついてるんだ。“しみ”っていうらしいね。紙に魚って書いて。古本とか紙を食べる虫なんだって」 適当な話で間をつなぐ。答えながら、ぼくはいつお面のことを切り出そうかとタイミングを窺っていた。どういう経緯で彼女の手(というか、顔)に面が収まったのがわからない。そうだ、本屋で虫を見たあたりからの記憶がすっぽりと抜け落ちている。二、三時間分くらいだろうか……いまが何時なのかわからない。 「定期的に虫干しすれば全滅なんだけど、最近暑いから掃除さぼってたんだろうな、たぶん」 時間が知りたくて空を見た。どうやら携帯電話は家に置いてきてしまったらしい。月が出ている。満月だ。心なしかいつもの月より大きく見える。もう夕方、いや、この暗さは夜といっていい時間なのかもしれない。 キッタさんの背を追って角を曲がる。居住区が近いせいか人がだんだんと増えてきた。 少し道が開けて、行く手にあるのは、お月見神社につながる裏の参道だ。ぼんぼりが固まって、神社のあたりだけが赤く燃えているように見える。どんちゃんいう楽しげな音。煙のにおい。にぎやかな空気がびりびりと伝わってくる。 ――ああ、お祭りだ。 つい、そんな当たり前すぎる感想がこぼれそうになる。 「なあ寺生まれのTくん」キッタさんがまっすぐお祭りの方角を見据えて言った。「それはいつから見えるんだい」 「いつからって……」質問の意味がわからない。「どういうこと?」 「そのままの意味さ。生まれたときから見えたのかい?」 キッタさんの言う『それ』とはなんのことだろう。虫のことだろうか。お祭りに気を取られて、完全に上の空だった。 「そりゃ、生まれたときからじゃない?」 質問がわからないので適当に返事をした。前を歩いていた彼女が立ち止まる。振り向く顔が、なぜか怒っているように見えて、ぼくはつい息を呑んだ。 ――三ツ目の鬼、と言ったのは、誰だったか。 彼女はその三つの目でぼくを見て、いや、これはお面だ。木で彫られただけのお面なんだ。お面の下にはキッタさんが、転校生でつかみどころのない女の子がいる、はずだ。 お面の彼女は再び前を向く。振り向きざまに「そうかい」とそっけなく言ったきり、それ以上なにも話すことはないようだ。釈然としないが、ぼくは黙るしかない。 ここの鳥居は本殿正面と反対側にある。だからだろうか、表の赤い鳥居に比べていくらか粗末だ。『とりあえず石で鳥居を作ってみました』って感じ。お店も表鳥居の方が多いはずだ。そっちの方が入って来る人も多いだろうに、どうしてわざわざ裏の方から入るんだろう? 「表鳥居には恐い犬が二匹、番をしているからね。だからそっちは通れないんだ。あんなものどうとでもできるが、できることなら穏便に済ませたいじゃないか」 そう、だったっけ。 「まあそんなことはどうでもいいのさ」 ゆっくりと歩くぼくらを、後ろから着物を着た人たちが追い抜いていく。その顔には、お面。みんなお面をつけている。 お面、面……面、面、面……この町はお面だらけだ。普段は見られない光景だろう。こんな、面をかぶっていない人間の方が少ないなんて。これを見ると、やっぱりお祭りだなって感じがする。 ――おっと。 よそ見をしていたせいで、すぐ前に人がいたのに気づかなかった。ぼくは相手の背中にぶつかってしまった。 「おやおや、すみませんよ」 低く響く声で、ぶつかった相手が言った。ぼくもあわてて謝った。男だ。背中に子供を背負っている。体格に似合わず、ちょいと覗かせた顔には子供とお揃いでライダーもののお面。それが両腕で背中の子供を負ぶさったまま、もう二本の空いた腕が、申し訳なさそうに、ぺこぺこしながら頭をかく。 キッタさんがぼくの方を見て言った。 「気をつけてくれないと困るなあ。キミはいま強かに酔っているんだから」 誰が……なにに? 「キミがしっかり前を見て歩いてくれないとこっちまで危ないじゃないか。ほら行こう。さあ急ごう。急がなければお神楽が始まってしまう」 鳥居の中、石で舗装された外には屋台がぎっしり立ち並んでいた。フランクフルト、わたあめ、りんごあめ、人形焼き……お祭りと聞いて浮かぶものは大概そろっている。もちろん、ぼくがここ以外の祭りをよく知らないというのもあるけれど。それでも地元の祭りでこれだけ屋台が揃っていたらそれなりに立派、といった規模だろうと思う。いつもなら気楽に出店屋台を回るだけでいいのに。 出店を抜けたところに見える階段。あの階段を登っていけば、神社の一番奥、本殿に到着する。それまでになんとかキッタさんにお面を返してもらわなくちゃ……。 「あの、キッタさん」 「こんな話があるんだ。その昔、ある修行僧が、旅の途中で破れ寺に宿を求めた。寺には誰もいない。その上ひどい荒れ具合だ。とても人間の住むところではない。しかし他に泊まるあてをもないからと、修行僧は堂に入って休息を取ることにした」 ぼくの話はなかったことにされたらしい。彼は早口でぼくの台詞を遮った。(――彼、は? 彼ってなんだ?) 「夜、経を唱えていた修行僧は、堂の外から人の近づく音と声を聞いた」 キッタさんはぼくに構わず話を続ける。 「『こんな時間にいったい誰が。』修行僧は大いに怪しんださ。扉が開いた。するとやってきたものは数にして百人、どいつもこいつも人の頭をしていないじゃないか! あるものは目一つ、あるものは角が生え、なんとも恐ろしい形相だ。修行僧はうち震えた。化け物どもはどやどやと堂に押し入りもう逃げ場はない――――ところで話は変わるけど、この祭りではみんな面をかぶるんだね。その理由を知っているかい?」 「え?」 急に話を振られて反応が遅れた。「なんのこと?」 「どうして月祭りに面をかぶるのか」 この祭りでお面をかぶる理由……ああ、なんだっけ。ハロウィンみたいな理由だったと思うんだけど。 くつくつと、三ツ目の面の奥から、潜み笑いが聞こえる。「そう、まるでハロウィンだ」とお面は言った。 「今晩は『人ならざるもの』が町を闊歩する。この、月祭りの夜をね」 そう話すキッタさんの横を、大きな花を模したお面が通り過ぎる。 「面白いね。祭りに参加する人間は面で顔を隠すんだ。まるでヴェネチアの仮面祭りだ。日本にはなかなかこんな祭り、珍しいんだぜ。参加者全員に扮装を促すなんてのはさ。それこそ一番近いのはハロウィンじゃないかな。『人間は面をかぶり、化け物は人のふりをして、お互いをやり過ごす。』……この月祭りの面はそういう意味なのさ」 ぼくはどうしてだかその言葉が恐ろしく感じられて、誤魔化すように額の汗をぬぐった。この暑い中、平気な顔をしている人たちが信じられない。平気な顔をしているのは、面の顔だ。三ツ目の面がにたにたと笑った。 「話の続きに戻ろう。修行僧は周りを化け物に囲まれてしまった。その数は百。百鬼夜行のおでましさ。化け物たちは堂の座席に次々と座っていく。僧にはもうどうすることもできない。一心に念仏を唱えて震えている他にはね。みなみな次第に席を埋め、一人の化け物が席にあぶれたと見える。化け物は僧の座る居場所を見て火を振り回した。――なあ、この話はどう終わると思う?」 丸々と、野球ボール大に丸々とした金魚が跳ね回っている。小さいプールの前で「うちじゃ飼えないでしょ」「育てるから!育てるから!」「金魚さん返しなさい」なんてやり取りを見て、なんとなく懐かしいような気分になる。忘れてしまっただけで、ぼくもあの親子のようなやり取りをしたのかもしれない。子供は猿のように全身毛だらけだった。 キッタさんは出店には目もくれない。先々と行ってしまう。本殿の方へ向かっているのだ。追いつかないと。早く、止める。止めるんだ。 「待って」 提灯が垂れ下がっている。ぼんやりとした薄赤い明かり。よく見ると、それは吊されたイカだった。イカの腹を膨らまれて丸くして、中に明かりを入れているんだ。明かりはいくつもいくつも、吊り下げられている。神社の本殿へと、伸びている。 「待ってってば」 キッタさんは、まるで亡霊のようだ。人の間をするすると抜けて進んでいく。体が存在していないようだ。ぼくのほうはどんなに急いでも、肩やら腕やら、人にぶつかってしまう。げらげらからから、乾いた音を立てながら走っていくのは、琵琶やら割れ太鼓やら、いつもどおりの光景だ。 日が沈んでいても、こうも人で混みあっていると熱気で頭がくらくらする。まさか本当に熱中症じゃないだろうな、と疑うが、自分ではよくわからない。 「ちょっと。キッタさん!」 人を押しわけ、彼女の左手首をつかんだ。 ――直後、ぼくはつかんだその手を振り払った。 その手はあまりにも冷たかった。ぼくは、この冷たさを嫌というほど知っている。家の手伝い、法事、木箱に収められた、気温はどんなに高くても、どうしようもなく冷たい、ぼくはこれに似た感覚を知っている。知っているが、それは決して言葉に出してはならない。 お面の下で、誰かが笑った気がした。 「息が荒いね。平気かい?」 ぼくはまだ手に触れた冷たさが信じられずにいた。耳の辺りで鈴がちかちか鳴って集中できない。握って閉じてを繰り返し、ぼくは三ツ目の面を見た。木彫りの顔は、歯をむき出しにして笑っているように見えた。 「お面、」やっとのことで言葉をつむぐ。「それは神社のだから、返さなきゃいけないんだ」 「返す?」 「そうだよ。どうしてきみの手に渡ったのか知らないけど、返さなきゃ。そう、だから、とりあえずお面を取って、返してよ」 言えた。 キッタさんはすぐにはなにも答えなかった。 三ツ目の鬼が、じっとこっちを見ている。 そのうち相手は面に両手をかけ、真上に少し持ち上げた。白い首筋、青ざめた肌の顎。鼻の下までをあらわにする。……いま気がついた。彼女は着物を着ている。無地の着物だ。それにしてもどうして、よりによって白無地なんて着ているのだろう。これではまるで、――(言うな。その続きを言うな!)――まるで死人の経帷子のようじゃないか。 陰りを帯びた口元、ちろちろと覗く真っ赤な唇が言う。 「まだ、だめ」 面をかぶりなおすその仕草に、ぼくはとっさに思った。――彼女は三ツ目の面にとり憑かれている。 キッタさんが言う「ほら、早く行こうよ」と。逡巡するぼくに手を差し出す。前にもこんなことがあった気がする。彼女と初めて会った、あのホテルの部屋で。たしか二度目に会ったときだ。ぼくは迷って、キッタさんは手を取った。 でも、あのときの彼女の手は、こんなにも冷たくなかった。 back |