トオノは思い出す。
 白いカップに白いテーブル、床も白色ならば壁もそう。いつ来ても閲覧室の中は白ばかりだ。最初はこの部屋が嫌いだった。赤や金の装飾で彩られた東洋五館と全然違っていて、テーブルと椅子だけが置かれたこの空間はひどく殺風景に思えた。これがかけがえのない場所になったのは、たぶん、ここが海を遠望できる、唯一の部屋だったからだ。海の向こうには本当に世界の果てが横たわっているのか、本に書いてあるような黄金の大陸は実在するのか。
 外の景色はこんなにも色に溢れているというのに、この部屋はとてもさびしいから――油断するとつい、外への思慕に馳せてしまう。少なくともここにいる間だけ、彼女は司書という生き物でなくなれた。
 メジロが白いポットで茶を注ぐ。
 沸き立って上がる白い湯気。これもきっと、彼女がこの部屋を好きになった理由の一つだ。そのうちにトオノがくすくすと笑ってメジロの手を止めた。

「ねえメジロ、私にあなたの分を注がせてほしいの」
「なぜ?」
「いいから」

 彼女の思いつきは、いつもこうして前触れもなしに起こる。メジロはポットと一緒に自分の分のカップを彼女に渡した。機嫌が良さそうに、ゆったりとした手つきでポットを傾けながらトオノが言う。

「『この杯を受けてくれ。どうぞなみなみ注がしておくれ』」

 どうぞ、と湯気の立つカップと共にその台詞を受け取って、メジロが後半を継ぐ。

――『花に嵐のたとえもあるぞ。さよならだけが人生だ』」
「そう、『さよならだけが人生だ。』そうなんだよ、きっと」

 満足そうに目尻を下げ、トオノはふうふう湯気を散らす。先ほど彼女が唱えた歌は彼女と同じ、ニホン人の言葉。このフレーズだけが今でも印象に残っているのは、東洋館へ配属されたばかりの、初めの頃に担当した本だったからかもしれない。

「そうなんだよ、とは?」
「これでおしまいってことかな。やっとこの言葉のわかった気がするの。花も、季節も、それに別れなんて、ここにはなかったじゃない? 突然別れが来るのが人生なんだろうね」
 
 メジロは答えない。
 曖昧な問いに対して該当する答えがないのだろう。トオノは一つ分の呼吸を置いて言葉の先をつぐ。
 
「たとえばもし今とは逆に、メジロが司書で私が図書館なら、ううん、私たちふたりともが、それこそ物語のふたりだったなら――

 こんなさよならは、と。言いかけて、そこで口をつぐむ。
 その先を言ってしまうのはいけない気がした。花を花のまま、春をとどめることができたなら、なんて。それは言うだけ虚しいだけだ。
 沈黙を取り繕うように、トオノはカップに口をつけた。甘いような苦いような茶の味が広がる。次に手を伸ばした、真ん中に穴の開いた円形の菓子。ドーナツという名前だと前にメジロが説明していた。こちらはちゃんと甘かった。――甘いという、味がした。
 メジロはトオノに強いて聞き返すことはしなかった。
 しかし代わりにこう言葉を返した。

「その句を題材に後世このような詩が作られた。
 ――『さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう』」

 淡々とした口調で話すのでトオノは最初、彼が詩を詠ったのだと気がつかなかった。口に入れた菓子を飲み込んで、トオノの頭は詩の意味について考え出す。また来る春は、とは、嵐で散っていく花に対したものだろう。彼らの付き合いももう長くなる。トオノにはメジロが言わんとしていることを理解した。

「優しいんだね、メジロは」
「息災で。トオノ」
「次の春はいつ、いいえ、次はいつ会えるかな?」
「また会えるならば、そのときに」

 ふたりとも、口に出さずともわかっていた。
 それは気が遠くなるような未来か、あるいは途方もない過去の中にしかないことを。わかっていて、通り過ぎるのだ。

「メジロも元気でね」
「私は病気にはならない」
「じゃあ、」

 トオノが頼りなげに小指を立てて、相手の方へ腕を伸ばした。何かの本で覚えた約束の方法。同じように小指を差し伸ばしてくれるメジロならば、それが何だったか知っているかもしれない。小指が交わる。
 約束にもならないような約束。
 もちろん実際に触れあえるはずはないのだけれど。
 この小指を絡めていると信じたならば、それがふたりにとっての現実で、また春は来るのだと信じたならば、それがふたりにとっての現在だ。
 小指がほどける。もう時間だ。
 別れのために、ふたりはほほえんだ。

「それじゃ、またね」
「ああ。それではまた」



*******



 見送る背中に、身を切られるような痛みを、少しだけ期待していたのに。実際には劇的な変化も悲しみも何もない。メジロは幾種もの書物で喪失感が『心に穴が開いたような』と形容される理由の一端に触れた気がした。ちょうどこの菓子に開いた穴のように、存在しない心に風が抜けるように感じる。
 さっきまでここにいたトオノと同じように、自らも菓子を口に運ぶ。
 『図書館は成長する有機体である』――それは前世界の学者が打ち出した図書館の定義の一つだった。図書館は無機質な塊ではなく日夜成長している。成長するから、死は必然的についてまわる。そして口に入れた菓子もそう。
 甘いという、味を確かに感じる。
 図書館に彼女が生まれてからというもの、メジロはせがまれるまま紙上の菓子をつくり続けた。司書の業務が滞りなく進むように余暇のサポートをするのも仕事の一つだ。その結果として彼女は閲覧室に居つくようになり、彼は飽きさせないための工夫をすることとなった。
 資料を扱う過程で真新しい名前を見つけるたびに、どのような菓子なのかを調べずにはいられなかった。色形にどんな種類があるのか、その味が書物においてどのように表現されるのか。……この習慣は、後を引きそうだ。

「『さよならだけが人生ならば』」

 口ずさむ。
 メジロが手をかざすと、菓子もカップも音もなく消え去った。
 果たして観測者のない図書館は存在し得ているのだろうか。その答えはメジロ自身にはけっしてわからない。海中に没する未来と現在と、その違いはどこにあるのかなど。

――『人生なんて』、」

 誰に伝えるでもない呟きは、白い部屋に吸い込まれて消えた。
 海の果て、汽笛の音が鳴る。メジロはなぜか、先刻トオノが語った物語の、最後の一文が再生されるのを感じた。





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