独舟




 隣のクラスのあの子が死んでしまったそうです。
 それもなんだか自殺したとかいう噂です。彼女はプールに浮かんでいるところを、出勤してきた事務員さんに発見されたということです。制服姿のままだったと聞きましたが、彼女の遺体が見つかった時間は朝練の生徒がやっと来始めるくらいの時分でしたから、誰が見たとも知れません。
 そもそも自殺という話も確かではありません。なぜなら彼女の遺書はどこからも発見されなかったのですから。それに、彼女の死の理由は誰にもわからないのです。

 彼女は髪の長い、物静かな子でした。休み時間にはいつも一人で本を読んでいて、クラスでも特に目立たない立ち位置にいたようです。いじめられていたという話もありません。いじめの対象に選ばれるほど目立った子ではなかったのだと思います。
 とにかく印象の薄い子で、家にも学問にも特に問題はなく、その死には誰もが首をひねりました。けれど彼女の遺体に抵抗の跡はなく、それで最終的に自殺と判断されたのでした。三年生だからというので、漠然とした将来への不安か何か、そんな適当な理由が当てはめられたということです。

 彼女の葬式では彼女の友人とかいう人たちが泣いていましたが、怪しいものです。彼女が誰かと一緒に居るところなんて私は一度もお目にかかったことがありません。
 しかしながら私も人のことを言えた義理ではありません。ここでこのように彼女について語る私とて、本人と接触したことなんてほんの一度きりなのですから。そもそも私は『隣のクラスの他人』です。
 現に、私は彼女の名前すらろくに覚えていません。彼女はカガリヤさんといいました。どういう字を書くのかはわかりません。カガリヤというのはもちろん彼女の苗字ですが、下の名前は聞いたこともありませんでした。たとえ聞いていたとしてカガリヤという印象の強い苗字の前では霞んでしまうことでしょう。もっとも、その苗字ですらどういう漢字なのかわからないという始末ですから、私にとって彼女は名前を持たない『隣のクラスの他人』に他ならないのです。彼女にとって、私がそうであったように。

 それでは私はなぜ、彼女が死んだ場所を訪れているのでしょうか?

 プールは当然ながら立ち入り禁止になっています。しかしそういっても厳重な警備がされているわけではありません。彼女がここで浮かんでいるのが見つかって以来、水は抜かれています。閉鎖といってもただ本当にそれだけです。もちろん、彼女が死んだ直後は生徒が沢山押しかけて、先生たちが逐一追い返さなくてはなりませんでした。しかし一ヶ月もすればそれもなくなります。
 今では、夜に彼女がプールサイドに立っているのを見たなんて噂がまことしやかに囁かれています。最初そんな噂を耳にしたとき、私はなんだか嫌あな気持ちになりました。なんと申しましょう、義憤、とも違います。私自身、こんな気持ちになるのがどうしてなのかわからないのです。彼女とはただほんの一度、言葉を交わしただけなのに。私は彼女のことを何も知らない人たちが、彼女のことをそういうふうに噂するのが腹立たしくてならないようなのです。私とて彼女のことを何も知らないくせに、おかしいですね。

 それでは再びの質問。
 私はなぜ、彼女が死んだ場所を訪れているのでしょうか?
 ――それは大変に難しい質問です。私は彼女の死から一ヶ月たった今、どうしてだか夜のプールを訪れているのです。
 十一月ともなると、夜はほんの少し底冷えします。私はプールの金網をくぐって(誰だか知りませんが、彼女の死んだ後に金網を壊した生徒がいたようです。その人も私と同じで夜にこの場所へ来たのかもしれません)、何をするでもなく、プールサイドにじっと立っています。

 彼女はどうしてここで死んだのでしょう。
 誰もそれを知りません。

 きっと来年の夏にはここであったことは忘れられて、普通に水泳の授業が行われていることでしょう。彼女がここに浮かんでいたことなんて、誰も忘れているのです。
 そう考えるとぞっとしました。誰かが死んだ箱の水で泳いで、ましてやその水は口に入ったりすることもあるのです。……いいえ、違います。そういうことにぞっとしたのではありません。第一、来年には卒業してしまう私にはもう関係のない話です。
 私が恐ろしかったのは彼女の死を誰もが忘れてしまうだろうということです。
 今はまだ、誰もが彼女のことを知っています。しかし特に親しくもなかった、クラスでも目立たない女の子の死を誰が十年先も覚えていることでしょう? そしてそれは私も例外ではないのです。私とて、今晩ここに来た記憶も何も忘れて、どこか未来で思い出すことがあるでしょうか?
 彼女はこの学校のプールで一度死んで、それから記憶からも消されて正真に死んでしまうことになります。彼女は一度目に死に、二度目には全員の手で少しずつ殺されてしまうのです。その考えが無性に恐ろしくて、ぞっとしたのです。

 私はどうしてここに来たのでしょう。
 私もそれがわかりません。

 たとえば私は彼女に劣情でも抱いていたのか?
 ――ちょっと無理のある推論です。
 そうですね。もうすこしましな、それこそ噂されているように彼女の幽霊が出ることを期待していたとか、それで私に死の真相を訴えかけるとか?
 ――そんなものが理由だとしたら、私は私を見下げることになります。

 私は、ここに来れば何かが決定的に変わると、そう思っていたわけではないと思います。ええ、そんなことを思っていたわけではありません。それだけはわかります。私の心は激しい感情に揺さぶられることもなく、それにより彼女の死を悼んで涙するようなことはありません。そしてまた、彼女が死んだであろう夜に来たからといって、彼女が死んでしまった理由がたちまちに判明するわけでもないのです。
 私はひたすらに彼女が死んでいた『跡地』に傍立って、死を悼むでも何をするでもなく、風に乗って香る甘いにおいに、金木犀だろうかなんてぼんやり考える始末です。
 それはきっと金木犀の花に相違ありません。
 オレンジ色の小さな花。一つ一つの花は小指に乗って吹き飛んでしまうくらいに小さいのに、遠くに居てもすぐににおいでそれとわかります。
 そういえば、彼女も非常に良いにおいがしていました。私は今になってそれを思い出しました。彼女との唯一の接触は体育の合同授業のとき、私たちはたまたま二人で組んでストレッチをしたのです。そのとき彼女の髪というか首筋辺り、甘い良い香りがしたのです。その時は香りが何に似ているか思い当たりませんでしたが、それはもしかしたら、この金木犀のような香りだったのかもしれません。枝の一本でも手折って持ってくればもっとはっきりしたでしょうか。(そもそも形だけでも供養するなら花の一本でも持ってくるのが筋でしょうに、私といえば手ぶらなのです)

 だとしたら私はこの先、金木犀の花が咲くたびに彼女のことを思い出すのでしょうか?
 ……それは少々、都合がよすぎるお話です。

 いっそ彼女と同じ位置に浮かんでみようか、今は水がないから溺れることもありません。一瞬そんな考えが頭をよぎりましたが、水のないプールの底というのはなんだかべちゃべちゃとしていて不潔そうな印象です。夏の生き物が沢山死んでいるかもしれません。水が張っていたら入ってもよかったのにと、するはずもない予定に言い訳し、私はざらざらしたプールサイドに寝そべってみることにしました。
 誰も居ないプールに制服で仰向けになるというのはなかなかに新鮮な心地がします。夜空には月が浮かんでおりました。満月でした。もしかすると一ヶ月前、彼女は水に浮かんだ月に触れようとしてプールに飛び込んだのかも知れないと、そんなばかげたことを考えておりました。
 あなたが何も遺さずいなくなってしまったから、私はあなたの死にいつまでも納得できないままでいるのです。
 冷たくて、ざらざらの地面が服のあちこちを細かく引っかけます。彼女も、それか彼女の死後にここに侵入した誰かも、ここでこんなふうに寝そべってみたでしょうか。
 私はなぜここに来たのだろう、そして彼女はなぜ死んでしまったのだろう、と。
 真実は、誰もわかりません。
 ただ私は月を見ながら、想像の中の彼女の棺に、手折った金木犀の一枝をそっと献花するのでした。





金木犀(キンモクセイ):花言葉は「謙遜」「真実」「陶酔」「初恋」


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