「『ふたりはいつまでも幸せに暮らしました。』」 たどたどしく語られる声はそこで止まった。 トオノはテーブルを挟んで向かいの相手をそっと見る。彼はごく神妙な顔つきで、トオノが語り終えてもなお転写の手を止めない。もちろんそれは『ペンを持って物を書く』という形だけの記録だが。 「これで、おしまい」 落ち着いた声でトオノは言った。 そうしなければ彼はきっと彼女の話の続きを待つだろう。言葉に詰まったとき、トオノの中に次の言葉が浮かぶのを、彼はしんぼう強く待ってくれた。これまでだって、何度も。 でもこれが本当に最後なんだ、と。彼女は小さく息をつき、ここで初めてカップに手を伸ばした。 そのカップが再びテーブルに戻されるころ、彼――メジロは本を閉じた。 これでトオノが語った『物語』はトオノの図書に送られた。そしてまた、メジロ自身の書架にも同じものが並ぶことになる。 「これで、おしまい、か」 先ほどのトオノの言葉を反復する。 呟きとも、質問ともとれないその言葉に、一拍遅れてトオノがうなずく。 「そうだよ。めでたしめでたし」 「感動的な最後だった」 言葉とは対照的に無感情な口調。それでもメジロは心の(仮に彼にそういうものがあったとするならばだが)心の底から褒めているのだった。もう長い付き合いになる。トオノは彼の意を汲み取ってほほえんだ。 毎日少しずつ語るうち、物語があらぬ方向に進んでいたことをトノは自覚していた。あれもこれもと寄り道するうちに、ついには収集がつかないところへ行き着いていた。結局は時間に責め立てられる形で押し込められた最後の一文。それでもこの最後の一文だけは『ふたりはいつまでも幸せに暮らしました。』で終わろうと、これは最初から決めていたのだ。――物語の終わりは、いつも幸せな結末で幕にしなければならない、と彼女は思う。 物語としてはきっと、いびつな形に違いない。 「でも、初めてにしては上出来だと思うなあ」 「上出来だろう」 同意の言葉が、他人事のように閲覧室に反響する。出発の時間が近いせいで他の司書は搬入準備で忙しいのだ。中には船に乗る直前まで担当の棟を離れないという司書もいるらしい。それでも出発も差し迫ったこんなときにまで『物語』を引きずるのはトオノくらいだ。悠長に閲覧室を利用する司書もやはり彼女だけだ。――いや、もうずっと前から、ここにはトオノとメジロのふたりしかいないように思われた。 「最後まで付き合わせちゃったね」 「これでおしまいだ。私はお前の試験がこのまま終わらないのではないかと不安で夜も眠れなかった」 「本当に? じゃあ私、メジロに謝らないと」 「安心しなさい。夜に眠らないのは設計だ」 私はいつも朝に眠る、と。メジロは持っていたペンから手を離した。 ペンは落下の必要すらなく、途端に宙で消えてしまう。 メジロには必要のない『物を書く』という記録方法を提案したのはトオノだった。物語を話す相手が目の前でただ聞いているだけ、というのは妙に緊張してしまうから。ならば姿を消したほうがと言うメジロに、トオノはやんわりと反対した。やはり相手がいなくては物語を話す意味がないからというのが理由だった。いくつか方法を試して、『誰かが物を書いているのを見るのが好き』という彼女の一言以来、メジロは現物としての本に物語を『書く』ことにした。 トオノは名残惜しそうにメジロの手元に置かれた本を見つめる。 「やっぱり、行かなくちゃいけないんだよね。私たち」 「この門を去る者は、全ての物語を置いてゆかなければならない」 「第八条だね……『司書は物語を創らず』」 「ああ。だからお前はここにいてはいけないんだ」 「なんか変な感じ」 司書ではない自分、というのを想像するのはトオノには難しかった。他の司書はこの問題にどう決着をつけたのだろう。始まる前は、あんなに遠くのことだと思ったのに。 サルガッソが眠る夜中の間に、船は海溝を越えなければならない。そのために日のある内に島を出るんだ。 でももう少し、もう少しだけ、と。 そんな言葉が出てこないよう、唇を結ぶ。 もしもここで惜別の言葉を口にすれば、きっと止まらなくなってしまう。トオノはその予感を確かに感じていた。胸に詰まる言葉が堰を切って溢れだしてしまえば、それはすなわち、お別れだ。 だから代わりにこんな言葉を口にした。 「お祝いをしよう、メジロ」 「ああ。お祝いをしよう、トオノ」 |