そうだ、海に投げ出されたあのときから、私たちは正常な色覚を失った。あの医者は、生まれつき異常をきたしていたものが元に戻っただけだと診断した。けれど私たちにとってその異常こそが正常だったのだ。そして美術屋の君にとって正常とは喪失以外の何物でもない。君は絶望して、世界を呪い毒を吐き全てを否定した。 視界の色彩が失われた、『僕』がそれを認識したそのときに、君は私を切り離した。お前も僕のくせにどうして僕の気持ちが分からない、天才は若いときに死ぬものなんだとそうわめき散らして。 君は意識の海に身を投じて、失われた世界を反芻し続ける。私ひとりを現実に取り残したまま。私は君の名で君を演じ続ける。そんなことができるはずもない。 半身たる君を失って、私はどうやって『僕』になればいい? とりとめもなくこんなことを思うのは、開いた穴から記憶が毀れだしているからだ。最後の銃弾。私はすでに死んでいるのかもしれない。抜け殻だけがかろうじてここに立っていて、それもすでに倒れそうになりながら、夢の中で夢を見ている。 『お祈りをすることは、つまり思い出すこと』、と。 私と君が好きだった話に書かれていた。だから私はこうやって思い出して、祈っているのだろう。 ……僕が想像する世間一般の人々の視界、それが私だった。僕の中に私を生み出したのは他ならぬ君だ。君が望むのならばどんな役柄でも演じよう。君の兄として、姉として、時には弟のように、妹のように、友人として恋人として、君の隣に。 私はずっとそう思っていた。けれど本当はあの魔法使いが言うように、願ったのは私の方なのかもしれない。非凡なる、天才の君に焦がれて。私の方が君を創った。たぶんそれは、今となってはどちらでも同じことには違いない。 弾丸は六つに一つ。 さて、この銃弾は外れだろうか。それとも当たりだったのか。答えは君だけが知っている。 どちらにしろ私はもう限界だ。医者に言われた薬の限界はもうとっくに過ぎている。私には充分過ぎる打撃だ。深く深くへと潜って、肺と魂をすり減らして、私はもう毀れてしまう。でもそれも、決して無駄ではなかった。こうして君のところまで辿りつくことができたのだから。 銃弾は真っすぐに壁を貫いていた。 丸く開いた穴からひびが、ひびから透明の壁に無数の線が走った。それを認識するや否や、私たちの間に立つ壁は薄氷を思わせるようなもろさで崩れていく。卵の殻を内側から破るのにも似た、乾いた音を立てながら。床に薄い鏡の欠片が散らばった。 遮る壁はもう存在しない。 君はなんとも不思議そうな顔をしていた。 こんなにもあっけなく崩れ去ってしまうものなのだ、壁なんて。それに、私も。 私の腕に、足に、壁と同じようなひびが走り出す。 ぱり、ぱりり。 痛みは感じない。欠けて落ちていく皮膚の感覚も、頭蓋から涙のように溢れる液体も、胸に開いたパレットナイフの傷さえも、どこか他人事のように感じられる。 許されるならば、私が毀れてしまう前に、一度だけ。 そうやって踏み出した一歩も、ひびが入って途端に崩れてしまう。 「あ、」 膝から崩れ落ちるようにバランスを失って、君に伸ばした腕も手首から外れて、地面に倒れて粉々に割れてしまう私の身体を、君が紙一重のところで受け止めた。 鏡写しでも、壁越しでもない。君が私を受け止めたのだ。 肌に触れる君の身体は、絵の具のせいでべたべたになっている。だけどそこには確かに人間の温度があった。一方の私の身体は水に濡れて冷えきっている。私たちはいつでもちぐはぐで、同じ顔のはずなのにどうしてこんなにも違うのか。 どちらともなく腕を互いの背中に回す。肩に顔を寄せ、相手を支えあうような形で抱き合って。最初からずっとそうだった。対照的なのは鏡に映るからではなく、補うため。足りないものを埋めるためにわざわざ身を二つに割って、二人でやっと一人分の僕らは、補わなければ立ち行かない。足も胴も腕も全てを失って、私はようやく顔を取り戻したことを知った。 鏡映し、呼びかける言葉。やっと、思い出せた。 私は君の――いや、僕の名前を呼んだ。 天空は青い薄暮。ここももうじき夜になる。 空から私たちに冷たく降りそそぐものがあった。 一滴のインク。壜からこぼれた、ただ透明の一滴。それが全てを変えてしまった。 冷たい水滴が街と、そして私たちの輪郭を曖昧にしていく。これは雨だ。雨というものだ。けれども不思議と恐ろしさはなかった。エーゲ海に浮かぶ島。今は無きあの白い壁。空には雲一つ浮かばず、月が煌々と輝いている。この月に見守られ、水はやがて全てを洗い流すだろう。彼の色彩も彼の築き上げた世界も、それを甘受してきた私も全て。 元あったように街は水底に沈むのだ。 だけどそれでいい、それがいいのだと僕は思う。 そこで、目を閉じた。 |