この街はもう、とてもではないが白い街とは言えない有様だ。白かった壁は目が眩む色に染まっていた。通行人の顔も街路樹の色も同じような色をしている。それでも私にはそれらが何色なのか個々に判別できないが、あの黒い壁からあふれ出した絵の具が街を変えてしまったのだということはわかる。彼が推し留めていた色彩が街へと逃げ出してしまったのだ。色を失った街を必死に埋めるように、それらはただ無秩序に腕を伸ばし、組み合うことはなく、各々は美しくとも、互いに主張しあって、すべて黒くくすんで見える。 表通り。私のすぐ横を地獄のパレードが通り過ぎていく。 まだら色のそれらは口々に噂しあう。「とある画家がインクをこぼしちまったのさ」「そうかい。画家は元の色に塗り直そうというんだな」「紙に落ちたインクは広がるのが早いんだ」「そうさ広がるのが早い。そして消えないものなんだ」「でもいいのさ。すぐに慣れる」「忘れてしまうのさ」 ファンファーレが響くとパレードが不気味に嘲笑った。「魔法使いのお出ましだ」と、広場へ行進する彼らとは、逆方向に私は進む。何度も人波にぶつかって押し流されそうになる。しかしそういうわけにはいかない。私は魔法使いに望むことなど何もないのだ。私は懸命にパレードの人々を掻き分けて、逆方向に進む。人波に押されながらも強く思った。私はあの見えない誰かを、あの子、彼を、君を捜さなくては。 そう願う私はすでに死んでいるのかもしれない。 パレードの終点は、幾度と無く通った、あの寂しい路地へと通じていた。 路地裏では首だけの男が、塀の上でにたにたと笑っている。 「やあ、君、君、やっと僕の言葉に耳を傾ける気になったね。このままあと何度通り過ぎるのかと思ったよ」 首だけの男の髪は極彩色、見る角度により転々と色を変える。これはこの男の天然のものだ。白い街のようにそれ自体がインクに染められているわけではない。幾度もここを通るたび、 「そうとも! 僕は少しだけイレギュラーなのさ。だからここで君に名乗る名前は無いんだ。まあ君だってそんなことは問題じゃないだろう? 君も自分がどういう立場なのか、そろそろ分かってきているはずだ」 自分とは何者か。それははっきりと理解していた。私の視線はある一点に注がれる。それは男のいる塀のことだ。首だけの男が鎮座している塀だけは、他の色に染まらず白いままだった。幾度も通り過ぎた、私にはそのことがよくわかっていた。 首だけの男の、水底を切り取ったかのような深い青色の瞳が至極愉快そうに細められた。それは青色だ、と私はなぜか思ったのだ。そして目の前にはいつのまにか、あのずたぶくろのような男が立っていて、壁を両手でこじ開けるような動作をするのだ。おそらくはその男が言った。 「青い鳥、君を待っていたんだ」 塀は極彩色の男の首を載せたまま、急に、見上げるほどの高さにまで伸び、眼前に壁となって聳え立った。ずたぶくろの男が身を引き、うやうやしく招き入れるような動作をする。 白く、白く聳える壁。おそらくこれが本当の白い街だ。 私はその壁に手を当てる。前に触れた黒い扉と違って、ざらざらした手触りには温かみがあった。あの時から比べてもう引き返せない所まで来たというのに、以前ほどの気負いはない。息を整えて手に力を込める。驚くほどの軽さで、壁は扉となって私を迎え入れた。 壁の先は白い石畳の広場に繋がっていた。円形状に展開された空間を囲むように、私の身長の三倍はありそうな、石でできた柱が八本立っている。一本の柱の根元、その下に彼がいた。 暗く塗料にまみれた姿だった。彼は床に両膝をつけ、跪いた体勢で柱の一本に向かい、筆も持たずに素手の両手で黒ずんだ緑色を塗りつけている。様々な色が混ざり合い彼自身は何色なのかわからなくなっている。けれど私にはわかる。これはあの黒い壁のように、全ての色を含んだ黒だ。全身に浴びた塗料は床に滴り落ち、どろどろになって溜まっている。床の塗料はどんどんと汚れていない方へ伸びて、止まることがなかった。 私は彼のすぐ後ろまで近づいた。しかしそれ以上は進めない。 私と彼との間にはあと一枚、透明な壁がまだ残っている。壁に阻まれ私はこれ以上彼の近くに行くことができない。それでも姿を見ることはだけはできる。鏡写しのようだと私は思った。これまでのどんな壁より薄く、透明で、決定的な拒絶。目に見える壁以上に、幾千もの隔たりを感じるのだ。 彼は背後には目もくれない。私の姿に気づくことなく一心不乱に作業を続ける。汚れた両手は取り憑かれたように止まらず、その口は絶えず呪詛を吐き出していた。「違うもっと明るい色だった違うこの色はそうじゃない」 嘆きに暮れて、ずっとここでこうしていたのだろう。 そのうち彼の呟く言葉の端に、嗚咽が混じり出す。しゃくりあげ、枯れた声で、涙ながらに彼は吐き出す。 「こんなんじゃないんだ。本当は、もっと、ひかっていて、きれいなのに」 それでも彼の腕は止まらない。その手はあんなにも震えている。手のひらに溢れてやまない絵の具を塗り付けていく。柱に跪く様子は、まるで神に乞い縋りつくかのように。 ――そうしていれば君の神は、君を救うのか? やめてくれ。君が愛した街はキャンバスのように真っ白な街だ。 こんなにいびつな彩色に塗りつぶされていいものではなかったはずだ。 どうして君はそれを自分の手で否定しなければいけないのか。 「いつまでこんなことを続けるつもりなんだ」 私は耐え切れずにそう言った。君の身体に反応があった。その身がゆっくりとこちらに向いたのだ。見開かれる目、色のない。そして絵の具に汚れた顔。ここへ来てはじめて、やっと君と会うことできたのだと私は思った。透明な壁越しに私は語りかける。 「聞いてくれ。私は君が望む人間になる。ずっとそうやって思っていた。私は君がそうあってほしいと望むなら、家族でも友人でも何にだってなれた。でも今回ばかりは違う。これ以上、私は君の役を演じることはできない」 君はへたりこむように両手を地面につけている。その顔は驚いているようにも、ただ呆然としているようにも見える。鏡にうつる、君の顔を、私はずっとこうやって見てきた。 かちり、私の頭に突きつけられた見えない撃鉄が起こされる、その音が聞こえる。銃口は君の頭に、そして私の頭にも突きつけられている。もう時間が。頼む、今度こそ外さないで。 「私と君は二人で僕。たった一人では自分になれない 『君』が『僕』であるように、『私』は『僕』だ」 そう言って、祈るように最後の引き金を引く。 そこで、目が まだだ。 まだ、目を覚ますわけにはいかない。 |