白い塀の上で首だけの男がにやにやと笑う。 「君、君はまたしてもそんなに急いでどこへ行くんだい」 私は男の前をそ知らぬふりをして通り過ぎる。首だけの男の長い髪は光の加減で次々と色が変化し、意思を持っていたならば人の首を絞め殺せるのではないかというありようだ。 「メープルリンクはなんと言った? 隔たりは透きとおっているのかい?」 しゃがれ声に私は横を振り見た。すれ違いざまに見知らぬ男が言ったのだ。その男はずた袋をかぶった浮浪者で、陽気に背中で笑ってみせた。街が干渉し始めているのか。これはまずい。よくない兆候だ。 足を引きずり、引きずり、私はあの黒い壁を目指す。 弾丸は六つに一つ。右腕しか持たない悪魔はそう言った。 頭の芯がぼうっとする。さすがに今回は長い時間潜りすぎていたのかもしれない。三時間が限界だと何度も忠告されていたじゃないか。それは、それはいつの話だった? 酩酊感でうまく頭が働かない。私は今何を考えていたのだろう。ああ、そうだ思い出した、君のことだ。 今思えば、生まれついたときにはすでに、君の見ている世界は私の見ているものと決定的に食い違っていたのだと思う。自分が赤だと思っている色が、他人の目にも同じ色に見えているとは限らない。他人の視界でいう赤は私にとっての紫に写っている、その可能性は大いにある。誰一人として、他人の視覚でものを見ることはできないのだ。私と君との間に生じた齟齬も、おそらくはそのようなところから発生したのだろう。 『卓抜した色彩感覚』『■■■にしか成し得ぬ芸術世界』……世の中において君がそのような評価を受けていること、私としても誇らしく思う。文字通り、自分のことのように嬉しかった。 天才たる君は誰にも共感しない。君の視覚で見る世界は、よほど他人のそれとはかけ離れていたのではないかと想像する。そうでなければ、色を失った君の絶望がどれほどのものであったのか、計り知れないのだ。どうして私にその絶望の片端だけでも分けてくれなかったのだろうかと、そう問いただすことさえおこがましいのかもしれない。けれど私だけ、私だけは、君以外、全ての他人とは違うと、そう思っていたのだ。 望むのならばどんな役柄でも演じよう。君の兄として、姉として、弟のように、妹のように、友人として恋人として、君の隣に居続ける。そんな願いは、結局ただの自己満足でしかなかったのだろうか。 黒い壁の建物に君はいない。その代わりに、顔を白く塗った男が私を覗き込む。絵の具にまみれた地面は不浄とでも言わんばかりに、棒っきれの高い靴をして。黒い色の外套。この男は魔法使いであるということを私は知っている。 「そう、私こそは塔上の魔法使い」そう言って濃い色に紅を引いた唇を開く。「あなたの夢を叶えてしんぜましょう」 傲岸不遜な態度で片足を半歩後ろに身を折って、私の手の甲に口付けた。魔法使いはまるで道化のような口ぶりで饒舌に語りかける。 「彼はあなたのことを置いて行ってしまった。もう美術屋の役をやるのにふさわしくないと、彼は悟ったのですよ。魔法使いはあなたに呼ばれて参上いたしました。解決策はあなたもご承知の通りです。あなたが彼になればいい。あなたが彼の役を演じればいいだけではないですか」 そうは言えども私には顔がない。そう答えると魔法使いは訳知り顔でうなずいた。白く塗られた顔が語る、全てご承知ですとも。魔法使いは特徴のある足音で私の周りを歩き、後ろに回る。靴でもなんでもなく、裾で隠れたその足は実は根元から棒っきれなのではないかという疑念が私の頭をよぎる。魔法使いは言う。 「私はあなたにぴったり似合いの顔をあつらえてやりましょう。魔法使いは、あなたさえ望むなら、彼もあなたも見事に救ってやることができるのです。素敵な顔を、ぴったりな顔を」 顔を、あつらえる。この魔法使いのように? ドーランを塗りたくった醜い顔で、私は彼の名を騙るのか? 冗談ではない。そんなこと、冗談ではない! 「おや、私を拒もうというのか」 私は魔法使いを振り切って走り出す。足は自分のものではないかのように言うことを聞かない。固まりかけた絵の具がべっとりと私の足にまとわりついた。出口は、マンホールはどこだろう。表通り、表通りに出るのが良い。懸命に走っているつもりなのに視界はいくらぶれても走っている気がしない。後方からの衝撃が私を襲う。振り向いてしまいそうになるが、それはいけない。特徴的な、棒っきれの足音。二度目は避けた筈が景色は上下左右激しく動く。絵の具の塊に足を取られたのだと気付いたのは、地に伏せってからだった。もう駄目だ。全く走っていないというのに身体は疲弊している。抑えもしない喘ぎ声の端から唾液が顎を伝った。もうとっくに三時間は過ぎている。それに抵抗しても意味がない。この先の顛末は、 足音が私のすぐ後ろで止まる。 もう何度目だろう。私の絶望を知りながら。諦めるよう諭すのか。哀れむような声。事実、この悪魔は私を心底可哀相だと思っているに違いない。私の耳元で、ゆっくり、私が一言も聞き漏らさないように、囁くように、 私を殺す、呪文を唱える。 「彼の名前は、元々あなたのものなのですから」 そこで、目が覚めた。 |