彼があの島をモデルにしたのはある種の必然だったのだろう。私はひとり、ひっそりとした路地を歩いている。エーゲ海に浮かぶ島。名はなんといったか、覚えていない。海を臨む岩肌に沿い、建てられた住居は全て白く石灰で塗られている。絵になるような白い街、という謳い文句が昔あった。彼がこの街を好むのも無理からぬ話だ。 両側も前方も白い壁に囲まれ、こうして目を凝らしていても物体同士の境界を見失ってしまう。どこまでが路地でどこからが建物の壁なのか、目を離した隙に失われてしまうのだ。街は迷路のように入り組んでいる。 すでに日は高く昇り、数時間もすれば青い薄暮に包まれることだろう。そうなる前に私は彼を見つけられなければならない。でなければ全てが水泡に帰してしまう。 道は気まぐれに分岐し、一向に変わらぬ視界に同じ所を回らされているような錯覚に陥る。そうは言えども今更引き返すこともできない。ただ進むしかない。 表通りはパレードが占拠している。歓声のなる方へ行くと、家々の隙間から見えることがある。向こうでは様々な色が踊り、楽しそうな声は聞こえてくるのだが、どうしてだか私は向こうへ辿りつけないようになっている。だから私は静謐ながらどこかうらぶれた風な道を通るしかない。隙間から覗える表通りでは、幼い娘が引き裂かれた口を仮面の脇からちらつかせて笑っている。また、透明のビニール傘を差した少女が、こちらに気づく様子もなく通り過ぎていく。 彼の行方は杳としてして知れない。それでも彼はこの街のどこかに居るはずだ。私にはその確信があった エーゲ海に浮かぶ白い街。まだ幼い時から、彼はどこからかその島の映像を掘り出してきては、数時間もその光景に見入っていた。まるで自分の故郷はここだと言わんばかりに。私はそんな彼を愛しいと思いながらも一歩引いた目で見ていた。昔の話だ。 その島がとうに海に沈んでいたことを、私は成長の過程で知った。 彼が本当はどんな思いでこの街を見つめていたのかを私は知らない。 白い塀の上で首だけの男がにやにやと笑う。 「君、君、そんなに急いでどこへ行くんだい」 私は男の前をそ知らぬふりをして通り過ぎる。首だけの男の長い髪は光の加減で次々と色が変化し、意思を持っていたならば人の首を絞め殺せるのではないかというありようだ。 「悪魔だって神様の一種には違いない。私の願いを叶えてくれるのは悪魔様なのかもしれないな」 突然のしゃがれ声に私は横を振り見た。すれ違いざまに見知らぬ男が言ったのだ。その男はずた袋をかぶった浮浪者で、陽気に背中で笑ってみせた。街が干渉し始めているのか。これはまずい。よくない兆候だ。 足を速める。冷たい石畳は容赦なく私の足の裏を傷つけた。しかし今は赤い足跡にかまっている時間などない。路地の果て、白の中に黒くそびえるものがある。 最後に私を待ち受けていたのは黒い壁だった。この黒だけがぎらぎらと一際目立って異常だ。ここに彼が閉じ込められているのだろうか? それ自体はそう巨大ではない。けれどその周辺だけ白が濃くなっているような気がした。それは対峙する黒があまりに暗い闇を宿しているからだ。 黒は全ての色を含んでいるのだと、その言葉の意味を思い知った。壁の中央に据え付けられた扉は、その表面が生き物のように蠢き、渦巻いている。それに近くで見れば黒いとは言えない。赤青黄緑紫紺紅橙朱藍茶。それぞれの色が互いに打ち消し合っているのか、色が浮き出てきては塗り潰しての繰り返しだ。 扉に手を当てる。錆でも撫でるかのように細かい棘が立っている。一枚扉のはずがその表面は底の知れぬ沼、途方もない深くへ繋がっているような気さえ起こさせる。 ふと、扉に当てた掌に違和感を覚えた。とっさに引っ込める。 そして引いた手を見て、肺が締まる思いがした。触れていないはずの手首まで黒く染まっていた。まだ扉に触れただけだというのに、色彩が侵入しようとしている。途端に逃げ出したい恐怖に駆られる。けれど恐怖に駆り立てられるその身とは裏腹に足は動かず、腕の方は再び扉を開こうと前に出されていた。ここまで来て戻るわけにはいかない。そうだ。彼がここにいるのだとしたら、私は逃げ出すわけにいかない。 意を決して扉を開く。 それと同時に中から生ぬるい液体があふれ出てきた。どろどろとしたそれは暗い色をしていて、私の足首辺りを通って路地へと流れていく。 建物の中は外壁と同じように重苦しい色彩で塗られている。 室内には人の姿があった。それ以外には何もない。 おそらく、これが彼なのだろう。 しかしこれは、人の形をしているが――ただそれだけだ。 頭と手足と胴体、それに黒色なんだかよくわからない色をべっとりと全身に浴びて立っている。こちらを向いているのかすらわからない。 私は彼のいる中心まで歩みを進めた。泥地でも歩いているかのようだ。泥ではなく絵の具だ。床に溜まった絵の具が私の足をつかまえる。何度も転びそうになりながら、私は彼に近づく。 もっと近くへ寄らなければ、外してしまうかもしれない。 弾丸は六つに一つ。外れを引けばそれで終わりだ。銃口は彼の頭に、そして私の頭にも突きつけられている。そうだ、この距離なら外さないはずだ。目を閉じて呼吸を整える、そして私は、 私は彼の名前を呼ぼうとした。 呼ぼうと、したのだ。 それなのにどうしても彼の名前が出てこない。 私は彼の名前を知っているはずなのに。 たしかに知っているんだ。名前、彼の名前を。 瞬間、胸に焼けるような痛みが走った。何が起こっているのか把握し切れないうちに私の足は自分を支えられなくなり、絵の具の海に背中から倒れこんだ。ねっとりとした液体を押しつぶす感覚。 パレットナイフだ。 彼のパレットナイフが私の胸に突き立てられていた。私の胸からは絶えず血がとくとくと溢れて止まない。血は街を彩らんとして絵の具と共に流れていく。彼が私の顔を覗き込んでいる、そんな気がした。彼の頭から耳から、様々な色を内包した黒がぼたりぼたりと私の上に落ちる。これが、頬を伝うのが涙ならば、私は幾分か救われただろうに。どうして、なぜ駄目なんだ。彼は問いかけに答えない。空砲? 外したのか。そのまま意識が白い闇に飲まれていく。 そこで、目が覚めた。 |