ぼくたちは――ぼくと、キッタさんは――日が傾きかけた通学路を帰っていた。ぼくは自転車を押しながら。キッタさんは徒歩だった。今はまだ街灯がいらない程度に明るいが、暗くなると、町外れへ向かう彼女の通学路は本当に人の気がなくなる。ぼくはそれを何度かの往復の中で知った。図らずも、の形ではあるが、近くまで送ることになったのはそういう理由が、一つにはある。 そして二つめの理由は――。 ぼくは意を決して切り出した。 「あのさ……キッタさんって、何者なの?」 「その質問は二度めだね」 ぼくがそう尋ねることは予測していたのだろう。キッタさんはかぶりを振った。 「彼と合わせて三度めだ。そう気にするようなことかな」 彼――さとるくんがあんなにムキになって彼女に詰め寄ったのは、それだけ彼女が不透明な存在だからだ。ぼくは、さとるくんが教室で言った言葉の中から、ぼく自身も疑問に感じた部分を思い起こして彼女にぶつけた。 「きみは初対面のオレの名前を知っていた。オレが名乗る前に、オレのことをTくんと呼んだ。なんでオレがそのTくんだってわかったの?」 「始業式の日、君だけが学校を休んでいた。そのとき僕のためにみんなが自己紹介をしてくれてね、休んでいる生徒の名前もそのとき教えてもらったんだ。それで、次の週に見覚えのない生徒が僕を見舞いに来た。僕はクラス全員の顔と名前を把握していたからね、消去法で、君がTくんであることを知った」 「それは――それはさすがに、苦しいよ」 「やっぱり無理があるか」 教室で、『彼』が『彼女』であることを種明かししたのと同じ、いたずらっぽく口の端を上げた。それは文字どおり、悪ふざけがばれたとでもいうような、苦笑まじりの笑みだ。 キッタさんは非常に雄弁だが、自身のことについてはあくまで話してくれないらしい。話したくないのなら、話してくれなくてもいい……相手が誰であれ、いつものぼくならそう考えるだろう。けれど、今回は違う。キッタさんの素性がよくわからなかったせいで、色々とややこしい事態になったんだ。 ……言うだけ、言ってみるしかないようだ。 ぼくはハンドルを押す手を握りなおし、相手に向きなおった。 「あのとき――部屋のドアが開かれたとき――、キッタさんは確信を持ってぼくをぼくと断定したはずだ。でなければあんな、『どうしてTくんがここに?』なんて言葉は出てこないと思うんだ。もし仮にきみの言うとおりだとすれば、あそこで発せられる台詞は『君がTくん?』……とか、そういう確認の言葉でなければおかしい」 キッタさんは聞いているのかいないのか、考え込んだ様子で「それで?」とぼくに話を促した。 「つまり、ぼくの顔を見た時点で、きみはぼくがぼくであることを確信する、なんらかの材料を持っていたことになる。たとえば、それは――」 躊躇もあって言いよどんでしまう。どうしてここで彼女にこんなことを話しているのか、自分でも不思議だ。 「――ぼくたちは、実は初対面じゃない、とか」 根拠はなにもない。でもそう考えるとつじつまが合うという、それだけの話だ。実を言うと、ぼくは今回のことで思い知ったのだ。ぼくという人間は本当に、人の顔と名前を記憶することができない人間である、と。だから、このキッタさんも、昔に会って、ぼくがその存在を忘れてしまった誰かなのではないかという――考えてみれば失礼な話だ。 キッタさんは伏せがちにしていた目を上げ、ぼくを見た。 「名探偵、その推理は正解ではないね。僕と君とは間違いなく初対面だ。それに、以前にも答えたように僕は君のクラスの転校生。幽霊でも妖怪でも都市伝説でもない、ただの人間だ」 ……『正解ではない』、か。極めて微妙な言い回しだ。 「そうだ。今度また寄ってってくれよ。さとるくんも言っていたように、ぼくは今あのホテルに一人なんだ。君以外の客はなかなか呼べないからさ」 「なんだよ、それ」 「……君も感じたとおり、あのホテルがいわくつきなのは事実だからね。普通の人間を招待するわけにはいかないだろ? 幸い君は平気みたいだ。最初に来たときのこと、まだ覚えているかい?」 キッタさんが鞄をかける腕を入れ替える。 自転車が重くなっているのに気づいた。歩いているうち、なだらかな坂道に出たのだ。ぼくはもう何度か、この坂を上ったことがあるが、自転車を押しながら歩きでというのは初めてかもしれない。 キッタさんは心なしか早めの口調でぼくに言う。 「君は最初に僕の所に来た日に、『帰ろうと思っていたところで、ちょうど都合よく電話が鳴った』と言った。それはおかしい。Tくんも三日前、その目で確認しただろう? 僕が滞在しているホテルは圏外なんだ。電話線は通っているが携帯電話はアンテナが立たない」 三日前、キッタさんの部屋に行ったとき、キッタさんはぼくの携帯電話を持って部屋中を回っていた。あれは電波状況を確認していたのか。 「――にもかかわらず君の携帯電話には着信があったという。一見すると本筋には関係なさそうだが、気になってね。携帯電話が関係するような話を当たってみたんだ。それで該当しそうだったのが『さとるくん』の都市伝説だ。『さとるくん』は『電源の入っていない携帯に電話をかける』という特徴がある。繋がらないという意味では圏外でも同じことだろう?」 ……ああ、なんの話かと思ったら、『さとるくん』の話か。 そういえば、どうして彼女が、面識もない彼の正体に当たりをつけたのか疑問だった。キッタさんはキッタさんで考える根拠があったわけだ。 話しながら、キッタさんはぼくの少し前を歩いている。自転車を押しながらついて行くぼくへ、彼女はちょっと首を傾けて、説明口調で語る。 「そう考えれば、どうして僕に直接接触してこないのか、という点も説明ができそうだ。君たちにあって僕にないもの、それは携帯電話。誰に疑われることもなく教室に溶け込んでいたカラクリもそのへんにあるんじゃないか、とね。そこに気づいたら簡単だったよ。あとはいかに彼を誘い出すか、だが、それは予想していたより早く反応してくれて助かったね」 「でも、あの人が人間じゃないってわかってて、そんなことを?」 「危険は少ないと踏んでいたさ。もし彼が本当に危害を加えるつもりなら、最初から僕を襲えばいいだけだ。Tくんを使って探らせるなんて回りくどい真似はしないだろう。 それに、――もしものときには、君がいるからね」 「え?」 「横で見ていて危険だと判断したら止めてくれる、そうだろう?」 そんな台詞と共にキッタさんに目配せされ、ぼくは一瞬、はっとした。 深い、鳶色の瞳。なにもかも見透かされているような気分になる。 この目で見られたら、ぼくはあることないこと全部話してしまうかもしれない。 「彼と僕と、お互いにとってTくん、君は一種の保険だったわけだ。彼からすると、君の前で僕を糾弾できれば、僕を教室から追い出せるかもしれない。クラスメイトに化け物扱いされたんでは僕も動きにくくなる。 ――しかし僕にとっても、君は一種の牽制だった。『さとるくん』も君の前では、大っぴらに事を起こすことはできないだろうからさ」 「どうして?」 「君が彼にとって意味のあるクラスメイトだからだよ。三十九人のクラスメイトから、君を無作為に選んだとは思えない。彼自身、君のことを『だまされやすい』と評していたにも関わらず、だ。それは君が――君が一番動かしやすかったからだ」 彼はぼくに“取り憑いて”いたわけだし、部活も入っていないぼくなら放課後に駆り出しても予定が合わないなんてことはない。――それも全部明らかになった後だからわかることだ。 「あの場で彼が僕に危害を加えれば、さすがの君も日和見していられないだろうからね」 「うーん……オレにはなにもできないけどね」 止めるから、と口約束を結ばされたものの、さとるくんがぼくらを攻撃するつもりでやって来たなら、真っ先にやられていたのはぼくだろう。それはキッタさんだってわかっていたはずだと思っていた。 それなのに――ぼくがそうこぼすと、キッタさんはわずかに眉をひそめた。怪しんでいる、もしくは不思議そうな、そんな表情だ。 「なんだいTくん、妙に自信がなさそうだね」 「自信がなさそうもなにも……実際そうだし」 「どうして? そんなに謙遜しなくてもいいじゃないか」 「……謙遜?」 なんだか微妙に会話がかみ合っていない気がする。自信って、この人はぼくがなにに対し自信を持っているのだと思っているのだろう? 「少し話を整理しないか」 と、不意に立ち止まったキッタさんにつられ、ぼくも自転車を押す手を止めた。どうやら向こうも同じ疑問を感じたらしい。 「さっきからキッタさんの言ってることがどうもわからないんだけど……」 「それは僕もそうなんだが……。 変だな、君のTくんという呼び名は『寺生まれのTさん』にあやかっているんだろう? ありとあらゆる怪談・都市伝説に登場して、怪異をことごとく浄霊していく、あの『寺生まれのTさん』に。それなら太刀打ちできない怪異なんてそう無いんじゃないかい?」 本気でなにを言われているのかわからなかった。 彼女の言葉はいつだって唐突で、よくわからないことも多かったけれど、ここまで意味が通らないのは初めてだ。 ……ぼくは生まれて初めて『開いた口がふさがらない』のことわざを実感した。 「違うのかい? だってたしか君、生まれながらの寺生まれで、生後この方欠かさず修行を積んだ超級浄霊師と言って――」 「い、言ってない!」 思わぬ発言に声が裏返ってしまった。 「たしかに、ぼくのあだ名は『寺生まれのTさん』だけど! ぼく自身にはなんっの、なんの力も……」 「なんの力も?」 「なんの力も、ないわけじゃないんだけど、その……」 聞き返されて、思わず余計なことまで喋ってしまったことに気がついた。なんの力もない、のところで断言してしまえばよかったのに。曖昧に言葉を濁してしまったせいで、今更否定もしにくい。 ……ここまできたら白状してしまおう。どう思われようが、相手だって十分なくらい『変な人』だ。 「信じてもらえないだろうし、なに変なこと言ってんだって思われるかもしれないけど……オレは昔から、霊とか、そういう変なものが視えるんだ」 相手がどんな顔をしているのか、確かめる勇気はぼくにはなかった。 沈黙が怖くて、言い訳のように付け足す。 「寺生まれ、だからかなのかは、わからないけど」 「それだけ?」 「そ、それだけ? って……それだけ、だけど」 ぼくとしては結構な秘密を打ち明けたつもりなのに、そんなふうに返されるのは予想外だ。それとも、他人の秘密なんて案外簡単に片づけられてしまうものなのだろうか。 『霊が視える』 それは今までずっとぼくに付きまとってきた『体質』だった。忌まわしい、体質だ。見えないものが見える、という体質。物心ついて、ぼくはこの体質が異質であることに気がついた。だから秘密にした。相談しても解決しない。知られたところで気味悪がられるだけだし、そんなことを広言したところでいいことなんて一つもない。だいいちこんなこと……信じて、もらえない。だからぼくはこれを他人に話したことはなかった。本当に、まだ小さい頃を抜きにして、誰かに話したのなんてこれが初めてだ。 だから、ぼくはこの反応が正しいのかどうか、判断できなかった。 キッタさんは笑っていた。 腹を抱えてとまではいかないが、少なくとも笑い声は上げている。だからこれは、笑っているのだと思う。そういえば、彼女が声を立てて笑うのを見るのも初めてだ、なんて、対応に窮したぼくはぼんやりそんなことを考えた。 「悪い、笑うつもりなんてなかったんだけど」 キッタさんはその状態からすぐに立ち直り、制止を求めるよう手のひらをこちらに向けて、大きく息を吸った。 「……落ち着いた?」 「ごめんごめん。『寺生まれのTさん』が頭にあったから、僕はてっきりTくんが浄霊・退治できる『寺生まれのTくん』なんだと勘違いしててさ。そうか、視えるだけだったんだね」 「……どうせ、念で霊を木っ端微塵にしたりとか、できないし」 だからといってあんなに笑うのは酷いじゃないか。 そう言葉を返そうとして気がついた。あまりにさりげなく言われたので流してしまうところだった。 『視えるだけだったんだね』って、それって―― 「ちょっと待って。キッタさん、もしかして、今ぼくが言ったこと信じて、くれるの?」 「うん? うん、信じるよ? 大体、さっき『さとるくん』に会って来たところじゃないか。なのに今さら君が、霊が視えるとか白状するからおかしくって」 さも当然のようにキッタさんは答えた。ぼくがそれ以上疑う余地もないくらい、平然とした答えだ。 彼女は再び歩き始めた。ぼくが返答できないままでいると、 「笑ったのは悪かったって。そう拗ねないでくれよ」 キッタさんは口でそうは言っても、その背中からはなお、笑いをこらている気配が伝わってくる。彼女はぼくがまるで怒っているのかのようになだめすかすが……ぼくは別に拗ねていないぞ。 むしろ、なんだろうこれ。 ……なんでぼく、少し、嬉しいんだろう。 なにか言葉を返そうとして、早足で彼女の横につけたところで、「それなら少し無茶だったか。Tくんの力があるからと思ってつい強引に押し切ってしまった。次からは方法を考えないといけないな」 と、独り言のような発言が耳に入ってきた。 今、ものすごく恐ろしいことを聞いてしまった気がする。浮ついた感情が一挙に分散するのがわかった。ぼくはおそるおそるその真偽を確かめた。 「ちょっと前の、頼りにしてたってあれ、まさかほんとにオレの力を頼りにして?」 キッタさんは悪びれもせずうなづいた。 さとるくんに対する挑発的な口調も、ぼくはキッタさんになにか考えがあってのことなんだと思っていた。具体的には、なにか、『さとるくん』を退散させるような方法があるものだと。 でも、実際にはぼくの秘められた力(実際にはそんなものはないのに!)をあてにしていたなんて……。 『さとるくん』があんな感じじゃなかったら、ふたりともどうなっていたかわからなかったんじゃないか! 「……キッタさんさ、結構、無謀?」 「いいじゃないか。ふたりとも無事だったんだから」 そんなことをやっているうちに、キッタさんのホテルがもう見える距離まで近づいてきていた。いつの間にやら周囲に目を向けるのも忘れていたらしい。相変わらず不気味な通りだ。閑散としていてぼくら以外に人の姿はない。 「今日はありがとう、ここまででいいよ」と、 キッタさんの言葉を聞いて思った。してやられた。 これ、すっかりはぐらかされたな。 最初ぼくは、さとるくんがあんなにも気にしていた、転校生キッタカタリについて深く訊くのが目的で、質問したり、慣れない推理を披露してみせたのに。いつの間にかこっちが秘密を告白させられている始末だ。 「キッタ、さん」 ぼくの意図を察したのかどうなのか、キッタさんはぼくを見てにやりと不敵に微笑んだ。 ……悪い人じゃない、と思いたい。 そんなキッタさんは別れ際になって妙なことを言い出した。 「ね、Tくん。さん付けじゃなくて、もっと他の呼び方をしてみてくれないかな」 一瞬、言われたことの意味が理解できなかった。 「どうして?」 「いいから、試しにさ。……さん付けされるのは好きじゃないんだ」 急にそんなことを言われても困ってしまう。どう呼べばいいんだろう? 相手は女の子だし、下の名前は駄目だ。名字にさん付けも駄目なら、じゃあ、呼び捨て? キッタさんはぼくの反応を見守っている。なにかしらの答えをもらわないではこの場は引き下がらない……とまで言ってしまうと大げさだろうか。たぶん思いつきなんだろうけど、こういうのって、いざ促されるとなんだか気恥ずかしい。 「キッタ、…………くん」 不意をつかれたような沈黙。 いざ呼び捨てすると、ぼくのキャラクターじゃない気がしてつい、「くん」と付け足してしまった。……完全に失敗だ。相手の顔を直視できない。どうしてそんなことを言ってしまったんだ。男子と勘違いして、初対面のとき彼女をキッタくん呼ばわりしていたことが思い出される。 だって、キッタさんは背も高いし、男のぼくから見てもかっこいいし、あんまり女の子と話している気がしないし、だから、つい、 「や、やっぱやめ――」 撤回してしまおう。 自分でも馬鹿だと思えるほどのしくじりだ。 だから、だからてっきり、ぼくが発言を撤回して、その場がしらけるかキッタさんに笑い飛ばされるかして終わりだと思ったのに。 「うん、そっちの方がしっくりくるな。次からそう呼んでくれよ」 って、キッタさんが微笑むから、 胸が、今、一瞬、変な感じに 「どうかした?」 ――そう聞いたのは相手の方だった。 「……なんでもないよ」 それじゃまた明日、と互いにそっけない別れを交わし、ぼくは自転車にまたがった。ゆるい坂道を下る途中、ぼくはそれまでのように町外れの風景に怖がる余裕はなかった。 ぼくはキッタさんという人のことをなにも知らない。 彼女がなにを考えているのかとか、どういう人なのかとか。 さとるくんがあんなにも執心を見せて探っていたくらいだ。ぼくの問いにもことごとくはぐらかしてくるし、本当の本当は人間じゃないのかもしれない。 でも、不思議なんだけど、美人だからとか、恋愛感情とか、そういうものを抜きにして、あの人のことをもっと知りたいと思う自分がいる。 なんということだろう。 危険な兆候だ。 ぼくはたぶん、キッタカタリに惹かれている。 「知らないクラスメイト」 了 back |