04





 さて、翌日の、つまり火曜日の放課後。
 ぼくはなぜか例のあの、キッタさんが泊まっているホテルに三度め足を運んでいた。
『もう二度とここには来ない。』
 そう心に誓った手前、四日と持たずその誓いを破るのは本意ではない。キッタさんがどうしてもと迫ってこなければ、足を向ける気にもならなかっただろう。……恨むらくは自分の意志の弱さだ。

 九月の四時なんてまだ外は明るいというのに、このホテルのあたりはいやに薄気味悪い。そして晴れていても妙に空気が冷たい。
 キッタさんはといえば、さっきから携帯電話の画面をわき目もふらず見つめている。歩きながらの携帯操作は危険だ。というより、それはぼくの携帯電話なんだけどな……。
「大丈夫だよ。着信はこないだろうから」
 ……酷い言いぐさだ。けれど否定できない自分が悔しい。
 キッタさんの部屋は三階。目的の階に行き着くまで、ぼくらふたりの他は人影ひとつ見当たらない。本当にホテルとして営業しているのか……今は慣れたふうに進んでいく彼女の背だけが頼もしい。片手で鍵を開けた彼女にぼくは素朴な疑問をぶつけた。
「あのさ、キッタさんってここにどのくらい住んでるの?」
「……何か言った?」
 気のない返事だ。
 キッタさんはぼくの携帯電話を手にしたまま部屋中をうろうろとしている。画面が暗転するたび、キーを操作してなにかを確認しているのだろうか。隅々まで歩いたところで、気が済んだのか、ドアのところで立ちん坊になっていたぼくを部屋に招き入れた。

「僕が以前にそのことで君になにか言ったかな」
「いや、こんなモンスターホテル――じゃなかった、ホテルに一人暮らししてるみたいだから、なんとなく」
「一人暮らし、ね……。どうして急にそうなるかな。たとえば家族の引越しが伸びていて、新学期に合わせて僕だけこっちへ先に来ている可能性は考えなかったのかい」
 ああ、そういう理由でホテル暮らしなのか。
 しかしよく考えてみると。よくよく考え直してみると、だ。前回までは、ぼくはキッタさんのことを男だと思っていた。だから特に何とも思わなかったけど……今の状況はまずいのではないだろうか。
 ぼくは今、女の子とホテルの部屋に二人きり。相手の家族は不在。そのことを意識すると急にどぎまぎしてしまう。……やめようやめよう。他のことを考えよう! そうだ、いくらなんでもこの姿のキッタさんを男子と見間違ったりしないぞ。間違えたのはズボンとマスクのせいだ。それにキッタさんは背が高いから、セーラー服より学ランの方が似合いそうなくらいだし。

「……あれ?」

 学ラン、という単語でなにかが引っかかった。
「ここさ、前は学ランかかってなかった?」
「かかっていないよ」
 キッタさんは冷蔵庫を覗きながら答えた。
「そこにはこの前着ていた寝間着と同じやつをかけていたから、きっと見間違えたんだろう。ほら、あの黒い中国服」
「そうだったっけ?」
「初めて見舞いに来てくれたときの話だろう? 暗かったからね。それにあのとき君は僕を男だと思いこんでいたからそう見えただけだよ」
 言われてみればそうだった気がする。木曜日に来たとき、キッタさんは部屋の明かりをつけてくれなかった。暗がりなら、長袖の黒い服が学ランに見えてもおかしくない。第一、キッタさんの制服なら今、ここに着ているセーラー服があるじゃないか。我ながら間の抜けた質問をしてしまった。
 ぼくがそんなことを思っている間に、キッタさんはグラスに二人分のスポーツドリンクを注いでくれた。(ぼくが金曜日に調達した分の残りだろうか)。九月に入ってもまだ暑い。冷たいグラスの感触が今は素直に心地よかった。


「ここからが本題だ」
 と、彼女は自分だけさっさと座ってしまった。ぼくはどこに座るか迷って、窓際の座椅子を引っ張ってくる。いくら相手がそうしているからといえ、人の(それも異性の!)ベッドに乗り上がるほどずうずうしい人間ではない。その間にもキッタさんは話を続けている。
「ここへ来るまでの間に話しただろう。人間以外のイレギュラーな存在が、知らない間に紛れ込んでいるという話は少なくないんだ」


 十人の子供がいつの間にか十一人に増えている。子供たちにはいったい誰が一人増えたのかわからない。不思議なことに、十一人の中に知らない顔は一人もない。そこで大人がやってきてこう告げる。
「そのふえた一人がざしきぼっこなのだぞ」

 キッタさんが話してくれたのはそういう話だった。
 まさにぼくらが今対面している状況と同じだ。
 四十人の教室に、四十一人の生徒がいる。
 ……『教室ぼっこ』とでも名付けてみようか。


「昨日は勢いで幽霊なんて言ったけど」
 ぼく自身の意見を自分でぶち壊すような発言だが、
「他のクラスの誰かの悪ふざけだった、ってことはないかな」
「それを言うなら可能性があるのは、君の語った話が全て作り話だったということだ。君がそういう意見を持ち出すなら、僕は一番にそれを疑わなければならなくなる」
 ぼくが嘘をついていた……そんな馬鹿な。たしかにぼくの話がすべて嘘ならばなんの不都合もなくなる。だがぼくはたしかに体験したんだ。
 キッタさんは目を細めてぼくをたしなめるように見て、ベッドの上からこちらに向かって身を乗り出した。そしてにやにやしながら、
「どうだい、もうそろそろ種明かししてくれてもいいんじゃないか? 僕はもう十分に君の手のひらの上で踊ってみせただろう?」
「オレはそんな、」
 嘘なんてついていない、そう反論しようとした口が固まる。覚えのある感覚だ。ぼくが嘘をついていないことはぼくが一番よく知っている。けれどぼくの話を証明するものはなにもない。やっぱりこの人もぼくの話を信じてくれないのだ、と。諦めが喉を絞めていくように思えた。

「……冗談だよ」
 見かねたようにキッタさんが言った。
「君は、そういうくだらない嘘をついて裏でほくそ笑んでいる人間じゃなさそうだ。僕は少なくとも金曜日に君が語った話には嘘がなかったと信じるよ。
 僕は君の話が嘘ではないことを前提に、この一連の事柄をどう捉えたものかと考えているのさ。だからそう悲愴な顔でこっちを見るのはやめてくれ」
 さっきの台詞はどこまでが本気だったのだろうか。一度湧き出た疑いはなかなか晴れない。相手の真意はわからないから、本当はぼくの話に懐疑的なのかそうでないのか、わからないけれど。
 ……意地悪な人だ。
「今、意地悪なやつだ、と思っただろう?」
「なん……そんなまさか」


「顔に出てるよ。
 ……他所のクラスの人間が一人だけ教室で授業に交じっていたら、誰かが気づくはずだ。今日確認したところだと、そんな話は一切なかった。それに先週木曜日の日直は二人とも女子だった。つまり『日直だからプリントを届けるよう言われた』というSくんの台詞は嘘になる。――となると、一番いい解決法はSくんとやらに会って、直接話をすることなんだけどね。どうにも僕は避けられているような気がするなあ」
 避けられている、とは妙な言い方だ。
「さっきの話のとおりなら、キッタさんの目にも同じクラスの男子にしか写らないんじゃない?」
 座敷ぼっこは知った人の中にいても気づかれないと彼女は説明した。それなら、一日二日しか教室に来ていない転校生なら、元々教室にいる生徒の顔も知らないんだからなおさらだ。
「そうかもしれないね」
 自分はそうは思わないが、という台詞を言外に含むような物言いだ。この人はいよいよその『Sくん』に会おうと考えているらしい。
 ぼくはふと疑問に思っていたことを聞いてみた。
「キッタくんは幽霊とか妖怪とか、そういうの信じるほうなの」
「前は信じていなかったよ。でも今はどうかな。君の言うよう、ここはモンスターホテルだから」
 肩をすくめるようにして、キッタさんは空のグラスをヘッドボードに乗せた。
「いるのかいないのか、自信がない。こっちだとそういうものがいて普通のような気がしてね」
「じゃあさ教室ぼっこ――じゃなくて、座敷ぼっこみたいな人がうちのクラスにいるとして。キッタさんはそいつに会ってどうするつもりなの?」
「この目で確かめたいんだ」
 彼女はきっぱりと答えた。
「この世界に」と、そう繰り返した。「この世界にそういうものがいるのなら、僕はそれについてもっとよく知らなくてはいけない。存在しないとしたら、目の前の怪奇現象を整理するうちに証明されるはずだ。いるにしろいないにしろ、自分で自分を納得させない限り、僕は前に進めない」
 キッタさんにはキッタさんの考えがあるらしい。前に言っていたように『好奇心』なのだろうか。
 ……ぼくにはその気持ちはよくわからない。世の中には関わらない方がいいものは沢山あるし、見てはいけないものは見るべきもの以上に多い――ぼくは、自分の体質を通じてそういうふうに思っている。

「もしものときは君もいることだし大丈夫だろう。
 危険だと判断したら止めてくれる約束だ、『寺生まれのT』くん」
「……どこでそれを知ったの」

 ぼくのあだ名の由来、それをこの人に説明した覚えはない。中学のときからのあだ名だから、最近は由来を知らないで呼んでいる人も多いのに。
「前に怪談好きの人がいてね。その人も同じように呼ばれていたんだ。それで君は、生まれが寺でTくんというんだから、まず間違いなく『寺生まれのTさん』にあやかってそう呼ばれているんだろう。それはともかく、」
 今は目の前のことを、と。キッタさんはベッドの下に手を伸ばした。引き上げられた手には分厚いバインダーファイル。背のところを掴んでいるからいいものの、中身は容量を越して挟まれているようで、今にもはじけそうだった。キッタさんは組んだ足にファイルを乗せ、慣れた手つきでページを捲っていく。――と、その手がとあるページで止まった。

「Sくんの正体にしたって全く検討がついていないわけじゃない。利用するとすれば、僕にあって君たちにないもの。あるいはその逆――
 ほら返すよ、とキッタさんはぼくに携帯電話を差し出した。預けていたことをすっかり忘れるところだった。携帯を受け取り、念のために受信がないかを確認する。
 案の定ゼロ件。
 それも当然だ。携帯の表示は圏外になっていた。
――君たちにあって僕にはないもの、だろうね」



*****


 それから二日間はキッタさんの方からの接触はなかった。ふたりとも学校には来ているので教室で顔を合わせはするが、お互い会話に発展しない。どちらかといえばこれまでが異常だっただけだ。ぼくとしては日常に戻ったと言える。
 ……ただ、なんの音沙汰もないとそれはそれで物足りないものがある。

 動きがあったのは木曜日の夜だ。ぼくのところに一通の電話があった。
 電話の相手はいやに不機嫌な声で、
「Tくんこれ、どういうこと」
 そんな第一声から切り出した。
「なんか妙なことになってんだけど。Tくんあの人になに吹き込んだわけ? それともキッタサンのがTくんになんかしたの? 状況のみこめねえんですけど」
「状況をのみこめないのはオレも同じだけど……ああそうだ、キッタさんから伝言があるんだ」
「はあ? 誰に」
「きみに。自分のことでぼくに連絡してくる人がいれば、伝えておいてほしいって、キッタさんが。――ええと、『話があれば金曜日の放課後、教室で会おう』ってさ」
「…………」
 十秒ほどの沈黙の後、無音のまま電話は切れてしまった。




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